からめて
押田桧凪
第1話
県内有数の体験型水族館「うおのぞき」に就職して四ヶ月が経った。私は一年目にして主任飼育係として、定年になったイカガキさんの後任を務めることになった。
どうやら、慢性的に人手が足りていないらしい。けれど、誰でも良かったから雇われた訳ではなく、「選ばれた」と思う方が往々にして楽になれる職場だった。
「人馴れ」するまでの間、バックヤードで非公開に飼育されるタコの世話を私がすることになった。イカガキさんも私が作業に慣れるまでの間、引継ぎ業務を教えるためにボランティアスタッフとして現場に足を運んでくれることになった。
よろしくお願いします、と腰を低くして丁重に挨拶すると「まだ若いねぇー、どうしてここを選んだの?」と訊かれる。
えっと、と言い淀む。この人にはきっと、分からないだろう。数秒の間にそれらしい返答をするには、私には言葉が足りなかった。「ここ」というのは、すなわち水族館職員のことを指していて、私はそもそも業界選びの段階から水族館を希望していた訳ではなかったからだ。
「分かるよ。好きが
往復する皺が光って見えた。有無を言わせない口調が良い人生を歩んだ人の語り草として、あるいは賞賛されるべき類のセリフとして変換されることを嫌っていた私は、話を遮る。あのっ……。言葉が、続かない。じっとりと手に汗を握りながら、腕時計を確認するふりをして、「餌やりの時間なので」とその場を後にした。実際、コツメカワウソとツメナシカワウソの餌作りを私は控えていた。「また何かあったら聞いてなー、タロウのこと」と背中から明朗な声が降ってくる。
はいっ、と対して私もそうあるべき明るい声をつくる。水族館のくらがりに似合わない、その声を。
それから、危なかったと私は胸を撫で下ろす。本能的に嗅ぎ分けた嫌悪を私が露わにした時、イカガキさんを〇〇ハラスメント等と名の付く被害者にしてしまうところだったと。
本当は、私はお母さんになりたいと思っていた。お母さんになれないのは自分のせいではないはずだった。本当のことを言って落ちたならそれでいいと思って臨んだ面接で、私は受かった。それだけだった。
「将来の夢はありますか?」
最終面接に来てまで尋ねることでないその的外れな質問は、私の胸に深く刺さった。客観的に見ても、当然リクルートスーツが似合う場でないことは明らかで、たとえ来館者だったとしても滑稽だった。しかし、青ジャージの担当者は、ちぐはぐな出立ちである私を一切馬鹿にすることなく、アザラシのようなきれいなまなこをしていた。
「お母さんになりたいです」
続けて、と無言の笑顔が目の前にある。雪解けを誘う太陽光のような温さをもって、私の心の内側を言葉が照らす。
「例えば、ホモソーシャルな場では胸板の厚さ、肩幅の広さ、筋肉の有無によって、男らしさが見定められるのだと私はどこかで聞いたことがあって、女でいうと、それは美しさ、愛嬌、そして母性でした。人であっても動物であっても育てることには愛が必要で、私は産むことと同じ強さで、何らかの母親になりたいからです」
──それはここでないと出来ないことですか? 託児所や動物園ではダメですか? それは人間に対する冒涜ではないのですか? そこに道徳はありますか? どんなお母さんですか?
