光合成少女

kanimaru。

進藤優成

 進藤優成にとって草野芽生は不理解の対象だった。同時に同情の対象でもあり、共感の対象でもあった。

 不理解の理由は、彼女の行動にある。

 彼女は想定通りに事が進まないと激昂した。クラスメイトとはまるで会話が成り立たず、端正な容姿を持つにもかかわらず孤立していた。

 同情の理由は、行動の背景にある。

 彼女は誰が見ても明らかなアスペルガー症候群の患者だった。治せない病のせいで孤立している彼女は、進藤優成にとって同情の対象だった。

 共感の理由は、進藤優成にある。

 彼もまた、教室で孤立している少年だった。いじめに似たようなことも経験し、友だちと呼べる人物は一人もいなかった。彼は自身と同じように孤立している少女に共感し、密かに心の支えとしていた。

 しかしやがて草野芽生は転校した。それが原因なのか、進藤優成は不登校になり、それから卒業の日まで、教室に顔を出すことは一度もなかった。小学五年生の春だった。





 進藤優成が草野芽生と再会したのは、五年後の、これまた春のことである。

 進藤優成は定期的に行われる診察を受けに、総合病院に足を運んでいた。進藤優成はこの診察が嫌いだった。親に言われ、心療内科に通っているものの、診察には意味がないと思っていた。だってすでに心療内科に三年も通っているのに、ただの一度も学校に行くことはできていないのだ。それに、診察を受けるたびに、「お前は駄目な人間だ」と言われている気になるのも嫌だった。

 しかし行かなければ両親に嫌な顔をされるので、行かないわけにはいかなかった。彼は仕方なしに、病院のソファで診察を待っていた。

 持参した文庫本を片手に読書していると、ふいに声をかけられた。

「進藤くん、だよね?」

 反射的に顔を上げたものの、そこにいた少女が誰なのか、進藤優成にはわからなかった。

 少女は頭に黒いキャップを被っていた。青のデニムパーカーがおしゃれだった。背は低いものの、目鼻立ちのしっかりした美形だった。

 対人経験が少ない進藤優成には、自分が笑いかけられているのかどうか、判断がつかなかった。

「誰、で、すか」

 辛うじて絞り出された言葉はほとんどうめき声に近かった。思えば同年代の人間と言葉を交わしたのは小学生以来だと、進藤優成は思った。

 少女は笑ってから答えた。

「忘れちゃった? 草野だよ。草野。 ほら、小学生の時同じクラスだった草野芽生」

 え、と進藤優成は胸中で驚愕する。

 確かに言われてみれば、彼女の顔立ちは記憶の中の草野芽生のそれと一致していた。しかし、受ける印象はまったくの別人だった。

 進藤優成の知る草野芽生は、全身から常に薄い怒りを発していた。思い通りにならない世界に対する憎しみが漏れ出ていた。

 でも今、目の前にいる草野芽生からは憎しみも怒りも、欠片も感じられない。むしろ優しさという言葉が似合うぐらいだ。

 呆気に取られて草野芽生を見つめる。やはり顔立ちは記憶の通りだった。

「……気づかなかったよ。雰囲気、変わったね」

 草野芽生は照れくさそうに笑った。やけに大人びた笑みだった。

「よく言われる。つきものが取れたみたいだって」

 そう言われても、なんと返せばいいのかわからなかった。だからあいまいに笑ってみせた。表情筋が強張っているのが、自分でもよくわかった。長らく笑ってなかったんだと、その時に気づいた。

「進藤くんはなんでここに?」

 沈黙を嫌うように、草野芽生は言った。進藤優成は束の間迷って答えた。心なしか、声が小さくなった。

「いやまあ、ちょっとね」

 なぜだか、心療内科に通っているとは言えなかった。

 ふーん、とだけ草野芽生はつぶやいた。本当に関心がなさそうな声色が救いだった。

 草野さんはなんで、と問い返すことはしなかった。自分が答えられないのに問い返す勇気を、進藤優成は持ち合わせていない。

 何も言わない代わりに、草野芽生をじっと観察した。今の彼女は当時よりもずっと穏やかで余裕があり、幸せそうに見えた。羨ましいと思った。五年前から何も変わらない自分が惨めだった。

 いったいなぜ自分はこれほど学校を拒否しているのだろう。

 進藤優成にとってこれは長年の疑問だった。

 初めて学校をサボった日から、一度も学校に行こうという気持ちにならなかった。中学校に関しては一度も登校することなく卒業し、高校は親が見つけてきた通信制高校に所属したが、未だ一度も学校に足を運んでおらず、与えられた課題のみを粛々とこなす状況が続いている。

 学校以外なら、どこへだって行けるのだ。それなのに、学校にだけはなぜか足が向かない。

 やはり小学生の頃にいじめられたトラウマはあった。

 それにしても、長く尾を引きすぎているような気がする。早く学校に通いたいのに、普通に戻りたいのに、なぜか学校に行こうとするだけで、一歩も動けなくなるのだ。

「このあと、暇?」

 ふいに投げかけられた一言で、進藤優成は思考の世界から現実に立ち返った。

「ひま?」

 思わず馬鹿みたいに聞き返していた。どういう意味か、測りかねたせいだ。

 すると、草野芽生はイタズラな笑顔を見せた。花が咲いたみたいだ、と進藤優成は思った。

「このあと遊びに行かないか、って言ってるんだよ」

「遊びに、って」

 またもや、おうむ返し。友だちなど一人もいなかった進藤優成にとって「遊び」という言葉はまるで宇宙の言語のように未知数な響きを含んでいた。

「いいから、ついてきてよ」

 そう言って草野芽生は歩き出した。気づけば、進藤優成はその後を追っていた。

 この後に診察があることなど、まるで気にならなかった。

 歩きながら、自分は何をしているのだろうと進藤優成は思った。





 進藤優成には、友だちと遊ぶという経験がない。だから、一般的な高校生が何をして遊ぶかなど知らない。それでも、公園でブランコというのは流石にどうなのかと、彼は思った。

