第30話・マヒトの出家

 夏が近付いたある日、僕は真新しい葛城皇子の宮に呼ばれた。相変わらず葛城皇子は僕を何だと思っているのか、こっちの都合お構いなしに呼び出す。

 ここも、部屋がいくつもあって美しい調度品が並べられている。

「鎌足、そなたの子は何歳になる」

「長男は今年十歳になりました」

「子は可愛いか? 鎌足」

「ええ、まあ、最近では生意気な口を聞くようになりましたが」

「我は、建皇子を可愛いと思ったことがない」

 建皇子とは、葛城皇子の亡き妃、蘇我造媛が遺した息子だ。

 葛城皇子には建皇子の前に、長男大友皇子が生まれていたが、母親は身分の低い采女である。この先、葛城皇子が天皇になったとしても、長男を皇太子にすることはできないだろう。皇太子は、母親が皇族、または大臣家の出身であるのがしきたりで、前の右大臣石川麻呂の娘を母に持つ建皇子だけがその資格を持っていた。

「まだ幼いからでございましょう。口をきくようになれば楽しゅうございますよ」

「建皇子は喋れないのだ」

「え? 」

「大友皇子は、同じ年齢の頃にはとっくに喋っていた。我を『ちちうえ』と呼んでまとわりついてきた」

「人それぞれでございます。早熟な子もいれば、晩成の子もいる、子の成長に焦りは禁物です」

 そのせいなのか、葛城皇子は未だ建皇子を正式に自分の後継として認めていなかった。

「建皇子が喋れないのは、祟りだと言う者もいるそうな。ふん、ばかばかしい。我は祟りなど怖くもなんともないわ。我が身はこの通り、なんでもないではないか」

 一応、祟られるようなことをした自覚はあるのか。

「ところでそなたの息子、そなたには全く似ていないと皆が言っている。いったい誰に似たのだろう」

 僕はひやっとした。

「家の者は、私の幼い頃にそっくりだと言っております」

「ふうむ……。まあ、よいが、そなたの息子、唐で学ぶ気はないか?」

「は? 」

「出家させ、学問僧として唐で学ばせてみないか? 」

 これは、ノーと言えないのだろう。

「わかりました、考えてみます」


 これは、葛城皇子はマヒトが僕の子ではない、軽皇子の子だと疑っているということだろう。マヒトが生まれた時の状況から疑われても仕方がないし、軽皇子の宮に当時仕えていた人間から聞き出したとも有り得る。

 だとしたら、もうマヒトの将来は絶望的だ。僕の跡取りにできないし、下手すれば葛城皇子に殺される。「出家させろ」とはそういう意味だ。


 僕は飛鳥に帰ってトヨの家に行った。

 そうそう、今さらで何だけど、トヨとはさらにもうひとり女の子も生まれている。そろそろ難波に家族を呼ぼうかと思っているところだった。

 トヨは、庭で野菜の苗を植えていた。

 この時代、中臣氏のような中流貴族階級でも、庭でちょっとした野菜を作っているのは当たり前だった。トヨは元々は僕の家の使用人だったから働くことが苦ではない。逆に、身体を動かしていないと調子が狂うタイプだ。普段は縫い物をしたり、庭で家庭菜園のようなことをやっていた。


 何かの行事でもないのに突然飛鳥に帰った僕を、トヨは不思議がった。

「実は、皇太子が、マヒトを出家させ学問僧として唐で学ばせてみよと言ってきた」

「そうですか……。わかりました」

 トヨは思ったより驚かなかった。

「すまぬ、断れず」

「いつかこのような日が来るかもしれないと思っておりました」

「え? 」

「女ですもの。マヒト様が月足らずでお生まれになった時に思いました。安媛様が嫁いでいらっしゃった時、既にマヒト様がお腹の中にいたのでしょうと」

「では、爺も」

「いいえ、祖父は知りません。もしかしたら気付いていたのかもしれませんが、殿様が、トメと結婚させたいとおっしゃっていたから、それでよいと思ったのかもしれません」

「そうか……」

「それで、マヒト様の本当の父親は、あの御方ですか」

 僕は無言で頷いた。

「私も家の者も皆、マヒト様を殿様の子として大切に育ててきましたし、その気持ちはこれからも変わりません。マヒト様を守るためには、それしかないのでしょうね」

「そう……だな」


 たぶん僕は今まで深く考えていなかった。

 葛城皇子がマヒトを軽皇子の子だと疑っているということは、他の人間も既に疑っていると考えていい。

 軽皇子はマヒトの事情を承知しているから大丈夫だと思うが、有間皇子が必ずしも軽皇子と同じ気持ちとは限らない。将来きっと良くは思わないだろう。他の何者かがマヒトを利用しようと考える懸念もあるし、古人皇子の件を思い出せば、葛城皇子が息子の同世代のマヒトをどうするか予想はつく。マヒトの将来は危険がいっぱいなのだ。