そんな一般的な深堀りをされることも、揚げ足を取るような訊き方をされることも、圧をかけられることもなかった。
ありがとうございます、と返される。私がこの場に受容される。
手っ取り早くお母さんになるために就職したのかと問われれば、そういう訳ではなかった。オスメス関係なく、社会から虐げられることなく愛を受け、与える環境に身を置くことで、私がいずれはお母さんになれることに最大の期待を込めていた。
初めてそのミズダコに出会った時、私はタロウのことをメスだと思っていた。腕の
その日の水温は八度だった。腕時計を外したことを確認し、水槽の蓋を開けて手を入れる。指輪や貴重品はタロウの格好の餌食として、しなやかで大胆な手さばきによって解体されてゆくのが目に見えていた。
ゼラチン質のタロウの腕が、ゆっくりと私の腕に絡みつく。波にさらわれた砂浜の文字を何度も指でなぞるように、タロウは私の腕を舐め回した。ぢろぢろ、と。それは、底に沈んだナタデココみたいな柔らかさを持っていた。これが私たちの、私たちなりの握
タコの白い吸盤は味覚が発達していて、喫煙者の発する、無脊椎動物の嫌がる有害なニコチンまでも察知すると聞く。だから、いくら扱いに慣れているといっても、タロウがイカガキさんに懐かないのは、休憩所でどぎつい煙を発するヘビースモーカーであるせいなのではないかと私は疑っていた。
対して、タロウは私をきつく縛って離さない。それは久方ぶりの再会を果たした人間同士の抱擁にも近く、引き剥がすのに時間がかかる。そういう時は、真水をかけるのが効果的だが、決まって仕返しに漏斗から海水をジェット噴射する(しかも正確に私の顔面を狙って)ので、得策ではないことを私は知っている。だから、気が済むまで私の腕を舐めさせる。ここに来てから、常設展示のヒョウモンダコに会いに行かない、たこ焼きや回転寿司でタコを食べないという、日々の涙ぐましい(?)地味な努力によって清めていたからだろうか。そんな身も心も潔白な私を、タロウは好いているのだと私は思っている。私はあなたのお母さんになりに来たの、と呟いてみる。
タロウに会えない休館日を過ごすのが長く感じた。およそ恋というものを経験したことが無い私が、初めてそう感じた。休日出勤を喜んで希望した。少女漫画だったらここで恋が始まっていた、と思う。花柄のトーンで原稿が埋め尽くされる、そのくらいの浮遊感だった。
そして、タロウにはおもちゃが必要だった。タロウは退屈すると、すぐに水循環用のパイプに潜り込んで詰まらせたり、水槽のバルブを回して浸水させたりしたこともある。その器用な腕で。
タロウを退屈させない、悪さをしない環境を整えることが私に課された任務だった。提携している他館の業務日報でも、タコが興味を持ったせいで、袖やズボンを濡らすばかりでなく、腕から上半身を引きずり込んで人が溺れかけた例はいくつも報告されていた。
おもちゃの一つとして、中にご褒美として生きたカニやエビの入った鍵付きの箱を水中に沈めてみる。関節のない腕を変形させながら、こねくり回すとスライド式の底面から好物のカニが出てくる。難易度順に複数の箱を入れてもすぐに解き終わる。タロウは天才だった。
私には存在しない妹がいた。それは何の変哲もないクレーンゲームで取れたクマのぬいぐるみで、名前は無かった。だから、私は妹だと思った。生まれてくるはずだった子のために買ったというチャイルドシートに、私はそのぬいぐるみを載せて、ちゃんとシートベルトも締めて一緒にドライブを楽しんだ。
両親は私を気味悪がって、新しい
小学校に上がった時、私の一人称は「お母さん」だった。それは授業中に先生をお母さんと間違えて呼んでしまう類の恥ずかしさの入り混じる呼称ではなく、私のことを指していた。その頃になると、私はお姉ちゃんになりたい訳でも、妹が欲しかった訳でもなかったことに気づいた。私は、お母さんになりたかった。「