 しかし草野芽生がそれを気にする気配はまるでない。そうするのが当然とでもいうようにブランコを漕いでいる。

「進藤くん、やらないの」

 ブランコの脇で突っ立っていた進藤優成を見て、草野芽生はそう言った。

「なんでブランコなの」

 思わず聞いた。なんとなあく、と間延びした声で草野芽生が答える。その様子がひどく楽しそうに見えて、気づくとブランコに手をかけていた。

「お、やる気だねえ」

 からかうように草野芽生は言う。いつからこの人はこんなに明るくなったんだろうと進藤優成は思う。

 砂を払ってから、ブランコに座る。チェーンに手をかける。やたら冷たかった。漕ぎ始めると、錆びたチェーンが悲鳴を上げた。草野芽生は笑っている。何がそんなに楽しいのだろう。

「案外楽しいでしょ、ブランコ」

 キャップからはみ出たショートヘアが揺れる。綺麗な髪だった。

 別にブランコ自体は何一つ面白くなかった。それでもなぜか、心が落ち着いた。病院のことも、学校のことも全て忘れて、心は普段よりずっと穏やかだった。だから、自分から話を広げようとしたのかもしれない。

「いつ、こっちに帰ってきたの」

「つい先週。お父さんの仕事の都合で。高校は入ったばっかだし、別に転校してもいっかーって思って帰ってきたの」

 いつの間にか草野芽生は立ち漕ぎに切り替えていた。全身を使って勢いよく漕いでいる。その分、ブランコの方が大きな悲鳴をあげていた。

「高校はどこに入ったの」

「S高。ほら、近くの女子校だよ。あんまり頭良くないけどね」

 それを聞いて、進藤優成は内心落ち込んだ。

 S高は全日制の女子校だ。通信制高校とはまるで違う。

 やはり、前に進めていないのは僕だけだ。

 卑屈な思いが、自分の中で広がるのを感じる。付き合いは長いのに、いつまでも扱いが難しい感情だった。

 しかし草野芽生はそんな内心に気づかずはしゃいでいる。進藤優成にはその明るさがありがたく、同時に羨ましかった。

「進藤くんはどこに通ってるの」

 はぐらかそうかと、逡巡した。ごまかすこともできる、と心が囁いていた。しかし、きいきいと鳴るブランコの音が、それを許さなかった。気づけば、口を開いていた。

「通信制なんだ。登校は一度もしてない。小五の春から、一度も学校に行けてなくて」

 口にしてみると、それは一気に色を帯びて、確かな現実として進藤優成を襲った。どうしようもない人間だと、自分で認めてしまったような気がした。

 だが草野芽生は、またもやふーん、と言っただけで、驚きも黙りもしなかった。

 次の瞬間に、草野芽生は勢いをつけてブランコから飛んだ。青い空に身を投げて、立てられた小さな柵を越え、草野芽生は綺麗に着地した。そして体操選手のように腕を水平にしてポーズをとったあと、振り返って進藤優成を見て、思いきり笑ってみせた。

「じゃあ、いつでも遊べるね!」

 ブランコに座りながら、いったいいつから、草野芽生は変わったのだろうと、進藤優成はまたもや思った。

 まさか草野芽生に救われる日が来るだなんて、想像すらできなかった未来だ。

 だが今、進藤優成は確かに草野芽生の言葉に救われていた。草野芽生の言葉は両親のそれよりも、心療内科医のそれよりも、ずっと彼の琴線を震わせた。その振動で身体が震えそうになるのを堪えなくてはならないほどだった。

「これからもよろしく!」

 草野芽生がそう言った時、進藤優成は、全てが覆ったような錯覚を覚えた。





 進藤優成はその日、早起きをした。草野芽生に、朝から呼び出されていたからである。

 あの日、公園でブランコをした日に連絡先を交換して、初めてきたメッセージで指定されたのがこの日の朝七時だった。

 どうせやることもない進藤優成は、呼び出しを面倒とは思わなかった。しかし、平日の早朝から一体何をするんだろうとは思っていた。とにかく支度を済ませると、集合場所の駅まで向かった。

 人がまばらな駅にはすでに草野芽生がいた。キャップを被り、デニムジャケットを羽織っている。キャップはグレイのストゥーシー。デニムジャケットは病院の時と同じ青色だった。

 草野芽生は進藤優成の姿を捉えると、大げさに手を振った。小さく会釈してそれに応える。駅を行き交う人々が制服やスーツに身を包んでいるからか、自分たちがとても場違いなように感じた。

「やっほー。よく来たね!」

 草野芽生は嬉しそうに笑った。思わず目をそらしながら、当たり前でしょ、と答えた。

「そうかあ。当たり前かあ」

 草野芽生はなおもにこにこと笑っている。このまま踊りだしたっておかしくないと、進藤優成はひそかに思う。

「こんな朝からどこに行くの?」

 進藤優成が問うと、草野芽生は自慢げに胸を張った。

「遊園地です!」

 そう聞いた途端、なんと反応すればよいのかわからず、むしろ笑ってしまった。はは、と鼻から抜けるようなか細い笑いが漏れ出た。

 普通そういうところってもっと仲良くなってから行くんじゃないのかと喉元まで出かかったが、声にはならなかった。何しろ進藤優成には友だちがいないから、「普通」がどんなものなのかわからない。それに、草野芽生の言葉に、不思議と心が沸き立っているのも事実だった。