 出家させ唐に渡らせるのは、葛城皇子のせめてもの温情か。


 難波に戻った僕は、マヒトの出家のことを旻法師に相談に行った。

 難波の安曇寺の僧都となっていた旻法師は、国博士として軽皇子を支え、僕にとっても恩師であり頼れる存在だ。

「どのような事情があってのことか存じませんが、ご嫡男を出家させようとは余程のご覚悟、拙僧もできる限りのお力になりましょう」

 旻法師は何かを察しているようだった。本来なら正妻から生まれた嫡男を出家させ遣唐使とするなどあり得ない話だし、重大な事情があると察したのだろう。

「誠に、感謝の言葉もありません」

 僕は深々と頭を下げた。

「この五月、再び遣唐使を送るそうです。その時には間に合いましょう」

「ええ」

「苦労は大変なものだと思います。しかし、その苦労は必ず身につきます。いつか、帰国したときに御子息の力となりましょう」

「そう言っていただけると、安心いたします。ありがとうございます」

「……拙僧は、失礼ながら少しだけ貴方様を疑ったことがありました。もしかしたら、ご自身の出世のために、他人を陥れ改革を行なったのではないかと」

 その通りだ。

「ですが、その後の貴方様の天皇にお仕えする姿勢、純粋に平和な世を作ろうとなさっている気持ちがわかりました」

「私はただ……」

「右大臣の時、貴方様が陰謀に関わっていないと確信いたしました。一方で、岳父の無実を信じなかったあの方を、恐ろしいと思ってしまうのです」

 あの方。葛城皇子のことなのは明白だ。

「私も、この平和な世を長く続けたいと思っております。できる限り努力いたしたく、思っているのですが」

 葛城皇子の暴走を僕が止められるだろうか。

「ええ、皆で力を合わせて、いきましょう」

 旻法師は穏やかに微笑んだ。この人だけは変わらず信じられる。



 その頃、たびたび新羅の侵略を受けている百済から、我が国に援助の要請があった。軽皇子はその要請をのらりくらりとかわし具体的に何もしなかったのだが、親百済派の葛城皇子はその態度に苛立っていたようだった。


 ある日の会議で、左大臣の巨勢臣が新羅を攻めるべきだと進言した。

「新羅は百済との国境を侵害している様子、見過ごすわけにはいきません。新羅に兵を出すべきだと思います。今、新羅を叩いておかねば、今後、奴らはもっと増長しましょう」

「しかしのぉ、新羅と戦って我らに利は」

 軽皇子はそう言って国博士の高向玄理を見た。

 会議に参加しているのは、天皇、皇太子、左右大臣と群卿、国博士、それに僕だ。

「新羅を討伐しようとしても、新羅は唐に援軍を求めましょう。昔のように易々と降伏するとは思えません。今、我が国は新羅、百済から朝貢を受ける立場にあります。新羅がこうして我が国に朝貢してきている以上、新羅と敵対するのは得策ではないと思います」

 玄理の言葉に巨勢臣が反論する。

「しかし、新羅をこのまま放置すれば、我が国のためになりません。今までも新羅は隙あらば我が国から掠め取ろうという態度でした。彼らは調子に乗り、いずれは我が国を軽んじ、唐国と共に我が国を属国と扱うようになりかねません」

「そういったことは外交努力で避けられると思います」

 玄理は負けていない。

「新羅に限らず、大陸や半島の国々と争うべきではないと、私は思います。この国はまだまだ大陸の国から学ばねばならないことがたくさんあります。まず唐国は、学問や文化、仏教、技術や物も全てにおいて日本より先に行っています。唐には我らが聞いたこともない大陸の国々から様々なことが入ってきているのです。半島の三国も唐から学んでいます。半島の国と争えば、半島経由で入ってくる唐の文化を学ぶことが困難となります。今すべきは争うことではなく、互いの利益になる交易を盛んにすることだと思います。新羅には勢いがあります。高句麗も強大な国ですし、半島の三国は牽制しあっています。我が国はそれを利用し、三国とうまくやっていったほうが良いと考えます」

「かつて半島にあった日本の直轄地であった任那加羅は、その昔、新羅に侵攻され奪われ、今は新羅領と百済領とに分割されています。任那を奪った新羅を信用してはいけないと、昔から言われていました。それに、唐国が、半島の三国を属国にした後に、我が国に手を出さないとは言い切れませんでしょう」

「ええ、ですが、可能性は低いと思います。唐にとっては陸続きの北の国のほうが脅威ですから。海を渡った我が国をわざわざ攻める余裕はないと思われますし、敵対するより、友好関係でいることを選ぶと思われます」

