残ったモノ


 その夜、桂花のもとに向かうと、彼女は煙草の煙を燻らせながら空を眺めていた。

 少し冷えた風に髪を遊ばせ、風に運ばれてきた金木犀の香りを煙で吹き消す姿からは、昨日ほどの悲痛さは感じない。

空を見つめる目は何かに縋っているようだった。けれど諦めるように、その何かに抱くものを飲み込むように、煙草を咥え、煙を吸い込む。

彼女が煙を吐き出すと同時に、俺は窓を数回ノックすることで自分の存在を彼女に知らせた。


「あ、来てたんだ」

「ついさっきな」

「今度はちゃんと心臓に優しい登場の仕方だね」

「お前に言われたからな」


 彼女は「えらいね」と言って微笑んだ。口調も微笑みも、落ち着いていてゆったりとした調子だった。

夜空の星が彼女をそうさせているのか、それとも煙草の煙が彼女をそうさせているのかはわからなかったが、彼女が“落ち着いている”のではなく、“何かに気をとられている”ようで、俺はなぜだかそれが気に食わなかった。俺がここにいるというのに、俺に気をとられることはなく、変わらず彼女の意識は“何か”に向けられていた。

これなら昨日と同じように、突然声をかけて驚かせたほうがよかったかと思考していると、彼女がぽつぽつと零すように話し出す。


「今日、今までほど息苦しくなかったよ。元カレともちゃんと会話できたし。……挨拶したくらいだけど。でも、明らかに、気持ちがラクになってた。秋夜のおかげ。ありがとう」


 あぁ、元カレのことか――。

“何か”の正体を知るやいなや、俺の思考は放棄された。思考するだけ無駄だったからだ。俺がその存在に敵うはずがない。むしろ対抗しようとしていた自分が滑稽で、思考すればするほど自分の愚かさが浮き彫りになるだけだ。


「それは何よりだ。でもそれにしては、ずいぶんと物思いにふけってんな」


 そう言うと、彼女は「あぁ、わかっちゃう?」とお道化た――つもりだろうが、自己に呆れたような口調で言いながら笑った。


「いやね、やっぱり“好き”っていう感情は厄介だなぁ、って思ってたとこ。彼はとっくに他の人を好きになってるっていうのに、わたしはずっと彼を好きなままだからさ。これじゃあ、彼の足を引っ張るばかりなのに。でもそれを望んでる自分もいて……、本当、嫌になっちゃうよ」


 彼女はさっきまで浮かべていた笑みが消えていっていることに気づいているのだろうか。

 声も徐々にか細くなり、視線も俯きがちになっていく。

 思い出したかのように笑ったかと思えば、それは自身を嘲るためのもので。「バカだよねぇ」と呟いた彼女に、俺は何も言えなかった。

 正直、その通りだと思った。そんなに嫌なら、苦しいなら、さっさとやめてしまえばいいのにと、そう思った。

しかし感情というものはそう簡単なものでもないらしいから、俺に感情を奪ってと頼んでいるのだろうというのはわかる。だから俺は言った。


「俺が奪ってやろうか?」



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