「どこの?」

 すると草野芽生は意外そうに目を丸めた。くっきりとした二重がより鮮明になる。

「なんだ。受け入れるの早いね。もしかしたら断られるかと思ってたのに」

「なんで? お金は持ってきたし、特に行けない理由もないけど。それに、ちょっと楽しみだし」

 草野芽生はまた、不思議そうな顔をした。キャップの下から覗く目が、進藤優成を捉えている。

「なに?」

 思わず言うと、草野芽生は小さく首を振った。

「ううん、なんでもない。ただ、進藤くんって意外と率直な話し方なんだなあって思って」

 まあいいよ、行こ、と言って歩き出した草野芽生の背中を追う。歩きながら、そんなに意外かな、と思う。それと同時に、互いのことをまだ何も知らないんだと痛感する。しかし、それでいい気もする。ゆっくり付き合っていけばいい。

 そう思わせる優しさと温かさが草野芽生にはあるんだと、進藤優成は思った。

 電車を三つ乗り換えて、九時には目的の遊園地に到着した。移動中の会話はあまりなかったが、気が詰まる時間ではなかった。むしろ無理に話さないことで、二人の距離は縮まっていた。

「いやあ、長かったね。疲れた疲れた」

 草野芽生は改札をくぐると伸びをしながらそう言った。

「ちっとも疲れてなさそうだけど」

 そう言った進藤優成は着いたばかりだというのにぐったりと疲労をにじませていた。二時間も電車に揺られるなんて彼にとっては初めての経験で、その分体力を吸われていた。ずっと座っていただけなのになぜこんなにも疲れるのだろうと、自分のことながら疑問だった。

 それに比べて疲れた様子など微塵も見せない草野芽生はすごいと、進藤優成は素直に感嘆した。

 対照的な足取りの二人は並んでチケットを購入し、ほとんど待つことなくすぐに入園した。関東では有名な遊園地ではあるのだが、なにせ平日の朝であり、人の数はまばらだった。そういえば草野芽生は学校をどうしたのだろうと思ったが、野暮な気がして聞かなかった。

 二人は閑散とした園内を並んで歩いた。カラフルな非日常は進藤優成の生きる世界とはまるで無縁で、目が痛くなるぐらいだった。

「ねえ、乗り物、何が苦手とかある?」

 草野芽生に聞かれ、わからない、と答えた。遊園地に言った経験がないのだ。正確には小さい頃に親に連れられたことはあるのだが、記憶にない。そんな状態だから、どんなアトラクションが苦手なのかわからなかった。そんな自分が、恥ずかしかった。

 それを告げると、草野芽生はなぜか嬉しそうに笑った。

「じゃ、今日で全部試してみよう!」

 草野芽生は進藤優成が抱えるコンプレックスを簡単にプラス方向に覆してしまう。進藤優成にとって、彼女のこうした一面は大きな救いだった。

 草野芽生は本当に全部試すつもりなのだと、進藤優成はすぐに気づいた。ジェットコースターもお化け屋敷もシューティングゲームもゴーカートも、挙句メリーゴーランドまで試した。結果的に進藤優成は、自分の苦手がコーヒーカップだけだと気づいた。どうも三半規管が弱く、ぐるぐる回っているうちに吐きかけた。

 草野芽生はというと、意外にもジェットコースターが苦手なようだった。キャップを飛ばされないようにするのに必死で、叫び声すら上げていなかった。外してから乗ればよかったのに、と言うと、その手があったか、とわざとらしく苦笑していた。

 時間はあっという間に過ぎ去り、いつの間にか午後三時に差し掛かっていた。まだ外は明るいが、すぐに日が落ちていくだろう。

「ねえ、パフェ食べたいんだけどいい?」

 そう聞かれ、いいよ、と進藤優成は応える。二人は園内のカフェテラスに入った。草野芽生はパフェとジンジャーエール、進藤優成はアイスコーヒーだけ注文した。

 すぐにパフェと飲み物が届いた。パフェには遊園地のキャラクターをかたどったクッキーが添えられていたが、進藤優成はそのキャラクターを知らなかった。

「うーん、美味しい!」

 本当に美味しそうに食べる草野芽生を見ながら、元気な人だ、と進藤優成は思う。

 何もわからない進藤優成を、草野芽生は常に前に立って案内した。進藤優成は草野芽生のその姿勢があって自分は今日を楽しめているんだと思っていたし、実際にその通りだった。

「なに? 私、顔になんかついてる?」

 草野芽生は怪訝そうに言う。どうやら自分は草野芽生を見つめていたらしいと、進藤優成はその時気づいた。

「いや、別に。ただ、凄いなあって思って」

「凄い? 私が?」

 まるで身に覚えのない罪を言い渡されたみたいに困惑している草野芽生の様子が面白くて、進藤優成は少し笑った。

「いや、ずっと案内してくれてさ。多分遊園地とか慣れてるんだろうなって。僕なんか行ったこともなかったから、こういう場所に慣れてるって凄いなあって思ってさ」

 すると草野芽生は、照れ隠しでもするように目をそらし、鼻の頭を掻いた。こういうことで照れるんだ、と進藤優成は多少意外に思った。

「まあね」

 それだけ言うと、草野芽生はまたパフェに夢中になった。進藤優成もそれ以上、何も言わなかった。

 カフェテリアで休憩してから外に出ると、あたりはさっきよりもずっと暗くなっていた。毎秒毎に夜に近づいていくのを、進藤優成は肌で感じていた。

「もうほとんど乗りつくしちゃったねえ」

 名残惜しそうに、草野芽生が言う。

 進藤優成は応えず、ただ頷いた。

 二人でしばらく適当に歩くと、本格的に暗くなってきた。進藤優成は肌寒さを覚え、腕には鳥肌が立っていた。

 勢力を広げていく暗闇に対抗するように、遊園地内では色とりどりの光が灯り始めた。イルミネーションだ。

 進藤優成はイルミネーションにつられて周りをきょろきょろと見渡していたが、草野芽生はしきりに上を見上げている。一体何かと思ったが、すぐに合点し、ああ、と心の中で呟いたのち、軽い口調で提案してみる。

