第4話-1 「カラマーゾフの兄弟」 ドストエフスキー著 原卓也訳

ドストエフスキーの作品の難解さ・読みづらさには様々さまざまな要素があるが、ロシアの春、雪が溶け始め大地が粘りある泥濘ぬかるみと化したような重苦しいストーリー展開と、書き手が意図的に使う複数の視点、そして巧妙な文体のわなに読み手がいつの間にかまってしまうのが一番の理由ではないだろうか?

 いくら慎重に読み進めても、作者の仕掛けた重い泥濘はいつの間にか読み手の脚を取り、すべらせ、体力と気力を奪っていく。

 登場する人物たちの性格にも要因がある。彼らは時に異様なまでに執拗しつよう、時にあきれるほど単純、そしてその主張はときおり全く論理的でないのに、どこか筋が通っているようにも見える。そうした登場人物の人間的な複雑な「それぞれの論理の筋」が妥協せず、切れぬまま交錯していけば、からまってほどけなくなるのは道理である。

 登場人物たちは時として鈍重で善良に思えるときもあれば、その裏返しのように、こすからく悪意にも満ちているようにも見え、そのいずれの人物もが、「ロシアという土地と不可分に結びついたドストエフスキーという作家」に内在している、分裂した彼自身の分身アバターのようにも見える。重苦しい展開に交錯する重い情念とその重力に歪む論理、織りなす絡まった愛と憎悪・・・。それを感じただけで読者が二の足を踏みたくなるのは仕方あるまい。

 また彼、ドストエフスキーにしても、トルストイやプーシキンにしても、ロシアの文筆家はフランスという国とフランスの小説に憧れを抱いているふしがあって、折々にフランスの話が、憧憬に近い筆致とともに描かれている。これはピョートル大帝の治政でフランス文化を奨励し、上流貴族がフランス語を学んだという歴史によるものであろう。トルストイの「戦争と平和」などはその極致であろうが、ドストエフスキーの「カラマーゾフの兄弟」においてもフランスの話やフランス語は様々な場面で引用され、或いは使われている。

 登場人物の一人、あの奇妙な人物で、殺人の容疑者の一人であるスメルジャコフもフランスに行くことを夢見ていたように描かれている。(「わたし自身だって、ことによると、そのうちヨーロッパのああいう幸福なところ((フランス))にいけるようになるかもしれない」)。そう思いつつ彼はフランス語も勉強していたのである。それは筆者を含め、その時代のロシアの、ある程度教養を備えた人の一般的な思いだったのかもしれない。

 そうした憧れと文化的影響もあってか、ロシア文学は往々にしてフランスの小説と同じように「長大」である。しかしフランスの小説、例えばバルザックやロマン・ロラン、或いはプルーストのように「陽光に包まれた描写」が主ではない。ロシアの冬のように鬱陶しく暗く、降り積もった雪のように重い情景と文体で読者を悩ませる。同じ長い小説ならば、フランスの日差しに溢れた小説の方がまだ読み通しやすい。そういう事もあって歳を重ねてからはロシア文学は敬して遠ざけてきた。(例えば長編ではないがジャン・コクトーの「恐るべき子供たち」などは同じく雪の風景を描いていても、ドストエフスキーの描くロシアの冬景色とは全然異なっている。降り、積もっている雪の「重さ」さえ違っているかのようだ)


 だが、今回、僕はこれまでのそうした感想と少し違う思いを抱きながらこの小説を再読した。

 僕は3,4冊の小説を平行して読む癖がある。「カラマーゾフの兄弟」を読んでいるときは短編の方にエッセイを書いた(あるいはこれから書く)「マラドールの歌」(日本語訳)"The verse of Evil(悪魔の詩) "(英語版)"Mas alla del invierno(冬の向こう側)"(スペイン語版)の三冊といっしょに読むことになった。

 この4冊を平行して読むと、日本語に翻訳されており、(かついかに複雑であっても)きちんと筋立ストーリーがある「カラマーゾフの兄弟」が他の三冊に比べていかに読みやすいことか、と気づかされる。その筋や文体が粘着質であろうとなんであろうと、主人公たちはっきりと、ロシアの大地に立ち、祈りを捧げ、嫉妬をし、恨み、暴れ、享楽的な生活をし、女を愛し、人を殺し、裁判で内心をぶちまけ、検察官と弁護士は職務としてそれぞれの意見を長々と陳述する。泥濘のようなしつこさはあってもそれは確かに人間の「営み」の情景なのである。

 それにひきかえ「マラドールの歌」はMy Bests(僕の好きな短編小説)の方にも既に書いたが、そもそも書き手と主人公、或いは他の登場人物との関係がまるで不確かで、その曖昧模糊あいまいもことした霧の中をかき分けているうちに終末を迎えてしまう。まことに不思議な「小説ないし、散文体詩」であり、中味も文体も朦朧もうろうとしていて、逆にある種の読み手はそこに惹かれるのだろう。"The Verse of Evil"はまだ読んでいる途中であるが、サルマン ラシュディの小説の非現実性は、ロートレアモンとまた違った夢幻のような世界(サタンへの転生や蝶に包まれる少女)を描いており、この2つの小説を一緒に読むのはいささかきついものがあった。僕の頭の中には未だに空を飛ぶロートレアモン風の殺人鬼と、ラシュディが描いた悪魔がシトロエンに乗って彷徨っている。

 残り一冊は筋はごく平明なのだが、スペイン語の原文と言うこともあり、それはそれで多少の苦労はある。

 というわけで今回の読了に当たっては相対的に「カラマーゾフの兄弟」は「読みやすかった小説」ということになったのだが、だからといって絶対値としては「読みやすい」わけではない。時に目をこすりつつ読んだのは昔と変わりない。ドストエフスキーはこの小説以外に「罪と罰」「白痴」「賭博師」などを読んだのだが、いずれも同じように泥濘に足を取られつつ、何とか読み終えた記憶がある。

 僕個人の経験に照らしてで申し訳ないけど実はドストエフスキーというのは恐らく世上で言われているほど日本で読まれてはいないのではないか。この重苦しい小説は手に取って読み始めることはできても、ゴールまで辿り着けるのは市民マラソンランナーが42. 195キロを走りきるより確率は低いのではないだろうか。また例え、ゴールに辿り着いたとしてもその道筋は曖昧で果たして正しいコースを走り切れたのかさえ良く分らないのではないだろうか。


 今回読み直した際に改めて認識したのは、ドストエフスキーの中でも特にこの小説は重層的な構造をきちんと整理しないと、理解しにくいということだった。

 長編とはそういうもの、といえばそうなのだが、特にこの作品は構造そのものと複数に亘るテーマが重層的に絡み合っているので、通して一度読むだけでは場面転換ごとに読者は惑い、長々とした説明や科白セリフの中で道を見失う。それだけでなく、筆者も登場人物も二重・三重に思いを屈折させるので、何が真実か、何が本当の思いなのか、読み手は様々な小径に仕掛けられた迷路に次第に惑わされていく。

 だが、主人公たちの構成、場面の転換などの把握をすることにより格段と理解の度合いが違ってくる。つまりこの小説は何度か「読み直される」ことを前提とした小説なのだと考えた方が良い。それも粗筋を追うだけでは済まない複雑な「構造」があるので、そこも整理しなければならない。

 一度土をすきで掘り起こしただけでなんとかなるほどロシアの永久凍土でできた大地は甘くない。ということで僕自身の備忘録として、またこの小説に挫折した人たちへの参考になるかもしれないという思いでその「人物像」「場面転換」などに基づく「構造」を様々なレベルで書き留めておくことにしたいと考えている。

