第三十一話 うたれた

 S県に在住のNさんという女性は、何年か前にご主人を亡くしている。

 ご主人は登山が好きで、よく遠方の山にも足を運んでいた。それが遭難の末に帰らぬ人となったのは、東北地方の某山に挑んでいた時だったそうだ。

 現地の警察から報せを受け、Nさんは取るものも取りあえず、そこへ向かった。

 遺留品などから、見つかったご遺体がご主人であることは、明白だった。ただ念のため、顔は検めることになるだろう――と思っていたら、なぜか担当の警察官が何も言ってこない。

「あの、顔を見てもいいですか?」

 顔を白布で覆い横たわるご遺体を前に、Nさんは自ら、警察官に尋ねた。

「見ない方がいいですよ」

 すぐにそう返された。

「見ない方がいい? ……酷い状態なんですか?」

「いやぁ……そうですね。ちょっと」

 妙に歯切れの悪い言葉で、警察官は視線を逸らせた。

 Nさんは不可解に思いながら「見ますよ」と断りを入れ、白布を捲り上げた。

 ……何か、真っ黒なものが見えた。

 それが、ご主人と思しき男性の顔そのものだと理解するのに、十秒はかかった。

 汚れているわけではない。焼けて炭になっているわけでもない。ただ、顔一面の皮膚が真っ黒に染まり、まるでマジックで塗り潰したようになっている。

 おかげで目も鼻も口も、まったく判別がつかない。そもそものっぺら坊のように、原形がない。人間の顔を平らに削り、墨汁に浸したら、こんな具合になるだろうか。

 それでも――髪型や輪郭のおかげで、辛うじてご主人だということは分かる。

「いったい何ですか、これ……」

 寒気と吐き気を同時に覚えながら、Nさんは警察官に尋ねた。

「獣の仕業、でしょうなぁ……」

 警察官は目を逸らせたまま、そう答えた。

 正直、だいぶ疑わしい答えだったが、それ以上は何も教えてもらえなかった。

 ただその後Nさんは、ご主人の捜索に協力してくれた現地の消防団の面々が、奇妙な言葉を口にするのを聞いた。

「可哀想になぁ。あれは、んだ」

 うたれた――とは、どういう意味だったのだろう。

 「撃たれた」だろうか。しかしご主人は、射殺されたわけではない。

 では「打たれた」か。いや、殴られたり叩かれたりしたとして、どうして顔が黒く染まるのか。

 気になったものの、彼らはやはりNさんから目を逸らすばかりで、答えを教えてくれることはなかったそうだ。


 その後、Nさんのご主人は荼毘だびに付された。

 Nさんの家の仏壇には、ご主人の遺影が飾られることになった。

 時々、この遺影の顔が、真っ黒に染まるそうだ。

 別の写真に替えても、少しするとまた染まるので、最近は諦めて、写真立てごと伏せてしまっている――ということだ。


  *


 『絵本百物語』に曰く、北国ほっこくの深山に「鉄炮でっぽう」という獣がいて、人に向かって口からコウモリのようなものを吹きかけ、目と口を塞いで息を止め、取り食らう。その正体は、「まみ」という獣が年を経たものとも、こうもりが年を取って「ぶすま」になったものだともいう。

 Nさんのご主人の顔が黒く染まっていたのは、もしかしたら、コウモリに覆われていたから――かもしれない。

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