「ねえ、あれ乗ろうよ」

 そう言って進藤優成が指でさしたのは、巨大な観覧車だった。日本最大級の大きさだと一時期ニュースで騒がれていたのは、世事に疎い進藤優成ですら知っている。

「え、うん。乗ろう!」

 意外だったのか不意を突かれたのか、草野芽生は一瞬目をぱちぱちとしばたかせたが、すぐに笑顔になり、むしろ先導する形で観覧車に乗り込んだ。

「うわあ! 凄いよこれ!」

 園内のイルミネーションを上から一望して、まるで小さな子どものようにはしゃぐ草野芽生とは対照に、進藤優成はすっかり小さくなってしまい、外を見るどころか、ずっと観覧車の床を見つめていた。

「どうしたの?」

 見かねた草野芽生が問うと、進藤優成は肩をすくめた。

「いや、実は高いところはあんまり得意じゃないんだ。ジェットコースターぐらい速いと高さに怖がってる暇もないから大丈夫だったんだけど、ゆっくり上がっていくのはちょっと」

「それなのに、なんで観覧車に乗ろうなんて言い出したの?」

 草野芽生は純粋な疑問をぶつけた。その目は外のイルミネーションではなく、亀のように丸まった進藤優成にささげられている。

 進藤優成は顔を上げて、さも当たり前と言わんばかりに言った。

「草野さんが乗りたそうにしてたから」

 すると草野芽生は一瞬、呆気に取られて黙った。観覧車が動く音だけが、二人の間で流れていた。草野芽生はやがて小声で、真剣に言う。

「そんなにかっこつけないでいいのに」

「ひどいな。傷つくぞ」

 茶化すように、誤魔化すように進藤優成は笑う。でも、その笑顔はどこかぎこちない。当たり前だ。さっきからぐんぐん上がっていく高度が怖くてたまらない。

 進藤優成のぎこちない笑みとは対照に、草野芽生は満面の笑みになる。

「ありがとね、進藤くん。私、今日のこの景色、絶対忘れない!」

 今度は進藤優成が笑った。ぎこちなさの外れた、自然な笑顔だった。

「大げさだよ」

 二人は観覧車を最後に、遊園地を後にした。帰りもまた二時間かけて電車に乗ったころには、進藤優成はすっかり疲れ切っていた。進藤優成には草野芽生が依然元気なことがまるで信じられなかった。

「じゃあ、またね!」

「うん、また」

 そう言って二人は、すっかり暗くなった駅の前で別れた。またねと言う言葉がこんなにも嬉しいのだということを、進藤優成はその時知った。





 進藤優成は人生で初めて渋谷駅を訪れていた。自分の最寄駅から渋谷駅まで一本で行けることを、進藤優成はその日まで知らなかった。彼の隣には小柄な少女が一人。トレードマークのデニムジャケットを着て、頭にはニューエラと海外アニメ作品のコラボキャップを被った草野芽生だ。

 進藤優成は今日も草野芽生に呼び出され、行き先を告げられずに電車に乗ったのだが、ようやくさっき、渋谷で映画を見るのだと明かされた。映画を見るだけなら地元でも良いような気もしたが、黙って受け入れた。

「ほら、急いで! 早くしないと始まっちゃう!」

 しきりにスマホで時間を確認しながら草野芽生が言う。だが声は少しも焦っていなさそうで、むしろ楽しんでいるようにも見える。

 駅から歩いて五分もしない映画館でチケットを購入し、ついでにポップコーンもペアセットで買った。

「こっちの方が安いから」とすました顔で言われ、進藤優成はなぜか負けた気分になった。

「楽しみだなあ」

 席に着くと、小声で草野芽生が言った。小さく頷いて応えた。

 ポップコーンをつまんでいる草野芽生を見ながら、なぜ僕を誘ってくれるのだろうと進藤優成は思う。

 学校にも友だちは居るだろうに、たまたま再会しただけの、さして仲がいいわけでもなかった小学生時代のクラスメイトをこんなに何度も誘うのには何か意図があるのだろうか。

 しばらく考え続けたが、やがて館内が暗転して映画が始まり、進藤優成は考えるのをやめた。




「うーん! 美味しい!」

 進藤優成には、目の前で『春の味覚全部のせ! 魅惑のプリンアラモード』を頬張る友人のことが、よくわからなかった。

 映画までなら理解できる。だが、さすがにスイーツ専門店となると、自分ではなく女友だちと行った方がいいのではと思う。

 聞けば、渋谷に行くのは初めてのことらしい。だからやりたかったことは全部やりたいのだということだったが、それならなおさら女友だちを頼ったほうが良い気がする。

 今だって、進藤優成は可愛いもの尽くしの空間に気後れして、アイスコーヒーしか頼めていないのだ。

「一口、いる?」

 ふいに、草野芽生が声を投げた。アイスコーヒーのみの自分に気を遣ったのかもしれないと、進藤優成は思う。

「いや、いいよ」

 アイスコーヒーを啜りながら答える。あまりおいしくない。

「なに、もしかして間接キスだからって気にしてる? かわいいなあもう」

 草野芽生は笑いながら、そう軽口をたたいた。進藤優成はその時、自分がそんなことを言われていることが急に信じられなくなった。

 学校に行かなくなって、いや、もしかするとそれよりずっと前から、進藤優成は自分に友だちができるなんて未来を諦めるようになっていた。根暗なうえに無趣味で運動もできない。人の輪の中にむりやりでも入るという気概もない。友だちなんてできるわけがないと、自虐ではなく一つの事実として受け入れていた。