 取りあえず今回に於いては「人物像の構造」「場面転換の構造」、そして「宗教論の構造」の三つから解き明かしていってみたい。そしてその構造の中から「カラマーゾフ」が象徴するものを抽出していってみたいと思う。(これはなかなかの作業で、漸く目処がつき始めた今となって、やや後悔している。この労力を果たして創作ではなく、随筆に割くべきものであったのだろうか?、と)


 それではまず小説の登場人物の構造を解き明かしていこう。


1)登場人物の構造(中心から周辺へ)

<カラマーゾフ三兄弟>

 この小説は「三兄弟物語」という形式を取っている。例えば「三匹の子豚」とか「ブー・フー・ウー」(これは三匹の子豚を原案とする)とか、或いは同じロシアの作家であるトルストイの「イワンの馬鹿」にみられるように、三人の兄弟にめいめい「癖の強い人格」を設定して物語の基本構成を作る形式である。

 「イワンの馬鹿」では長兄は乱暴者(軍人)、次兄は吝嗇家(商人)そして末っ子は純粋な子供(信心深い人間)という人格の付与を行っていて、このパターンが典型的だと言えよう。

 もちろん、ドストエフスキーの小説ではそれほど単純な性格には描かれて いないが、構造を単純化してみれば、長兄のドミートリイ(ミーチャ)は元軍人、次兄のイワン(ワーニャ)インテリゲンチャであり、末っ子のアレクセイ(アリョーシャ)は僧院で見習い僧として生活しており、設定としては似通っている。

 この昔物語的(出版は18世紀頃だがそれよりも昔から伝承されていた)な「形式」を僕はドストエフスキーが意図的に採用したのだと考えている。因みに「イワンの馬鹿」は「カラマーゾフの兄弟」よりも後に書かれた(7,8年後)のでトルストイの設定をドストエフスキーが踏襲したわけではない。

 逆はどうなのか、と言われるとそれは良く分らないが、イワンの馬鹿もある意味「宗教的」な物語であり(若干」、原始共産主義的な趣もあるが)読み比べてみると面白い。


 さて、「書き手」は主人公を末っ子のアレクセイと名指し、かつ彼は「奇人」あるいはユロージヴィ(神懸かり行者)であると明言している。だが、実際の所は、三兄弟、全ては奇人でありかつこの小説の主人公だと考えるべきだろう。「書き手」がいかに主張しようと、この小説のタイトルは「ユーロジヴィ」ではなく、あくまで「カラマーゾフの兄弟」なのである。ただ、この三兄弟形式の場合、ほとんどは「末弟」が実質的に「本来あるべき性格を有した主人公」という設定になっている場合が多く、その意味で「書き手」があえてアレクセイを主人公と指定した、ということだと理解しておきたい。後にこの兄弟が付与されたエトス・ロゴス・ミュトスという役割についても多少論じたいし、その中でミュトスが主人公という立場にある、という意味についても触れたい。

 但し、この解釈に当たっては一つの重要な前提がある。それは後に述べるが、もしかしたら、実際にはこの小説は本当にユロージヴィであるアレクセイを主人公にした小説の前段に過ぎず、実際は「ユロージヴィ」という小説が書かれた可能性もある、ということであり、それは後に「登場人物」の締めくくりに出てくる「書き手」の項で説明することになる。


 さて、その兄弟のうち、長兄は女のことで父親と争い、結果的に状況証拠から父親を殺した犯人として捕縛ほばくされ法廷へと引き出される。それに対して次兄も末弟も殺人を犯したのは長兄ではない、と擁護する。これは一見、「兄弟としては正しい友愛的な行動」のように思える(実際にはイワンは長兄を憎んでいるが別の理由でそれを表に表わさない)が、いかに自分たちをないがしろにしたとは言え、死んだのは彼らの父親であるのに、それに対する悔やみの気持ちはまるで描かれないのは特異的である。

 更に父親と長兄が争った「金」や「遺産」に対する執着はその二人の兄弟には全く見られず(長兄が犯人ならば遺産分割において有利になるのに)兄を擁護する様子には父との血縁さえ疑われるほどである。(そもそもこの犯罪が長兄と父親との間にある確執・・・それは女性を巡る確執のように思えるが本質的には金を巡る確執なのである。その要素が兄弟間の間になった途端に消滅するのが不思議ではないか)この視点は更に後半、ある男によって指摘され、それはとりわけ次兄であるイワンを苦しめる要素になる。

 前提として父親が殆ど育児放棄のような扱いを子供に対して行ったとは言え、彼らの父親に対する態度はやはり特筆すべき描き方として記憶しておく必要がある。長兄こそ父親と争っている(それは自分に対する扱いではなく、金と女のことではあるが)もののどの兄弟も自分に対する愛情の欠如を父親に対して非難をしていない。

 その時点で父親との関係は既に「親子」や「大人と子供」の関係では無く「大人と大人の関係」になっているからだ。恐らくその点を僕らは余り意識せずに見逃している。だが、これはこの小説或いは背景を成している社会を理解する重要なファクターである。だからこそ、本来なら「異母兄弟」として往々にして、「対立する」筈の関係に無い。おそらく日本人がこうした親子兄弟関係を描けば、全く(安易にかつステレオタイプ的に)「違う構図」になる筈の構成の違いを意識して読むことが求められる。

 この違いは恐らく「兄弟」を描くときに「父親」を軸にして描くのか、母親を軸にして描くのかの違いでもあろう。往々にして「母親」を軸にして異母兄弟を描くと「遺産相続争い」というステレオタイプに陥るもので、そうした文化の違いも小説を読む際のたのしみの一つである。

 もっともアレクセイがドミートリイに対して愛情を抱いていたのに対し、イワンは「この兄をまったくきらいで、・・・容貌にいたるまで、ミーチャ(ドミートリイ)のすべてが、極度に反感をそそる」のであり、帰郷した日に会った、ミーチャと面会したが、少なくともその時点では「兄の有罪に対する確信を強めた」のである。それでもなお彼が脱走を使嗾してまで兄を助けようとする真意は那辺にあるのだろうか?


 ちなみに人名の後に表示した()内で示されるロシアにおける愛称の使われる頻度、或いは誰がこれを使うのか、などについても調べると、その人物の人となりが分かってくるのもロシア文学の一つの特性である。(但し一方で、ただでさえ長くて覚えにくいロシアの名前とその愛称の関連の複雑さは普通の日本人には理解できず、むしろ読みにくさの要因にもなっているのは事実であろう)

 ワーニャという愛称(イワン:次兄)は殆ど使われず(彼の父親が使うだけ)、ミーチャ(ドミートリイ:長兄)は父親、弟、女達が使う(時折書き手も使う事がある)。それに比較するとアリョーシャ(アレクセイ:末弟)は「書き手」も圧倒的な比率で使うので頻出するし、リーザ(アリョーシャが結婚を申し込むホフラコワ家の娘、足が悪い)のような小娘にも使われている。その事実によって末の弟が親しみやすい人物であることに対し、次兄のイワンが極めて取っ付きにくい人間だと分かる仕組みにもなっている。

 一方でアレクセイに関して言えば、彼に石をぶつけた中学生の同級生からは「カラマーゾフさん」と呼ばれている。それは中学生達にとって「その時点では」彼が崇拝すべき存在になっていることと無関係でなく(最初に出会った時は「あんたはカラマーゾフだろ?」呼び捨てにされているのだが)、この小説の最後に叫ばれる「カラマーゾフ万歳」という言葉を引き出すために重要な設定である。

 ただ・・・他方で「書き手」はこの小説の冒頭でアレクセイのことを「人間として彼が決して偉大ではない」とも釘を刺している。このように読めば読むほど、僕らは登場人物の像の焦点を結ぶのが難しくなる。こうした妙な重心移動はドストエフスキー独自の書きようで、小説を書きつつ、その視点が(恐らく意図的に)揺れ動いていることを顕著に表わしているといえよう。