当然、クラスメイトからのあだ名は「お母さん」になった。私は先生をもみんなの母親をも超えて、みんなのお母さんだった。お母さんだから、教室の花瓶の水替えよろしくね。お母さんだから、黒板消しといて。理科室の掃除、ニワトリの餌やり、ロッカー点検、プリント配り……。そこでようやく、私の求めているものはひとの子を産む方の、「良いお嫁さんになれないよ」と言われる方のお母さんじゃないことに気づいた。私は、タロウに出会った。
タロウの「人馴れ」は実際、野生に背く行為だった。生後まもなく、
その日、私がタロウの定時巡回に行くと、熱に反応して分泌されるタンパク質の匂い──
「タロウ……? どうしたの、タロウ?!」
フレアスカート状に広がる
水槽に、手を伸ばす。タロウは私を迎え入れる。しゃぶり尽くすようにして、私の腕に絡みつき、私とタロウの意識は初めて、繋がる。
「大丈夫?」
〈大丈夫になるには、まだ早いかな。何か食べたい〉
人知を超えた体験をしているのではと思い至るよりまず、私はタロウと話せることを祝福した。そして、震えた。タロウの腕を掴む力が強くなる。タロウが私と同じ地平に言葉を落としてくれているのだと思った。
「はなせるの?」
〈もちろん〉
昨日、カラフトシシャモを掴んだ餌やり用トングをなかなかタロウが離さなかったの思い出す。私に何か伝えたいことがあったのかもしれなかった。タロウはイカガキさんの腕に吸い付かないばかりか、むしろ毛嫌いしている。だから、私にしか伝わらない方法で。私との握手で、タロウは意思疎通を図ろうとしていたのだ。恋愛感情がなければ他人の人生の一部にはなれない世界で私はタロウに出会い、そして私たちは握手で繋がっていた。
実際、私たちは話していた。言葉も知らない、声帯も要らない。通じ合うのに文字なんて必要だった? 賢い生命体にそう言われた気がした。きっと、言葉と正しい(そうあるべき)感情を持ってしまったばかりに私たちは生きづらくなってしまうのだろう。そう思うと、近所を通るたびに私に吠えてくる犬まで急に愛おしく思えてくる。
私はマスクを付けているので、タロウは私の唇を読んでいる訳ではなかった。これはタコの持つ三億ものニューロンのせい? あなたに知を授けたのは誰? しかし、タロウに聞くべきは、それではなかった。タコの一生は短い。タロウの所望を、叶えたい。あなたと話して、知りたい。
知能がある、感情がある。いいえ、けしてそんな単純な言葉でまとめることができないくらいにタコは賢かった。
「何が食べたい?」
〈えび〉
「分かった」
調餌室から
「あなたは、ここでタロウと呼ばれている」
〈知ってる。だけど、ここは狭い。巣穴もない。戻りたい、早くここじゃない場所に戻りたい。水が違うって分かる。暗い。早く遠くに、もっと遠くに……〉
人間であれば過呼吸になるくらいの速度で捲し立てられるタロウの言葉のひとつひとつに、切実さがこもっている気がした。吸盤のぬめりが少しずつ薄くなっていく。手の感覚が消えていく。水を少なめにして作ったインスタントのコーンスープみたいな粘度で、タロウは私を撫でる。
私は、タコになっていた。気持ちの悪い何かに身体は確実に侵食されていて、それでもタロウのこの赤褐色の体に触れているうちは、外界の空気は私の身体を通さない。タロウを故郷の海に返さなければならない。そう思った。
また夜に会おうね、と私は言った。もちろんそれはタロウには聞こえていなかった。
今日は、私が夜番になっている。担当業務時間外にあまりこの場に長居していても怪しまれるだけだろう。作戦会議はじっくりと、だ。そこで今後どうタロウを逃がすか計画しようと思った。案内表示のネオンが消える。世界の消灯時間になる。換気扇の駆動音だけが館内にこだまする。
タロウのデビューイベント──すなわち一般公開の日が五月五日に決まった。毎年、こどもの日は水族館が無料開放となるため、多くの来客が見込まれる。タロウを披露するには絶好の機会だと、展示係を務めるイイオさんから説明があった。
「その後、もしタロウが人気になったら独自の企画展とかも開催してみたいんだけど、どうかな?」
はい、あぁいいと思います、と事務的な受け答えをしながら、私はタロウをここから逃がすために、衆目と当日の混雑を利用しようと構想していた。