 それなのに、今目の前に笑いかけてくれる友人がいる。しかも、異性の。夢でも見てるのではと疑うのは、むしろ当然のように思える。

「どうしたの? もしかして図星だった?」

 ぼうっとしている進藤優成を見てか、からかうように草野芽生が言う。

「いや、なんか信じられなくてさ。僕に友だちがいるなんて」

「なにそれ。深刻すぎでしょ」

「だってこういうところだってほんとは女子と行った方がいいんじゃない?」

「なにそれ、私と遊ぶのが嫌だってこと?」

 草野芽生は冗談っぽく眉を吊り上げたが、進藤優成はまじめに捉えて慌てて弁明する。

「違うよ。そんなんじゃない。むしろ、楽しいよ。だってぜんぶ初体験なんだ。今までできなかったことが急にできるようになって驚いてるだけなんだ。ほんとに、ぜんぶ楽しいよ。遊園地に行くのも、映画を見るのも、こうやってご飯を食べるのも。ぜんぶ初めてで、ぜんぶ楽しいんだよ」

 あまりに必死に語る進藤優成に、草野芽生は一瞬堪えるように目を伏せたあと、思いきり笑顔になった。そしてそのあとすぐに、口元を歪めて、わざとらしくにやけてみせた。

「へえ、進藤くん、私と遊ぶの、楽しいんだ」

 言われて、進藤優成は自分が恥ずかしいことを言ったのだと自覚した。身体全体が急に熱を帯び始める。そして反射的に目を伏せた。またもや草野芽生が笑う。

「はは、ちょっといじっただけだよ。ごめんごめん。お詫びに、今日はもう一つ、進藤くんに初体験をプレゼントしてあげよう」

 尊大に言いながら、伝票を取って草野芽生は立ち上がった。彼女は進藤優成を優しく見つめた。

「ついてきてよ」

 その言葉を聞くと、なぜだか優しく導かれるような気がする、と進藤優成は思った。





「久しぶりね」

 進藤優成はそう聞かれて、はい、とだけ短く答えた。早く終わらせたい一心だった。

 進藤優成は草野芽生に再会した総合病院で、心療内科の診察を受けていた。前回すっぽかしたから、来ないわけにはいかなかったのだ。

 進藤優成にとって心療内科の診察は無駄な時間でしかなかった。心に問題があると責められているようで、ちっとも救われやしない。実際心療内科に通っても、学校に足が伸びることはなかった。それなのにいつまでも診察を続ける理由が、進藤優成にはよくわからなかった。

 しかし進藤優成の思いなど知る由もない医者は、にこやかな笑みを浮かべたまま会話を続けようとする。なぜか心療内科の医者はみな馴れ馴れしい。

「最近外に出ることが増えていると聞いたけど、なにか変わったことでもあるの?」

 優しく聞かれ、進藤優成の脳裏には草野芽生が浮かんだ。トレードマークのデニムジャケットとキャップが、笑顔が浮かんで離れない。そして遊園地と渋谷の二つの思い出。結局あの日の渋谷では、夜までショッピングに付き合わされた。

 二つとも、大事な大事な思い出だった。

 しかし、進藤優成の口からこぼれ出たのは、特にないです、という否定の言葉だった。なぜだか、草野芽生のことは言いたくなかった。

 医者は探るような目つきで進藤優成を見る。進藤優成はその目が嫌いだった。まるで重大な秘密を隠していると疑われているみたいで、気分が良いものではない。

「まだ、学校には行けなさそう?」

 医者はとうとう、本題を切り出した。進藤優成はもううんざりしていた。この医者が悪くないことはわかっている。彼女は進藤優成の両親に息子を学校に行かせてあげてほしいと懇願されているだけなのだ。

 進藤優成からしても、学校に行きたくないわけではない。むしろ、行きたいという意思はある。ただ、どうしても足が向かないのだ。今まで何度も、学校に行ってみようと試してきた。しかし一度だって、上手くいったためしはない。いつも、直前で足が竦んでしまう。そんな自分が情けなかったが、もういいじゃないかという思いもある。何度も試してみて駄目なら、それはもう自分がそういう星のもとに生まれたと解釈してもいいはずだった。だが厳格な両親がそれを許すはずもなく、こうして病院に通わされている。

「行けないです」

 弱々しく、しかしはっきりと答えた。医者は頭を掻いてから、腫れ物を扱うみたいに慎重に言葉を選んだ。

「やっぱり、昔のことが原因?」

 そう言われて、進藤優成はいったい何度このやり取りを繰り返せばいいのだろうと思う。自分という人間の問題点を指摘されている気がして、さらに思い出したくないいじめの記憶がよみがえって、心から苦痛だった。

 草野さんに、会いたい。

 猛烈に、そして心からそう思った。なぜそう思ったのかは自分でもよくわからない。でも、無性に会いたかった。会って、不登校など笑い飛ばしてほしかった。そんなの問題ないよと言ってほしかった。

 その後もしばらく問答めいたやり取りが続き、やっと進藤優成は解放された。

 進藤優成は疲れから、受付のソファでだらりと座って会計を待っていた。

 次の診察はまた来月だという。

 いったいいつ診察は終わるのだろうと、ピンク色のソファに腰かけて絶望していた。いったいいつになれば、この苦しみから解放されるのだろう。

 鍵も窓もない檻に閉じ込められているみたいだった。希望も、光さえも差し込まない。

 俯いて何度もため息をついたその時、聞きなれた声が聞こえた。

「あれ、進藤くん? いたんだ」

 顔を上げるとそこには、青色のデニムジャケットに、アメリカの野球チームのマークが象られたベージュのキャップ。

 草野芽生だった。

 進藤優成は驚きのあまり、声も出せなかった。

 草野芽生も驚いたようで、でも嬉しそうに笑っている。

「ここでよく会うねえ、私たち」

 その笑顔を見て、進藤優成は、今まで感じたことのない感情があふれ出て来るのを感じた。草野芽生の笑顔が、仕草が、愛おしくてしょうがないのだ。進藤優成はその感情をよく知らなかったが、恋だ、と直感する。