 こうして作者は周到に読者を迷路ラビリンスへと誘うわけで、この小説の重層的な構造や工夫はなかなかのものなのだ。人物像を単純化すると読み手にとっては読みやすい(善人はあくまで善人なのだから)が、現実からは離反する薄っぺらいものになりかねないが、ドストエフスキーに限っては逆に人物像を明確にフォーカスで結ぶことは極めて困難である。


  殺人犯として逮捕されるドミートリイにしても父親の粗雑な知性と母親の粗暴さを引継いだ単なる凶暴な人間として描かれているかと言えば、実は異母兄弟に愛され、女性に横暴そうでありながら根は優しい人物のように描かれている。どちらかというと意志の弱そうな母親の子であるイワンは無神論者で強固な知性を備え、それでいて異母兄弟の兄も実の弟も愛している。むろんアレクセイは信心深い人物として描かれており、フョードルという「カラマーゾフ的」な性格は引継がれつつ、(少なくともまだ彼らが父親の年代に達していない時点に於いては)その粗雑さはめられているようである。


<父親:フョードル・カラマーゾフ>

 この主人公たる兄弟たちの構成を理解した上で、彼らの周囲の登場人物として最初にリストに付け加えるべき人物は三兄弟の父親であるフョードル・カラマーゾフであろう。この端倪たんげいすべからざる人物こそは、「カラマーゾフの兄弟」という小説のじくであると考えるべきだ。単なる色好みで乱暴な、そして家族など顧みないこの男こそは「カラマーゾフ的」と表現される「小説の根幹となる性格」を持った人間である。

 そうした人物が往々にして着せられる無知・粗暴・野卑という単純な衣装をこの男は纏っていない。いや、粗暴で野卑ではある。だが「俗物で女にだらしがないばかりか・・・常識はずれの・・・自分の財産上の問題を処理する上では大いにやり手」という著者の指摘を読み手は必ずしも額面通りに受け取ってはならない。そして「書き手」が思わず書き記した「何か一種特別な、民族的な常識外れ」という言葉は見逃してはならない。なぜなら、それこそが「カラマーゾフ的な要素」を定義する重要な鍵であるからだ。

 この男はまんざら無教養でもない。さまざまな場面で彼は引用を行う。幾つかの例を挙げてみよう。

*最初の逐電した妻が死んだときの発言「今こそ去らせてくださいます」(ルカによる福音書)

*アリョーシャとの会話「わたしの眼に映じたのは、ブラシの影で馬車の影を拭いておる馭者の影であった」(シャルル・ペローの詩)

*ゾシマ長老との面会前「正確さこそ帝王の礼儀」(ルイ18世の座右の銘)

*修道院長との食事前「唇にキスを、胸には短剣を」(シラーの「群盗」:ちなみに彼は「群盗」の愛読者らしく、次兄を「尊敬おくあたわぬカール・モール」長兄を「もっとも尊敬できぬフランツ・モール」とその登場人物になぞらえている)

 時にその引用は誤りであったり、我田引水がでんいんすいめいたりして周りを苛立たせる。しかし、彼は「フランス語」を使いplus de noblesse que de sincerite と話し相手を批判したりする語学も、教会の偽善性を批判したりする知性も持っているのだ。ただ、それは断片的で、決して知的・論理的に「構成」されることはなく、上品に使われることはない。その意味でplus de sincerite que de noblesseだという彼自身の自己評価は、「誠実」の意味は若干人と異なっているが、ある意味正しい。

 この「無駄な教養」を濫用する性格は主に長兄に引継がれる。次兄が教育を糧にそれを咀嚼して自らのものへと変じているのに対し、父親と長兄の知識は「記憶」を引っ張り出してたとえに用いるだけである。その例は下記のような場面で使われる。

*アリョーシャとの会話で「人間よ、気高くあれ」(ゲーテの詩「神性」)

*同じく「卑しい世界で人が心で立ち直るためには」(シラーの「エレウシスの祭」)

 彼の引用は父親のそれに似て、どこか空疎で、知識をひけらかすだけの力しか無い。

 同じ引用でも次兄イワンの

*居酒屋でのアリョーシャとの会話「春先に萌え出る粘っこい若葉」(プーシキンの詩)

*同じく"S'il n'existait pas Dieu,il faudrait l'inventer"(万一神が存在しないなら、神を創造せねばならぬであろう)(ヴォルテールの書簡)

*その続きでイワンが自らの著作に関して話す

 「その日、その時は子も知らない。ただ父だけが知っておられる」(マタイによる福音書)

 「心の告げることを信ぜよ、天よりの保証はすでになし」(シラーの詩)

「十字架の重みに苦しみながら奴隷に身をやつした天上の主は・・・」(チュッチェフの詩)

 などは、あの有名な「大審問官」の一節としてこの小説中の「もう一つの独立した物語」となるほど咀嚼をされ、知的に再構成された中での引用だ。ドストエフスキーにとっての「知性の有り様」はそこに「明確な線引き」が行われている。引用という一種の「教養」の中に、質の線引きをするというわかりづらい方法を読者は見抜く必要に迫られる。


 この父親は最初の妻アデライーダ・イワーノヴナ・ミウーソワ(名門貴族の娘で美人)とは「いつ果てるとも知れない争い」「つかみあいの喧嘩」をした挙句(但しこの喧嘩では「殴るのはフョードルではなく、激しやすく勇敢な、色の浅黒い、気短かで、並外れた体力に恵まれたアデライーダ」のほうだったらしいが)、暴力を振っていた方の彼女は師範出の教師と逃げだしたのである。この妻が死んだことによって彼は二度目の結婚をすることが可能になる。ちなみに一度目の妻が死んだとき、「彼は往来を走り出し、嬉しさのあまり両手を空にかざし」たというものもあれば、「幼い子供のようにおいおいと泣きじゃく」ったという噂もあり、「書き手」は「そのどちらもありうることだ」と結論づけた上で、「われわれ自身とて同じこと」と敷衍しているが、さすがに二律背反した感情をもつ一般の人間でもこの結論には同意致しかねる。これはむしろカラマーゾフ的な性格の表れであり、もしも筆者が同じ感情を持つならそれは筆者が「カラマーゾフ的な性格」を有しているわけで、現実にはドストエフスキー自身の性格を表わしているのであろう。

 そしてフョードルは2番目の妻ソフィア・イワーノヴナ(素直でやさしい清純な、かつ美しい少女だったのだがみなしごとなり、経済的困窮から我が儘な未亡人の養女となった。そこで精神的迫害を受けて自殺を図った)を「首つり縄からたすけおろしてやった」上で、恩を売りまくり癲狂病てんきょうやみにした挙句、結局死なせてしまう(その上「二度目の妻をどこに葬ったか忘れてしまい息子に教えてやることができなかった」、というとんでもない男である。(因みに男性の周りに性格が対照的な女性を配置するのはこの作家の癖のようで、ドミートリイにも対照的な二人の女が配置されている)

 無教養だが朴訥ぼくとつだという、僕らがロシア人に抱きがちなステレオタイプから大きくはみ出た、「心がねじけてはいたが、涙もろい」この男こそがこの話の兄弟達をうみだし、そしてその人生を混乱させた「大本おおもと」であることは疑いない事実なのだ。

 更にその複雑な性格が、三人(ないしは四人)の子供たちに分割されて受け継がれているのである。粗暴でありながら教養や宗教に関心を持ち、実は「神や死後」を願いつつ(死や神に関して「とにかく何も無いって訳はあるまい」といいつつ)信じ切れず(死や神はない、と言い切った次男に「どうも、イワンの方が正しそうだな」)、陰険で陰湿、そうした性格がばらばらに三人(ないし四人)に受け継がれている。「カラマーゾフの兄弟」を生んだのは実にこの男なのだ。