決行前日の夜、私は定時巡回中にタロウに会いに行く。初めて雪に触れた子犬のようなはしゃぎ方で、だけど平静さを装いながら私はタロウに駆け寄る。固唾を飲んで、見守る。陳列された中に私がいる。
「タロウ、とくにストレスは無い?」
〈ううん〉
「まぁそうよね。ストレスなんて、自分で感じ取る方が難しいものだし。明日はね、あなたが海に帰る日になるかもしれない。うまくいけば、ね」
〈ヒメカはどうなるの?〉
「……私のことはどうだっていいの。タロウ、あなたさえ遠くに行ければね」
一丁前な口を利くこの生命体を、私は愛さないはずがなかった。タロウの吐いたあぶくが、水底に沈んでいった。天井のスポットライトがいつもよりも弱い気がする。タロウの皮膚も、いつもより白くなっている気がした。
「本日はお集まりいただきありがとうございます! それでは皆さんお待ちかね、ミズダコのタロウの登場です!!」
館内アナウンスに歓声が沸き立つ。水槽の四隅を覆ったクロスが一斉にスタッフによって取り外され、タロウが観衆とご対面する。さて、と。私は屋外特設ブースの辺りを見渡した。この中から数組が選ばれて、タコに触れることができるというイベントがこれから始まる。
「家族連れのかわいい子供を指名するのがまぁ妥当だろうな」とイカガキさんの黄ばんだ歯の隙間から漏れ出る吐息までもを想起させるセリフが脳裏で再生されて、私は下を向いた。誰だって、良かった。それは私も同じで、お母さんになるためなら何だってやろうと決めていた。
タロウはこれから強い力で、選ばれた子供の顔面に水を噴く。命中率はかなり高い。それは私がそう指示しているからで、いわばイカサマのようなもので、海の脅威をここで目撃させ、会場を混乱に陥れるためだった。
そして私は騒ぎに乗じて、水槽を支えるキャスター付き台車で館内を駆け回り、活魚輸送タンクにタロウをぶちこむ。買収したスタッフが指示したトラックに詰め込み、捕獲時と同じ海域に放つ。タロウを待つ、母なる海へ。私の(母としての)役目は、天命を果たすには、今日が最高の日になると信じていた。
全ての手筈が整い、前から三列目の親子を水槽の近くまで招き寄せると、そこで私は聞いてはいけない声を聞いた。どよめきが波のように周囲に伝播する。
「ひめーーー!!!」
明らかに私を呼ぶ声だった。頭の一部でエラーが起こったように、耳の奥で響く。私は招かれざる客に呼ばれていた。ここを運動会、はたまた授業参観だと勘違いしているのだろうか。そこには、お母さんがいた。主役は、タコなのに。
母親に私が水族館に就職したことは知らせていなかった。進学と同時に家を出てから一度たりとも私は帰省したことが無かった。
鬼松姫華。いじられるためだけに生まれてきたような名字と名前を私は授かった。だから、私は誰よりも言葉を発することの無意味さを噛みしめてきた。無駄に珍しくてカッコ悪くて、鬼なのに姫で馬鹿にされてきたその名前を、私のことを愛さなかった母親が検索窓に打ち込んだことを想像すると、ぞっと冷たいものが背筋を走る。水族館「うおのぞき」のホームページの、職員紹介ページか飼育日記兼ブログに辿り着いたのだろう。
なんで? なんで、お母さんはここに来たの? 一度も参観行事に来てくれなかったあなたは、私のことも妹たちのことにも見向きもしなかったあなたは罪滅ぼしのためにここに来たの? そう心の中で問いかけると同時に、クラスメイトからの興奮と期待の入り混じる視線や言葉のさまざまがフラッシュバックした。
「ねー、あたし分かるぅ。ひめかちゃんって一人っ子でしょ?」といつも蔑むような目で笑ってきた同級生たち。「だって協調性ないし、まっじで何考えてるか分かんないもんねー」と追撃してきた取り巻きたち。「歳の離れた兄弟がいそう」とかで良かったはずなのに、なんでそういう言い方をするのだろう。奥歯をぐっと噛み締めながら、私は俗に言うアンガーマネジメント──心の中で六秒数えることを試みてきた。
姫は常に孤高でなければならない。姫に兄妹がいてはならない。姫は美しくなければならない。私は自分にそう課してきた。