 草野芽生に恋をしている。

 それを自覚するだけで、進藤優成の世界は簡単に一変した。悩んでいたことなんて嘘みたいに、世界は鮮やかになる。色が増えるのではない。ただ鮮明に、見えなかった濃淡までもが見えてくる。

 彼女は僕にとっての太陽なんだと、進藤優成は思う。彼女がいて初めて息ができる。まるで光合成する植物みたいに。

 彼女のそばに居たいと進藤優成は思う。自分のものにしたいと、強く思う。

 感情だけがあふれて何も言えないでいる進藤優成に、草野芽生は優しく声をかける。

「ついてきてよ」

 草野芽生はいつも、こういう言い方しかしない。どこに、とか、なにしにと言うことを言わない。それでも、進藤優成からしてみれば構わなかった。彼女に誘われるだけで良かったのだ。

 進藤優成は立ち上がり、軽快に歩きだした草野芽生の後ろを追った。





 ついてきて、というから近場だと進藤優成は思っていたが、連れられた先はかなり離れた地元の河原だった。病院から四十分は歩いただろうか。いつの間にか外は暗くなってきている。今はまだ、日が沈むと肌寒い。パーカーを着てきて正解だったと、進藤優成は思った。

 石礫ばかりで歩きづらい道を、草野芽生はすいすい進んでいく。そして川のすぐそばまでくると、背負っていたリュックをその場に置いて漁り始めた。進藤優成は黙ってその様子を見ている。

「さあ問題です。夜の河原ですることと言ったらなんでしょう」

 かがみながら草野芽生が言う。進藤優成には質問の意図も、答えもわからなかった。

「正解は花火でしたー!」

 リュックの中から手持ち花火とライターを取り出しながら草野芽生はそう笑った。

「え、まさか準備してたの?」

 ここに来るまで、途中でコンビニにもスーパーにも寄っていない。あらかじめ用意されていたとしか、進藤優成には思えなかった。

 草野芽生は気恥ずかしそうに肩をすくめた。

「まあね。去年用意してたんだけど、できなくてさ。しけちゃってて、もしかしたら上手くできないかもしれないけど」

 せっかくだから持ってきたの、と続けながら、草野芽生はびりびりと袋を破く。それから適当には花火を二つを選んで、一つを進藤優成に渡した。

「これ、どこで火消すの?」

「川で消せばいいんだよ。まったく、これだから遊んでこなかった人は」

「うるさいなあ」

 こんなやりとりだけでも、進藤優成には嬉しくてたまらなかった。もっともっと、彼女と話していたかった。

 草野芽生はごめんごめんと、まったく悪びれず謝る。そしてライターに火を点けた。優しい色をした火がぼうっと灯る。二人の足元が少しだけ明るくなった。

 草野芽生は自分が持った花火をライターに近づける。花火の先に火が灯り、すぐに勢いよく黄色の火花が散り始めた。煙と共に、ちりちりちりと音が鳴る。

「ほら、進藤くんも!」

 草野芽生は笑顔で手に持った花火を進藤優成に向ける。進藤優成はまごつきながらも、未だ火のついていない花火を飛び散る火花にぶつける。すぐに進藤優成の持つそれにも火が付いた。濃い緑色の閃光が進藤優成の足元を照らす。

「うわっ! あぶね!」

 進藤優成は急に火を噴いた花火を見て思わず声を漏らした。それを見て、草野芽生は声をあげて笑った。きれいな笑顔だ、と進藤優成は思う。

「もう、大げさすぎ。危なくないよ。人に向けたりしなきゃ」

 尚も、進藤優成は恐々として縮みこまっている。

「だって、やったことないんだ。こんなに勢いが強いなんて思ってなかった」

 進藤優成が自分の花火を夢中で見つめているうちに、草野芽生の花火の火は消えていた。草野芽生はかがんで、川の中に花火の先端をつけた。じゅ、と火が消える音が進藤優成の耳にも届いた。

「そっかあ。やっぱり花火は初体験だったか。なんかうれしいね」

 草野芽生は感慨深げに言いながら、次の花火を取り出し、一つを進藤優成に渡した。そのまま、貸して、と進藤優成に言う。消えかかった花火をゆっくりと草野芽生の方に向ける。草野芽生の持つ花火に火が灯る。鮮明になった草野芽生の笑顔が、キャップが、やけに印象的で美しかった。

 それから二人はしばらく花火を交互につけあって遊んだ。新しい色が花火の先から吹き出すたび、進藤優成は新しい感情を知っていく。名前の付けられない感情がこんなにもあるなんて、知らなかったことだった。