 彼は長男であるドミートリイと「女」(グルーシュニカ)の事で争っているのだが、その女が忍んでやってくると信じていた夜、何者かによって撲殺され、その圧倒的な存在感を突然失う。


<もう一人の兄弟(?):スメルジャコフ>

 「三兄弟」構造を破壊する要因として登場するスメルジャコフという男がもう一人の主要な登場人物である。このスメルジャコフは「カラマーゾフの兄弟」の一員である可能性が濃厚な人物である。

 彼の母親は、「白痴的」な娘リザヴェータ・スメルジャーシチヤャ。この「スメル」という単語は英語と同義の「臭い」と同時に「スメルド」という農奴という意味を有しており、その名を持つことによって母子共々下層の人間という宿命を背負わされている。(現に彼は死ぬ直前にイワンから「この臭い悪党スメルジャーシチヤャめ」と悪罵されている)

 かつその母親がフョードル・カラマーゾフに犯され(これは事実かどうか最後まで留保されているため本当に彼がフョードルの子なのかは分からない)、カラマーゾフの浴室で赤ん坊を産んだ(母は死亡)のを、フョードルの従者、グリゴーリイによって発見され、この子供はそのままカラマーゾフ家の使用人として同じ屋敷の中に住むことになる。その性格は親代わりのグリゴーリイによれば「およそ感謝の念を知らずに育ち、いつも隅の方から世間をうかがう、人見知りの激しい少年」であり、「少年時代には、猫を縛り首にして、そのあと葬式をするのが大好き」な人間・・・。こうした人間が「現代日本の社会で、少年犯罪を起こす酒鬼薔薇聖斗のような人間」が、実は目新しい存在では無いことを無意識に喝破している。彼は、別の場面でも密やかに動物虐待の「嗜好性」を見せている。そしてそれは別の悲劇、イリューシャの死とも繋がっていく。コーリャ少年がアレクセイに語った内容にその一端が見える。イリューシャが病気になった理由の一つは彼がジューチカという犬に「ピンをパンに」仕込んで丸呑みをさせるという悪戯をし、犬の苦しみに良心の苛責かしゃくを感じたせいなのだが、この悪戯を考えついたのも他ならぬスメルジャコフだというのだ。

 彼は三兄弟ないしは彼を含めた四兄弟の父、フョードル・カラマーゾフの殺人者である可能性を残したまま(猫を殺す人間がいずれ人間を殺す可能性が高いというのが事実ならば、彼が犯人である可能性は極めて高いことになる)、物語の中途で自死する。これによって、フョードル・カラマーゾフの死の真相はますます闇の中へと消えていく。


<対照的な死を迎える二人:ゾシマ長老、イリューシャ>

 その外殻に居る存在としてゾシマ長老とイリューシャの二人を忘れてはならない。この二人を同一の土俵に置いて、かつ重要な登場人物として論じるのを奇異に思うかも知れないが、この二人はアレクセイを軸に対比されるべき人物像として作者は描いていると思う。

 僧院の長老として人々の尊敬を集め、アレクセイにとっての恩人でありまた彼を導くゾシマ長老、アレクセイに石を抛り投げ怪我をさせ、仲間達と諍いをした挙句、病で死んでいく子供のイリューシャ。一見、共通点はないが、ドストエフスキーはこの二人の死を対照的に描く。その鍵は「死臭」なのだ。

 ゾシマ長老は死んだ翌日「ひつぎから少しずつであるが、時間がたつにつれてますます顕著に腐臭がたちのぼり」彼を崇拝していた人々を戸惑わせ、或いは「心正しき者の堕落と恥辱を好む」人々を喜ばせる。聖者であり、腐敗どころか「芳香」さえ漂わせるべき存在は実はただの腐っていく死体に他ならない、ということをドストエフスキーは冷徹に描く。もっともドストエフスキーはゾシマ長老に対して否定的な感情を描き出しているわけでは無い。自身は「長老制度」に懐疑的な書き方をしつつも、人物としてのゾシマ長老はアリューシャを導く存在として描かれている。ならば、なぜ彼は「腐臭」をもって描かれなければならなかったか。ここら辺が実際、ドストエフスキーを解釈するにあたって必要な点ではないか、と僕は思っている。つまり、ゾシマ長老がどれほどロシアの民衆にとって魅力的な存在であり、かつアリョーシャを導くような人物であっても、その神格化には否定的なのだ。

 その一方でアレクセイの兄、ドミートリーによって打ち据えられた二等大尉スネギリョフの息子、イリューシャは巻末近く、死を迎えたときの描写として「顔の目鼻立ちはほとんどまったくかわって」おらず「ふしぎなことに遺体からはほとんど臭気も漂ってなかった」上に「大理石で刻んだような両手が、とりわけ美しかった」とアレクセイ自身が見るのである。その時のアレクセイの脳裏にゾシマ長老との対比が浮かばなかったはずはない。だが作者はそれに敢て触れないまま、この場面を描き終える。ゾシマ長老の神格化を否定して置いて、ではなぜ、この少年の死は美しく描かれるのであろうか?

 「僕たちはみんな死者の世界から立ち上がり、よみがえって、またお互いにみんなと、イリューシェチカとも会えるって、宗教は言ってますけど、あれは本当ですか?」というコーリャの問いに「必ずよみがえりますとも」と答えを返すアレクセイにとって、それは必然的な現象であったからなのだろうか?

 この小説の冒頭で死を迎えるゾシマ長老と、この物語の最後で死を迎えるイリューシャもまた、二軸の対立構造を構成していると思って良いだろう。それは後述する別の第3の構造、即ち宗教論に関連していく。

 そしてもう片方のイリューシャ、その登場においてアレクセイに「石を投げつけ」たのは、その父親、即ち二等大尉スネギョリフが「フョードルの代理人としてフョードルの手形をグルーシェニカが引き取りそれをたねにドミートリイに訴訟を起こしてくれ」と頼みにいき、それが故にドミートリイに飲み屋で「顎ひげをつかんで往来にひきずり」だされ「公衆の面前で散々になぐりつけられた」ことで「カラマーゾフ家」を恨んだことによる行為であり、彼の意識の中では「カラマーゾフ」は分離しない「一つの厄災の集合体」(フョードルがスネギョリフに命じたことを含めて)として存在し、またアリョーシャの訪問によってその考えが「氷解すると同時に病に冒され死へと向かう」という命運を課せられた存在なのだ。

 また一方でイリューシャ少年は父親を揶揄からかった学校友達のうち、一人の少年の腿を刺す。その少年こそは「カラマーゾフ的なもの」を承継する役割を担わされた「コーリャ」という少年で、一種そこには意図せざる輪廻のようなものが存在している。それについては後々、述べることとしよう。


<ドミートリイを巡る二人の女:カテリーナとグルーシェニカ>

 父親と兄弟達、とりわけ長兄を(意識して、あるいはせずに、に関わらず)混乱に陥れ、犯罪、ないしはそのすれすれの所へと誘う女性は二人。

 その一人カテリーナ・イワーノーヴナ・ヴェルホフツェワ(カーチャ、カーチェニカ)ともう一人のアグラフェーナ・アレクサンドロヴナ(グルーシェニカ)は、対立的な性格を以て描かれる。「書き手」の表現によれば「プライドの高い貴族の令嬢と≪高級淫売≫という二人のライバル」である。

 カテリーナは少尉補であったドミートリイが赴いた国境守備隊の中佐の妹娘、小さな街では名士であった中佐を父にもち、美人で「品行方正・知性と教養をそなえた人間」である。だがその父親が敵によって罠にかかり公金横領の疑いを掛けられたとき、(実際は横領したのではなく、使い回して金利を稼ぐネタにしたのだが、その手先、ないしは代理人に裏切られた)カテリーナが自分のところに来ることを条件に自分の父親からせしめていた金(5000ルーブル)をドミートリイはそれに充てても良い、と彼女の姉を通じて伝えていた。