 軽皇子は満足そうに頷いた。

「我は、外征より今は国内を統一することが重要だと思っている。 民が新制度に戸惑っている時期に兵を召集するのは世に混乱を招く。律令と税制度を整備し国中に浸透させることが先決。隋はそのような時期に外征に力を入れすぎて滅びたのだと聞いている。国博士の言う通り、新羅がこうして我が国に朝貢してきている以上、情勢を見て、必要があればまた考えよう」

 会議の間中、葛城皇子は何も言わなかった。無言でいるほうが逆に僕は不気味に感じた。

 会議が終わって立ち上がると、葛城皇子が僕に言った。

「ああ、そうだ、内臣。後で我が宮へ来い」

 皇子が僕を「内臣」と呼ぶ時はロクなことがないと、経験上僕は知っている。


 僕が宮を訪ねると、葛城皇子は不機嫌そうな顔をして座っていた。

「今日は少し、そなたと世間話がしたくなった」

 嫌な予感。この顔は絶対良からぬ企みを腹に抱いている顔だ。

「ええ、昔はよく、いろいろな話をしましたね。稲淵の木陰で」

「……我らはあそこで改革の作戦を練った。もうずいぶん昔のようだ。あの頃の我は何の力も持っていなかった」

「皇子は立派になられました」

「そなたの作戦通り、改革は成った、だが……。つまらぬ会議だった。なぜ鎌足、そなたは何も言わなかった」

「大陸情勢のことは、私よりも高向臣のほうが詳しいので、お任せしました」

「そなたも新羅への派兵は反対か? 」

「ええ。高向臣のおっしゃる通りだと思います」

「ふうん」

 明らかに不機嫌だ。

「……面白くない」

「は? 」

「あの男は調子に乗りすぎている」

「あの男とは」

「叔父上だ。我らが天皇にしてやったのに、律令を発表して、全て自分の手柄のように好き勝手やりおって。豪華な宮を建て、これ見よがしに宴を開き、調子に乗りすぎている。我は何も面白くない。もう飽き飽きだ。我はこのような退屈な世のために鞍作臣を殺したのではない」

「何がご不満なのです。私たちは蘇我大臣を滅ぼし、天皇に主権を取り戻したではありませんか。あとは葛城皇子が皇位を引き継がれれば、皇子の思うように国を動かせましょう」

「我は、天皇になりたいわけではないのだと、ずっと言っておるだろう。国のことなど、どうだってよいのだ。時々全てをぶち壊して滅茶滅茶にしてしまいたい、いっそこの国を壊したくなる」

 そうだ。僕が最も憂慮しているのはそこだ。そもそも彼はこの国を安定した平和な国にしたいと思っていない。

「なんと乱暴なことをおっしゃる。ではどうぞ、お壊しください。そうしたら私が作り直しますから」

 僕はわざと明るく笑って言った。

「そうだな。いっそ全部ぶち壊して、そなたと一緒に作り直すのも楽しいかもしれぬな」

 ようやく皇子が笑った。

 いや、半分本気で言ってるだろ、絶対。


 しかし、葛城皇子は危険だ。なんとかする策、そろそろ本気で考えなくてはならないだろうか。

 かつての事件のように、葛城皇子に謀反の罪を着せるか? 

 古人大兄の件では葛城皇子が勝手に近衛兵を動かした。本来ならそれだけでも謀反の罪で罰することもできたが、軽皇子はそれをしなかった。今さらこの状況で謀反の罪を追求できるだろうか? 

 石川麻呂の件があって以来、群臣は葛城皇子を恐れている。こちらは天皇だと言っても、皇祖母尊宝皇女は葛城皇子の味方だ。逆に皇祖母尊が「天皇が乱心。天皇を捕らえろ」と命令を発することだって考えられる。近衛兵や群臣の間でも敵味方に分かれてしまうかもしれない。場合によっては戦さになる。そのくらいのことを想定した万全な対応策を考えておかないと、迂闊に命令を出せない。

 さて、どこから攻めていくべきだろうか。



 五月、僕の息子マヒトは、出家して定恵(じょうえ)という名をもらい、遣唐使に加わった。

 僕が長男を唐に送る話は、瞬く間に京中に広まった。

「跡取り息子を危険な旅を承知で唐に送るとは、殊勝なことでございますな」

 皮肉を言う者もいた。僕が妬まれているのは百も承知だ。

 血が繋がっていないとはいえ、生まれた時から我が子として育ててきた息子だ。見知らぬ国で危険な目に合わせたくはない。だが、この国にいるほうがもっと危険かもしれないのだ。許してくれ、マヒト。

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