「あ、もう次で最後じゃん」

 リュックを覗き込みながら草野芽生が言う。残念に思っている自分がいることに、進藤優成は驚いた。

 草野芽生は手の中に最後の花火を隠し、進藤優成に向かって笑いかけた。

「さあ問題です。最後の花火の定番と言えばなんでしょう?」

 苦笑がもれた。

「それぐらい知ってるよ。線香花火でしょ」

「ありゃ。さすがに知ってたか」

「舐められちゃ困るな」

 進藤優成は線香花火を一つ受け取った。二人は向き合ってしゃがむ。

「ねえ」

 草野芽生が進藤優成に話しかける。その右手には線香花火が、左手にはライターが握られている。

「どうしたの」

 進藤優成は顔を上げて草野芽生を見た。と言っても、あたりはすっかり暗闇で、その表情まではうかがえなかった。

「勝負しようよ」

 悪戯に誘う子どものような言い方で、草野芽生が言う。見えないが、きっと笑っているんだろうと進藤優成は思う。

「勝負?」

「そう。線香花火の玉が先に落ちた方が負け。いいでしょ?」

「いいよ」

「勝った方は、負けた方になんでも質問できる権利ね」

 まじめくさった草野芽生の言い方に、思わずふっと笑った。

「なにそれ」

「ね、いいでしょ?」

「別にいいけど」

 草野芽生は進藤優成の返答を聞くと、ライターに火を灯した。二人の世界だけが今、淡い光に包まれている。

「同時に火つけるよ」

「分かった」

 二人は線香花火を同時にライターにかざした。ほぼ同時に、二つの花火がぱちぱち、と音を立て始めた。

 進藤優成は自分の花火を凝視する。小さな紅い玉が優しく火花を散らしている。ちらりと前を見ると、草野芽生が自分の線香花火を夢中で見つめていた。

 ぱちぱち、ぱちぱち。

 ぱちぱちぱち、ぱち。

 ぱち、ぱち、ぱち。

 ぱち、ぱち。

 ぱち、ぱちり、ぽとり。

「あ」

 二人はほとんど同時に声をあげた。草野芽生の線香花火の玉が落ちたのだ。そして後を追うように、進藤優成の玉が落ちた。

「あちゃあ、負けちゃったかあ」

 少しも悔しくなさそうに、草野芽生は呟いた。大した権利でもないもんな、質問なんて、と進藤優成は思う。

「さあ、質問していいよ」

 再度生まれた暗闇の中で、草野芽生が言った。

 大した権利でもない、と思ったのもつかの間、進藤優成は迷った。改めて言われると、質問することなんてなかった。

「ほら、早く」

 せかされて、進藤優成は焦る。焦りは募るばかりで形にならない。

 むしろいっそ質問ではなく、告白してしまおうかとすら思った。いやいやそれは流石に気持ち悪い、と自分で考えを打ち消す。

 ろくな言葉が浮かばず、沈黙が間延びしていくのを感じた時、ふと思ついて、検討もせず言う。

「高校って、どんな感じなの」

 言ってから、進藤優成は後悔した。沈黙が加速したからだ。あまりにくだらない質問に、さすがの草野芽生も呆気にとられたらしい。しかも、暗闇では草野芽生の表情をうかがえないから、本当のところはわからない。

「ほら、僕行ってないから。知りたくてさ」

 急いで取り繕おうとしたが、これも違ったらしい。しばらくまた沈黙が続いたあと、草野芽生はやっと声を絞り出した。

「……情けないなあ。もう」

 返答してくれたことが嬉しくて、進藤優成は急いで言葉を継ぐ。

「そうなんだよ。情けないんだ、僕は」

 すると草野芽生は声をあげて笑った。気まずい雰囲気は脱したと、進藤優成は胸を撫で下ろした。

「わかった。じゃあ行っちゃおっか、学校」

 おもむろに草野芽生が言い出し、自分の口から、え、と声が洩れたのを、遅れて感じた。

「今度、行こう。夜にでも忍び込もうよ。深夜なら、大丈夫でしょ」

 いとも簡単そうに、草野芽生は言ってみせる。進藤優成は暗闇のせいで、彼女の表情を伺うことはできない。

「ちょっと待ってよ。僕は、学校そのものが駄目なんだ」

 何故か弁明するような言い方になった。

「前にやったことがあるんだ。心療内科の先生に言われて。誰もいない学校ならいけるんじゃないかって。でも駄目だった。校門を見ただけで足が竦むんだ」

 言いながら、なんて情けないのだろう、と進藤優成は思う。でもそれが現実だった。どうやっても、学校には行けないのだ。

「大丈夫だよ。今度は私が一緒なんだよ」

 威張るような言い方で、確信を持ったように草野芽生は言う。

 何の根拠もないにもかかわらず、そうかもしれない、と進藤優成は思った。草野芽生はいつでも、彼に、思いがけない体験をくれるのだ。

「ついてきてよ」

 そう言われてしまえば、断れるわけがなかった。なにしろ、人生で初めて愛した人の言葉なのだ。それに、草野芽生の「ついてきてよ」には、どこか抗いがたい魔力がある。

「……わかったよ」

 短く、だが確かに彼は決意した。

「やった! 約束ね!」

 草野芽生が嬉しそうにはしゃいだ声をあげた時、進藤優成はそれだけで幸せになれるような気がした。





 最後に会ってから二週間ほど経った時、進藤優成は草野芽生に呼び出された。深夜二時に、二人で最初に遊んだ公園に集合するらしい。

 進藤優成はTシャツの上にパーカーを羽織り、歩いて公園に向かった。Tシャツもパーカーも、渋谷で草野芽生に選んでもらったものだ。

 進藤優成の家からほど近いその公園に、すでに草野芽生はいた。彼女は控えめに灯る街灯に身を預けて進藤優成を待っていた。青色のデニムジャケットと、デニムジャケットと同じ色の中に、白くCの文字が象られたキャップを被っている。

 草野芽生は進藤優成を見つけると、屈託のない笑顔を彼に向けた。進藤優成の方も軽く手を振り、歩みを早めた。

「お待たせ」

 言いながら、自分の声が少しこわばっていることに、進藤優成は気づいた。自分でも知らないうちに緊張しているのかもしれないと思った。なにしろ、五年も遠ざかっていた学校という場所に今夜忍び込もうとしているのだ。

「やあやあ、ずいぶん待ったよ」

 草野芽生はわざとらしく言ってみせた。進藤優成は苦笑する。彼も、集合時間の五分前には着いていたのだ。

 草野芽生の姿を目にしてみると、さっきよりもいくらか緊張が解けていて、やはり彼女の存在は大きいのだと進藤優成は実感する。

「じゃあ、さっそく行こうよ」

 いつものように、草野芽生は軽快な足取りでふわりと浮くように歩き出す。これからすることがれっきとした犯罪行為だということがまるでわかっていないようにすら見える。

 それが進藤優成からしてみれば頼もしく、自然と彼の足取りも軽やかになっていた。





 進藤優成の視界に、高校の姿が入った。暗闇のせいでほとんど見えないのにもかかわらず、進藤優成はそこから一歩も進めなくなってしまった。

 金縛りとはまた違う。ただ、反対を向いて帰らなければいけないような気がしてならない。そうしないと、今にも吐いてしまうような気がする。息すらまともにできずに、視界がちらつく。