 ドミートリイと彼女はその前に二度だけ会って、互いに強烈に意識しあいつつ、冷淡に振る舞っていた関係で、なぜその彼女に対してそのような提案をしたのか、それは曖昧にしかかかれていない。ただ、ドミートリイが彼女を意識し、それを征服したいと望んだ(必ずしも性的な意味では無く)ことは確かである。

 だが彼女が自分を押し殺し父親のために金を調達するためにやってきたとき、ドミートリイは彼女の行為の「崇高さ」に感激し、翻って自分の「卑劣さ」に打ち抜かれる。その時、ドミートリイにとって、彼女は性愛の対象から、1ランク「上の存在」になるのだ。(書き手の表現を敢て使用するならリーズがアレクセイに語った言葉、「対等の立場だったわ。今後は一段上に奉って尊敬するわね」が相応しいであろう)このランクこそが、二人の関係に齟齬そごを生む要因で、この小説全体ストーリーの原動力になっている。

 そして彼がその齟齬を認識して手を引いたことは、彼女の「誤解を生んだ」。もし、彼が金を渡したことでカテリーナに恩を売ったかのような行動に出たら、彼女は万一彼を受け入れたとしても決して彼にたいして「気も狂うほど愛しています」などと言うことは無かったであろう。

 自分の行動が与えて発生した彼女の熱愛に「品行を改めるという大変な約束」を「むりやり」させられ婚約者になったドミートリイにはランクが異なっている彼女の愛に応えられることはできない。だが、それはむしろ「崇高な感情」がドミートリイに残っているから、なのだ。逆に言えば、もしカテリーナとのことがなければ、彼はもう一人の女に狂うことはなかったかもしれないし、そもそも自分の卑劣さなど感じずに、大金を遺贈されたカテリーナを騙すことも、或いは結婚して浮気をすることだってできた筈なのである。そうしたら悲劇はおきなかったのかもしれないし、或いは別の悲劇が待ち構えていたのかも知れない。

 いずれにしろ、ボタンを掛け違えたままの男女三人はもつれたままドストエフスキーの描く泥まみれの坂道を転がっていく。


 一方の「彼を狂わせた」女。そのグルーシェニカは、そもそもドミートリイに取って「強烈な印象を与えるような女じゃな」かった。もともとこの女に目を付けたのは、父親で、彼女の素性は「孤児で、サムソーノフという老人の囲われ者」である。その女に父親の手先(代理人)がドミートリイ名義の手形を渡して、ドミートリイを脅そうとしたのがきっかけで二人は出会ったわけで、そもそもドミートリイは「ぶん殴りにいった」のに、その「女の家に尻を落ちつけちまった」という「ミイラ取りがミイラになる」みたいな関係である。

 そして彼はその女を愛しつつ彼女を「ペテン師の悪女、どえらい利息で貸し付けて、血も涙も無く稼ぎまくる」「あの牝猫」と呼ぶ。まさにカテリーナとは正反対のタイプの女性なのだ。

 それを明確に表現したのが、カテリーナの家にアレクセイが赴いた時の状況であろう。そこにはグルーシェニカが先に訪れて、そして彼女はカテリーナに「(ドミートリイのところに)お嫁に行きません」と明言していたのだ。だから、カテリーナは彼女を「天使」「この上なくファンタスティックな女性」と表現したのだが・・・。

 グルーシェニカはやってきたアレクセイのまえで前言を翻す。そして、彼女はカテリーナの手にキスなどしなかったが、カテリーナはキスをしたのだ、という事実を持って彼女を辱めようとした。激怒したカテリーナは

「出て行くがいい、淫売!」

 と叫び、グルーシェニカはしれっと反撃する。

「淫売で結構ですわ。自分だって、若い娘の身でお金目当てに男(ドミートリイ)のところへ夕方忍んでいらしたくせに」

 牝猫のように逆毛を立てて啀み合い始めた二人を引き離したアレクセイに対し、グルーシェニカは

「こんなシーンはあなたのためにしてあげたのよ」

 と言い捨てて、家を走り出ていく、そんな情景が描かれている。


 単純化するとドミートリイはカテリーナという聖女にちょっかいをかけ、妙な成り行きから彼女の側から告白され、(おそらくはそれに耐えきれず)正反対の女に逃げた。それが父親が狙っている女だった、という構図である。この構図は確かに「劇場的」で、冷静に考えると「そんなことあるのか?」と思うのだけど、読んでいるうちは泥濘に脚を取られつつ、否応なしにその小径を僕らは歩んでいかざるをえない。それこそがドストエフスキーなのだ。

 その上、作者はドミートリイに「(弟の)イワンは彼女(カテリーナ)に惚れちまった」と言わしめる。それによってドミートリイは「カテリーナには戻れない」という心理的バリアを自ら作る仕掛けができあがる。こうして問題は周囲を巻き込みますます大きくなり、泥濘は更に深くなっていく。

 だが、いくらなんでも殺人の容疑を掛けられたなら・・・、女は逃げ出すのではないだろうか?それも父親殺しである。少し前までは日本にも「尊属殺人は一般の殺人よりも重罪である」という時代があったのだが、今となってはもう誰も覚えてさえ居ないかも知れない。(父親が「尊」属だという意識さえないかもしれない)だがドストエフスキーの生きた時代、そしてロシアという家父長制の強い社会でならなおさら風当たりが強く、女達は彼を忌避するのではないか?と考えるのが普通である。

 だが、彼女たちはドミートリイが殺人容疑を掛けられても、なお、というか、一層激しく彼の周りを回る衛星となっていく。それも彼女たちだけでは無い。裁判の傍聴に来た「ほとんどすべての婦人が、少なくとも圧倒的多数の婦人が、ミーチャ(ドミートリイ)の肩を持ち、無罪を支持した」と書かれているのだ。それは「大多数の男性は、断然、犯人に厳罰を望んでいた」という明確なコントラストによって、ロシア社会にある、家父長制や男尊女卑による「社会的亀裂」の存在を表現することになっている。


 逮捕から二ヶ月後、ドミートリイが獄中でアレクセイと面会し、この二人の女について話す場面がある。カテリーナについては「彼女は最後の最後まで(自分に対しての)借りを返すだろうよ。俺は彼女の犠牲なんぞ望んでやしないのに」と法廷での証言を止めるように頼みつつ、最後に「彼女なんぞ、気の毒じゃないし」と言い捨てる。一方でグルーシェニカについては「何のために彼女はこんな苦しみをひっかぶろうとするんだ」と叫び、その反面で「俺は彼女の魂をそっくり自分の魂に受け入れて、彼女を通して自分まで真人間になった」と告白するのだ。それはもはや、グルーシェニカなしに生きていくことはできないという告白、「流刑囚でも結婚させてくれるかな・・・彼女なしに俺は生きていかれないんだ」という悲鳴である。

(因みにイワーノヴナという父称はフョードルの二人の妻、とカテリーナの全てに共通するばかりでなく、「罪と罰」にも登場する名であり(内一人はカテリーナである)ドストエフスキーが好んで使う。とすると、イワンはいずれカテリーナと結婚するという暗示がそこに示されているのであろうか・・・?)