それから、思い出になってしまったクマのぬいぐるみ──かつて私の妹だったもの──の形状を想像し、付けたはずの名前を思い出そうとした。ああ名前なんてあの子に最初から無かった、ぬいぐるみは私にとって役割で、存在で、妹だったから。それと同じで、タロウには私がいた。私にはタロウがいた。もう、怖くないと私は思った。お互いの意識はひとつになって、繋がり、私はタコになっていた。
だから、やめて、お母さん。心の底から私はあなたを憎んでいるから。お願いだから、叫ぶのをやめて。海を描こうと思った時に青色だけ無くなっているクレヨンみたいな寂しさを埋めるような不器用な愛を、お母さんは私にくれなかったよね。私の好きなおにぎりの具が分からない、お母さん。おみくじで凶を引いた私にかける言葉が見つからないお母さん。保証期間が過ぎてから壊れる型落ちのおもちゃをただ見つめる、お母さん。いつもタマネギの皮をむきすぎてしまうお母さん。だから、もう、やめて。私は私のなりたいお母さんに、なるから。私にとってのお母さんは、けしてあなたではないから。
それは一瞬の出来事だった。外界の音が聞こえていないはずの水中にいるタロウは、私の表情の変化に気づいたのか、間欠泉を思わせる激しい飛沫をお母さんに向かって散らした。確実に大の人間を打ちのめすための威力だった。私はそこに、立ち尽くす。
キャァァア!! と叫ぶ声で会場が埋め尽くされる。「やめなさい!」と、この場の誰かの意見を借りるように前列のおじさんが(それも先程まで安全圏から傍観していただけの、前のシートを蹴り上げて騒いでいたはずの)が怒っている。誰かのために、憤っている。そのおじさんに、顔全体が引き攣るくらいの笑顔で嘘じゃないと証明する子どものような愚かさを感じた。いつも笑っている人だけが見せる一瞬の怒りとは、対極にある気がした。
私に呼ばれてこれからタコに触れるはずだった親子は、それら一連の流れを眺めながら呆然としている。日頃のイルカショーに耳が慣れてしまったせいか、ざわめきが雨音のように聞こえた。散った水飛沫がこの空間だけに降る、めぐみの雨のように思えた。
私はすぐさま司会からマイクを受け取って、「すいません! すいません!」と頭を多方面に下げながら、キャスターのロックを解除した。つんのめる段差をテトリスブロックで、すべての障壁を破壊していくが如く、車輪と水槽から溢れ出る冷たい塩水に構わず、滑稽にも高速で水槽を運ぶ。ひたすら、運ぶ。いのちを運ぶ。試合後にスパイクを脱いで裸足で芝を走る快感が忘れられない、とインタビューでどこかのサッカー選手が零していたのを思い出す。私は今、全てを脱ぎ去って、走り抜けたかった。
会場は騒然として、赤ちゃんの泣く声が遠くで聞こえた。非常ブザーが鳴って、警備員が駆けつけている足音も聞こえる。けれど、全て私には関係のない音だったので、タロウ以外の声をミュートする。
視界にも入れたくなかった人を、私の代わりにタロウが応酬したことが、私は何よりも誇らしく、私はこの子を育てられて良かったと思った。あなたを帰さないといけなかった。私は帰したくなかった。
「紙飛行機は自分で飛ぶことはない。ただ手放すためだけに折るものだ」と誰かが言った。そう、母になることは折ることと同義だった。どこか遠くへ飛ばしたくて紙を折り、そして祈るのだ。タロウが生きていけますように、と。
私は正規の手順を踏むのなら、所属する担当獣医師のシライさんに死亡証明書やらを書いてもらって、静かにタロウを殺したことにして、そしたらタロウを逃がすことができたはずだったのかもしれない。「死因:異物を詰まらせて死亡」と偽ってでも助けたかったけれど、私は
辞表をひととしての手で、私は握り潰す。私はタコになれないことを知っている。「当館スタッフの不手際がありましたことを謹んでお詫び申し上げます。」に仮体される後日ニュースで取り上げられる無敵のひととなり、どこか遠くに行きたかった。海に潜りたかった。
私もタロウと一緒に帰りたかった。お母さんが憎かった。私はお母さんになりたかった。なれなかった。
〈ううん、なれたよ〉
そう、聞こえた気がした。
からめて 押田桧凪 @proof
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