 そしてカテリーナは・・・法廷でそれまで被っていた仮面を脱ぎ捨て、ドミートリイの手紙を彼を「破滅」に追い込んでいく。それは彼女がイワンを守るためであった。だとしたら、その仮面とは何のために被っていたのであろうか?そしてなぜ彼女は仮面を被り続けていたのだろうか?この女性の「愛の在り方」には着目すべき点が多い。勘違いした愛を裏切られ続け、そして本当の愛の相手を知り、それを守ろうとしたとき、そこには男にとっての「カタストロフ」が訪れる。つまり「父親殺し」で有罪の判決が下る。

 そして、ドミートリイが有罪宣告を受けながらも病気のため収容された病院でカテリーナとグルーシェニカは最後の出会いを迎える。その場面については後述することになるが、カテリーナはグルーシェニカにささやく。「あたしを赦して」・・・。

 そして病室を抜け出た彼女が言った言葉・・・「あの女のああいうところが好きなの」

 その意味と表情が意味することは別に記すことにするが、この場面を描かんがためにドストエフスキーはドミートリイを敢て熱病に仕立て、刑務所ではなく病院へと送り込んだのに違いあるまい。


*ラキーチンとミウーソフ(狂言回しの人物たち)

 神学生で、アレクセイと「きわめて懇意な仲で、親しいといってもいいほど」のラキーチンの登場には常に不穏さがつきまとっている。

 最初のそれはゾシマ長老の庵室でフョードルとドミートリイが対決する場で顕現する。その場で父親が悪ふざけをしだし、ミウースフを憤激させた際、その経緯を「泣き出す寸前」で見守っていたアレクセイはラキーチンを「眺めやることさえできなかった」のだが、それは「相手(ラキーチン)の思想がよくわかっていたから」である。本来私的な会合であり、全く無関係の筈のこの会合に彼が何らかの「思想」をもって登場すること自体不穏当なのである。

 では、その「思想」とは何であろうか?

 そのヒントは庵室にイワンが登場し、国家教会変質論(ロシア的には教会国家変質論)を論じ始めた時の様子にある。この論議が成された時の「不思議」さは、国家と教会の本質的な関係では無く、犯罪ないしは犯罪者との関連において議論が成されるところにある。やがてイワンとアレクセイの間で成される「大審問官議論」の呼び水とも言って良いその会話をラキーチンは「みじろぎもせず」アレクセイに「劣らぬほど興奮」して聞いているのだ。つまり彼はこの会合が予定調和的なものにならないことを予め知っていた、というかそうならないことを知っている作者によって最初から「配置された」のであろう。

 アレクセイに、グルーシェニカが自分の親戚だと言われたとき(後ほどそれは真実だと「書き手」は読者に伝えるのだが)彼が見せた動揺と「僕がグルーシェニカの親戚であるはずがないだろう、あんな売春婦の」という発言はその後の展開に関連するので記憶するべき場面である。


 ゾシマ長老が逝き、その死体が腐敗臭を放ち始めた頃。僧院を抜け出したアレクセイはラキーチンに連れられグルーシェニカの家へと向かう。ラキーチンの目的の1つは「≪行い正しき人の恥辱≫を見ること、すなわちアレクセイが≪聖人から罪びと≫に堕落するのを見ることと、もう1つはアレクセイを連れてきたなら25ルーブルという端金を与えると約束があったからである。その約束をグルーシェニカにアレクセイの面前であばかれ恥をかかされたラキーチンは一旦、舞台から姿を消すが、コーリャ少年がイリューシャの家に向かう場面でのスムーロフ少年との会話の中から再度、登場する。

 その話を聞く限り社会主義者としてこの少年にさまざまなことを吹き込んでいるらしいことがその会話の中から読み取れる。例えば「キリスト教信仰は、下層階級を奴隷状態にとどめておくために、金持ちや上流階級に奉仕してきた」というコーリャ少年の言葉を聴いてアレクセイは「どこのばか者とかかり合いになったんですか」と呆れるが、これはラキーチンのことに違いあるまい。

 更に彼は収監されたドミートリイの所へも顔を出し、新聞記者として面白おかしくリーザの母親をからかうような記事をのせたり(ラキーチンはリーザの母親に言寄って振られた、その腹いせ)、そうした所を見る限りドストエフスキーは薄っぺらな「社会主義者」とか「新聞記者」というものについて反感を抱いていたらしいことが読み取れる。そして最後に登場するのは法廷、そこでドミートリイに不利な証言をしたことで、彼は「まっかに」なるほどの恥をかく。

 世の中をかき乱すインテリゲンチャ風の不満分子。その半端さを体現しながらラキーチンは狂言回しを最初から最後まで演じることになる。


 もう一人の狂言回し的な存在はピョートル・アレクサンドロウィチ・ミウースフである。ラキーチンがフョードルの現在の思い人であるグルーシェニカの親戚ならば、ミウースフはフョードルの「最初の妻の従兄いとこ」である。この二人は、一家以外で小説の当初(長老の会合)から最後(ミーチャの裁判)まで、登場し続ける人物たちでもある。

 ミウースフはラキーチンとは異なり「教養が深く、都会的、外国的」な人間であるが、長老の会合でフョードルと激しく対立する。そもそも、フョードルに向かって「わたしはあんたの親戚なんぞじゃないし、一度だってなったおぼえはありませんよ」(実際は一度は、少なくとも姻戚関係になっている)と叫ぶ男がたとえ「退屈しのぎか、軽薄な気晴らしのため」にこの会合に参加する必要もなければ、本来なら権利もないし、普通なら断られるはずではないか。

 逆に言えば、彼がこの会合に参加したのはアレクセイの目には「きわめて無礼な好奇心」に映ったとしても「書き手」にとっては、フョードルの異様さを引き出すための「必然的な配役」であったといえよう。彼を登場させることによって作者は、フョードルを描き出そうと試みたに違いない。

 その意味では彼は狂言回し的な役目を追わされているもののラキーチンのような道化役ではない。そしてフョードルの死後、法廷に呼ばれはするものの実際には事前に証言をしただけで出廷することはなく、舞台から消えていく。


*グリゴーリイと妻マルファ

 グリゴーリイ・ワシーリエウィチ・クトゥゾフはカラマーゾフの家に属する一員(但し召使)、としてやはり小説の最初から最後まで登場する人物である。

 「いったん何らかの理由、それもたいていの場合おどろくほど非論理的な理由によって・・・頑なほどまっすぐ歩み続ける」この人物は、フョードルとは別の意味で極めてロシア的な人物であり、だからこそフョードルはこの男を信頼し必要とした「昔馴染みの、気心の知れた、ぜひとも(フョードル自身とは)別のタイプの」と作者がその人物像を描いたとき、人物表現としては「忠実で意志堅固な、自分とまるきり違って淫蕩でない人物」と書いたが、そのポイントは「淫蕩でない」という点ではなく「非論理的」であるが故の忠実さと頑なさに重点がおかれている。

 その意味では「カラマーゾフ的な」という形容詞と共に「グリゴーリィ的な」という形容詞があっても良いかもしれない。その形容詞は「非論理的な頑なさ」を意味し、裁判における彼の証言に頑なさの故の「正統性」と非論理性に基づく「疑わしさ」を同時に与えている。恐らく彼は今の世の中にも沢山存在する「自分の思ったこと、正しいと思ったこと」のみしか見えない人物であり、そうした単視眼的な人物だからこそフョードルのような人物に重用されるのだろう。

 ただ、その頑なさは絶対的に主人のみに向いているわけではない。彼は主人の最初の妻であるアデライーダ・イワーノヴナ・ミウーソワを「目の仇」にしていたが、2番目の妻であるソフィア・イワーノヴナには味方について「召使としては許しがたいくらいの態度で楯つき、彼女をかばった」のである。そして第2夫人の後ろ盾である将軍夫人が第2夫人が生んだ子供たちの悲惨な取扱を見て、その子供たちを引き取る際にフョードルのみならず召使である彼に頬ビンタを喰らわせたにも拘わらず、その将軍夫人が帰るときに最敬礼をし「とにかくお前は抜け作だよ」という罵声を甘んじて耐え忍んだのである。

 逆に言えばフョードルは彼を馘首しなかったことにより、その行為を許したともとれる。むしろ、彼こそはフョードルにとっての羅針盤といえるのかもしれない。

 そのグリゴーリイこそは、フョードルの死に立ち会う人間となり、ドミートリイの有罪を声高に主張する証人となる。だが、「たいていの場合おどろくほど非論理的な理由によって・・・頑なほどまっすぐ歩み続ける」という表現によって、この男が証人として相応しいのか、と書き手は暗に疑問を読者に投げかけている。その上彼は「長男ドミートリイの母親であるアデライーダを憎」んでおり、その憎しみが長男に対する評価にも結びついており、中立的な証人のようには描かれていない。

 マルファ・イグナーチエヴナは「夫の意志に文句ひとつ言わずに一生従ってきたにもかかわらず、げんなりとするほどしつこい一面がある」といういかにもロシアの頑固な女性らしい描き方をされている(もっともその一方で彼女は分別のある人間で夫を疑いもなく尊敬し、愛しているとも述べている)。彼女は子供を産んだが、その子供は六本指で(グリゴーリイはそのことを「自然界が混乱を起こした」という秀逸な表現を使っている)すぐに死んでしまい、そのことはグリゴーリイの宗教観におおいなる影響を与える。やがて、リザヴェータ・スメルジャーシチヤャがこの家で赤ん坊を産み落としのを発見し、その子供を育てたのも(実は子供好きな)この夫婦であり、マルファはやがて主人の死体を最初に発見するという重要な役どころを果たすことになる。


*リーズ

 この小説において、唯一清涼剤のように愛すべき存在として登場するのはこの、小児麻痺によって足の不自由な少女である。彼女は母のホフラコワ夫人と共に登場する。

 頬を染めるほどにアレクセイを揶揄からかう、おちゃめで悪戯好きな少女はカテリーナからの手紙と偽って彼に恋文を送る。「とうとうあたし、ラブ・レターを書いてしまいました。ああ、なんということをしてしまったのでしょう。あたしの秘密はあなたに握られてしまいました」

 そんな可愛らしい手紙を書く少女の願い通り、翌日アレクセイは彼女を訪れる。そして二人は結婚のことを語り合うまでになるのだが・・・。


 そのリーズの様子が一変するのは、後に「構成」の項目でも触れることになるのだが・・・。

 フョードルを殺害した咎でドミートリイが逮捕された後の場面、彼女はイワンを部屋に招き入れ、挙句の果てにアレクセイに「イワン宛」の手紙を届けるように依頼するのだ。

 ここでは「その『手紙』をアレクセイに託す」というところに焦点を当ててみよう。そのキーワードは「手紙」である。なぜなら、彼女は実はカテリーナから預かったアレクセイ宛の手紙という偽りの言を持って、アレクセイに恋文を送ったのだ。

 この時代、というか、つい最近まで「手紙」というのは愛を伝える重要な手段であった。みな、愛を伝えるために手紙を書いているのだと思っているけれど、手紙を書くという行為が愛を深める手段でもある。(そんな時代は既に過去のものかもしれないが。)

 「手紙」というのは彼女にとって、とても重要な手段であった。そして、それは託した先にも、託した相手にも「読まれる可能性がある」ものなのだ。

 ここで、リーズがアレクセイに語った言葉、それも二人が結婚について話した時に彼女が手紙について語った言葉を思い起こしてみよう。

「あたし、結婚したらすぐにあなたのことも見張りますからね。そのうえあなたの手紙はみんな開封して、読ませていただくわ」

 そして、その時、彼女が呟いた言葉

「あたし、あなたのお兄様のイワン・フョードロウィチはきらいよ」

 という言葉。伏線なのかそうでないのか曖昧なまま僕らはこの手紙に「何が書かれているのか」興味津々となる。


 その一方で、彼女の母親が二人の会話を聞いていて、この辞典では二人の仲を許可するどころか、引き裂こうとしていた事実も心に留め置く必要がある。

「第一、あたくし、今後はあなたを絶対に家へお通ししませんし、第二に、あの子を連れてこの町を離れますから」

 そう言った彼女は、そしてそれから、事件のあった少し後、リーズがイワン宛の手紙をアレクセイに渡す直前、全く別のことを言い出すのだ。

「あのね、アレクセイ・フョードロウィチ。・・・神かけて申しますけれど、あたくしリーズは本心からあなたにお任せしていますのよ。・・・でも、あなたのお兄さまのイワン・フョードロウィチには、失礼ですけど、そう気軽に娘を任せるわけにはまいりませんのよ」


 この母子の変心は、「女はみんなこうしたもの(コシファントッテ)」というモーツアルト/ロレンツォ・ダ・ポンテの描いたオペラの様な意味合いでもあるのだろうか?或いはドストエフスキーの女性観というもののどこかに「女性に対する不信」、とりわけ少女が「女性」に変わるときの変心に思うところがあったのか・・・。

 それでもリーズはアレクセイにイワンへの手紙を託した後、扉の掛金を外して、一本の指を挟み、ぴしゃりとドアを閉めて押しつぶす」。その懺悔ざんげのような行為が何に向けてのものなのか、作者は語らず、僕らはそれを自分で想像するしかない。だが、この残虐で「回収のない」行為はもしかしたら、書き手が最初に述べた「もう一つの小説」に繋がり、そこで回収されるものなのかも知れないと想像することは可能だろう。だとしたら、リーズはやはりそこでも、アレクセイの近くに存在する予定だったに違いない、と僕は考えている。

 なぜなら、その手紙は読まれることもなく、読者にその内容を知らせるまでもなく、イワンの手によって破られてしまうのだ。そして彼女の潰れた指がどうなったか、ということと共に永遠の謎になってしまったからである。そんなことをドストエフスキーがするはずがない。

  

*コーリャ

 物語の後半に登場するこの少年は、アレクセイとの会話を通して急激に存在感を増していく。十二等官の父親を生れてすぐ失い、母親に育てられ、母親の過剰な愛情にも乱されることなく、「恐ろしく強いやつ」でいながら勉強もできる少年である。

 一方で教師に対してはかなり生意気な生徒であり(歴史の教師を知っている知識でやりこめたりする)、線路のレールとレールの間に寝そべって列車が通過する間中、動かずにいるなどという賭を行うなどという、小憎らしい面のある少年である。

 母親を先に亡くし、その後父親を殺されたドストエフスキーとは境遇は似ているとは言い難いが、もしかしたらドストエフスキー自身がこの少年に投影されているのではないか、と僕は思っている。ドストエフスキーが「賭け事」にのめり込んでいたから、そんな無謀な「賭」を子供の頃、自身でもやっていたのか・・・いずれにしろ、既に59歳、死の直前で描かれた割には年の離れた少年の「考え方」が余りにもくっきりとしているので、そんな風に思えるのかも知れない。

 この少年がイリューシャに対して行った行為は、今で言う「いじめ」の一形態である。

 彼自身はもちろん、そう意識はしていないし、彼の言った説明によれば彼自身は「いじめ」と思っていないのだが、「イリューシャが後悔しているにも関わらず口をきかない」と決めたその行為は結果的にイリューシャの孤立を招き、そして彼がナイフでコーリャの腿を刺すという行為に繋がった。

 そのことで彼は「反省」した。イリューシャが悪戯をした犬、ジューチカを見つけペレズヴォンと名づけイリューシャの病床に連れてきたのは彼である。(結局、犬は針の入ったパンを呑み込まなかったのだと結論づけられている)

 そして、彼は様々な事をアレクセイに語る。彼のイリューシャに対する思い、家庭・教育・社会・そして医者という権威に楯突いたのもこの少年である。

 そして物語の終わり、イリューシャの葬儀の場面で「せめていつの日か、真実のためにこの身を犠牲にできたらな」と言い放ち、「カラマーゾフ万歳」と叫ぶこの少年に、どこか得体の知れない妙な感じを受けるのは僕だけなのだろうか?

 そもそも、彼が見つけた犬を「自分の言う事を聞くように飼い慣らし、その上で犬を発見したことを皆に内緒にしたまま、最初の訪問で見せつける」という行為にどこか違和感を感じるのは僕だけではあるまい。もし、すぐにイリューシャのもとに犬を連れて行けば、イリューシャの病状の緩和になったかもしれない。それを皆を驚かせるために秘密に飼い慣らし、見せつけるような行為は果たしてどんなものなのだろう?

 それに彼が放った「真実のためにこの身を犠牲にできたらな」という言葉の真の意味はどうなのだろう?

 そんなこともあって、僕は作者が言っているもう一つの小説におけるアレクセイのカウンターパートナーはこの少年なのではないか、そして彼はどちらかといえばダークサイドに身をおく配役を予定されていたのではないか、と考えている。


*官吏たちと弁護人、そして医師

 ドミートリイが父親殺しの疑いをかけられたことによってこの小説の後半には多くの官吏が登場する。ドストエフスキーにとって「官吏」やら「弁護士」という人種はどちらかというと「怪しげで」「疑わしい」存在のように思える。同じ匂いが、時折現われる「医師」にも感じられる。

 どうやら、官吏や弁護士、医師といった存在は「権力」或いは「金銭」というロシアという土地が育んだ価値観とそぐわない倫理観をもった集団として作者の目には捉えられているようだ。

 例えば医師、カテリーナがドミートリイの精神鑑定をするためにモスクワから呼んだ医師は、依頼に応じてイリューシャを往診に訪れるが、その家の貧しさをみて「おとましげに部屋を眺め回し、毛皮外套をぬぎすて」、やがてイリューシャの余命が短いことを「ぞんざい」に答える傲慢ごうまんな男に描かれる。

 一方で、この地域の医師であるヘルツェンシゥゥーベは様々な場面で登場するが、書き手にも患者たちにも無能と思われているらしく、リーズという小娘にさえ「ままのごひいきのヘルツェンシトゥーベなんか、やってきても、わかりませんなと言うだけよ」と腐されている。

 肺病やみの検事補<実名はイッポリーニ・キリーロウィチ>、(******「法律学校出の」予審審査官<実名はニコライ・パルフェーノウィチ・ネリュードフ>)モスクワからやはりカテリーナの招聘に応じて街にやってきた弁護士フェチュコーウィチ。彼らは医師ほどあからさまに、その傲慢さや無能さを指摘されてはいないが、作者の筆致にはそれとなく悪意が感じられる。


 先ずはイッポリーニ・キリーロウィチ、検事補がいつのまにか検事に昇進していると思ってしまうが、実際は検事補のままらしい(検事補なのだけど、検事補と書くのは面倒くさいから検事と書きます、と著者がわざわざ注釈を入れている)これほど注目を集めている事件に、誰も乗り出さずに検事補がそのまま、という設定にはやや違和感もあるが、当時のロシアはそんなものだったのだろうか。この男、裁判に当たっては著名な弁護士であるフェチュコーウィチに怯えていると噂されつつ、全身全霊で事件に立ち向かい、裁判では有罪をかちとったのである。

 それにも関わらず、「司法界ではいくらか笑いものにされ」そのお陰で慎ましい地位から予想しうるよりは「ずっと有名」になったと皮肉交じりに書き手に評されているのだが・・・。この男についても著者の複雑な、どちらかというと二重人格的なコメントがされているのは興味深い。「わたしに言わせれば」と書き手はもっともらしく綴る。

「わが検事は人間としても、性格としても、多くの人が考えていたよりずっとまじめであったような気がする」

 これはこの小説家が彼の読み物をずっと困難に、複雑にしている要因である。その上で、この男は裁判の「九ヶ月後には悪性の結核でこの世を去った」として抹殺されてしまう。この裁判が彼にとって一世一代の舞台であったとしても、ある意味では「端役」でしかないこの男を抹殺してしまうというディテールをなぜ設定する必要があったのか?

 そしてフェチュコーウィチ。「その声は美しく、声量も豊かで、感じがよく、声そのものにさえすでに何か真剣な、素直なものがひびいている感じだった」と書き手に紹介されているものの、結審直前の弁論のタイトルは「思想の姦通者」である。恐らくはドストエフスキー自身も同じような裁判で、いかにも雄弁で「真実を述べているらしい弁護士」に感嘆しつつ、その内実の「不誠実さ」を感じ取るような経験をしたことがあるのだろう。「思想の姦通者」は訳者の注にあるとおり、同時代に生きた社会評論家マルコフの批評を引用したもののようだが、当時の弁護士は朴訥な誠実さとかけ離れた存在として意識されていたのに違いない。


*書き手

 最後に書きたいのは、この小説の「書き手」の立ち位置である。

 「書き手」はまず、序文と言っていい「作者の言葉」という文章で自らの存在を明示し、なぜ。アレクセイ・フョードルウィチ・カラマーゾフの「伝記」を書こうとしたのか、そしてなぜ書き手にとって「すぐれた人物」であっても、決して「偉大でない」人間を主人公としたのかについて書き始める。

 要約すれば、それは「彼が奇人」であり、時として「奇人は全体の核心をうちに抱いている」からである。本来なら例外的事象として「普遍性に意味を見出す時代」には「蚊帳の外」であるべき奇人にこそ、実際は核心を抱いているのだ、というテーゼがドストエフスキーによって提示される。

 そして本来、この奇人の伝記は二つの小説を構成することになって、その第一部は現在(つまりこの小説を書き出した時点)から、13年前におきた事件、即ちフョードルの殺人事件であり、「カラマーゾフの兄弟」そのものなのである。そして、書き手は「これはほとんど小説でさえない」が、第二部の小説を理解するために「必要」だから書いたという位置づけだと主張されるのだ。

 つまりは僕らは「書き手」からいきなり「これはあくまで前段階であり、書き手の核心的な小説は第二部にあるのだ」と宣言された上に「第二部は存在しない」という複雑な状況から読み始めることを求められている。

 そして折々に「第二部への萌芽」と思えるような回収されない挿話エピソードが織り込まれているのもまた事実なのである。


 その「書き手」は極めて巧妙に立ち回る。僕らは「作者の言葉」という序文から暫くの間「書き手」と共に歩む。カラマーゾフ家の歴史を語る最中、「書き手」は読者の隣で寄り添っている。

 しかし、第二編に入ると共に「書き手」は、そっと姿を消す。そこからはあたかも神のように全てを見渡す「カメラポジション」に書き手は身を置く。その脱出は極めて巧妙で、助走していた飛行機がテイクオフしたかのような自然さで作者は読み手を離れていく。

 だが、あるとき突然「書き手」は元の位置に戻ってくる。それはドミートリイの裁判の日、法廷には「書き手」が傍聴券を手に存在しているのだ。そして、その裁判に関わる章のタイトルを「誤審」だと断定し、どこか茶番めいたその風景を独自の視線で語っている。ドストエフスキー自身も裁判にかけられた経験を(彼は一度死刑の判決を得ている)持っているだろうし、恐らく彼自身この部分を書くために限らず「裁判」を見聞きしたことがあるのではないかと推察される。それはこの裁判における描写、裁判官、弁護人、検事だけではなく、証人や被告、或いは傍聴者など表現からも見て取れる。

 作者自体の視座もこのように自由に分裂されていることを僕らは注目すべきである。



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