 草野芽生はしばらく気が付かずに歩いていたが、やがて隣に進藤優成がいないことに気づいて振り返った。

「どうしたの?」

 街灯に淡く照らされた草野芽生の顔には、明らかな心配があった。進藤優成は何か言おうと口を開きかけたが、なにも出てこなかった。ただ中途半端に口だけ空いたまま、震えていた。呼吸すらままならないのだから、当然と言えば当然だった。

 何をしてるんだ、僕は。

 頭の中で、進藤優成は自分に言ってみる。だが、身体は反応しない。

 身体が動かない代わりに、いつかの記憶がフラッシュバックしていた。

 浴びせられた冷水。蹴られた痛み。一人きりの帰り道。

 そのすべてが重く全身にのしかかっていて、内臓ぜんぶが窮屈な感じだった。

 愛する人の前で見せてしまう情けなさに、泣いてしまいそうだった。しかし、動かない身体は、涙さえ許してくれなかった。

 やがて草野芽生が進藤優成に近づいてゆく。ゆっくりと、確かに、一歩ずつ、近づいてゆく。

 そして草野芽生は唇が触れ合うほど進藤優成に近づくと、ふいに優しく彼の手を取った。

 草野芽生は笑う。ただただ、優しく、笑う。

 それだけなのに、進藤優成の心はひどく落ち着いた。押さえつけられていたものすべてが解き放たれるような、恐怖もトラウマも、ぜんぶがすっかりと抜け落ちるような気分だった。

 草野芽生は握った手に力を込める。進藤優成は、彼女の小さな手を感じていた。

 もう、息がしやすい。

 進藤優成はそう思った。





 学校に忍び込むのはたやすかった。校門さえよじ登ってしまえば、玄関に鍵は掛かっていなかった。二人は靴を履いたまま下駄箱を通り過ぎ、手をつないだまま並んで歩いた。

 記憶にある学校よりもずっと大きい場所だと進藤優成は思った。入ってしまえば、不思議ともう怖くなかった。それが草野芽生と手をつないでいるからなのかはわからなかった。まだ離したくないと思っただけだった。

 二人は月明かりだけを頼りに、階段を上っていく。五階にたどり着いてようやく二人は廊下へと出た。そして適当な一年生の教室を選んで入り込む。月の光が良く入り込んで、電気をつけなくても周りがよく見えた。教室のドアにも、鍵はかかっていなかった。

「どう? これが高校だよ、進藤くん」

 教室の真ん中まで歩くと、やっと手を離して、草野芽生は進藤優成に向き合って笑いかけた。

 どう、と言われても、なんと言えばよいのか進藤優成にはわからなかった。学校にこれたという感慨はあったが、今はただ、手を離してしまったことが惜しいとしか、思わなかった。

 進藤優成が何も言わないでいると、草野芽生は黒板に向かって歩き出した。そして教壇に上がり、教卓の前に立つと、わざとらしく大声をあげた。

「ほら、進藤! 立ってないで座らんか!」

 言われて、苦笑しながら適当な椅子を選んで座った。今はこの茶番に付き合おうと思った。

「じゃあ問題だ。三角形の面積の公式は?」

 また、わざとらしい言い方だった。

「簡単すぎ。底辺かける高さ割る2だろ」

「正解!」

 白いチョークで進藤優成を指して、草野芽生は笑顔でそう言った。彼女が笑ってくれることが嬉しくて、今が永遠に続けばいいのに、と進藤優成は思った。

「じゃあ、正解のご褒美として、何してもいいよ。私に。キスしたって、今なら文句言わないよ」

 キス、と聞いて、進藤優成の心臓は分かりやすく跳ねた。どうしてもその唇に目がいきそうになるのを堪え、目をそらす。

「冗談でも、そういうこと言わない方がいいと思うよ」

「冗談じゃないよ。だって、もう最後だし」

 瞬間、進藤優成には草野芽生が何を言ったのか理解できなかった。さいご、という言葉だけが無意味に宙に浮いて、つかめなかった。できたのは、馬鹿みたいに繰り返すことだけだった。

「……さいご?」

 なんと間の抜けた声だろうと、自分でも思った。と同時に、冗談だよ、と草野芽生が笑ってくれやしないかと、期待した。だが草野芽生はやけに真剣に頷くだけだった。

「うん。最後。明日には私、また引っ越すの。ここからずっとずっと遠い場所に。だからもう、進藤くんには会えない」

 会えない、と言われて、進藤優成は自分がどれだけ草野芽生を頼っていたか思い知った。彼女のいない生活など、もう考えられなかった。明日もいつものように、どこかに連れて行ってほしかった。ついてきてよの一言だけで、連れまわされる日常が、当たり前にあるのだと思っていた。

「会えないって、そんな。引っ越したって、会えるじゃんか。どこにだって、僕は行くのに」

 縋るように言ったが、草野芽生は力なく首を振るだけだった。キャップのせいで、その表情を知ることが出来ないのが、どうしようもなくもどかしかった。

「もう、駄目なの。私たちはもう、二度と会えない」

 冷たく、これ以上なく冷たく突き放され、気づけば声をあげていた。そんなのいやだ、とまるで子どもみたいに言い募る。自分でも知らず知らずのうちに、口調が荒くなる。

「なんでだよ。なんで、急にいなくなるなんて言うんだよ。きみは僕にとって、やっとできた友だちなんだ。人生で初めてできた、友だちなんだ」

 草野芽生はただ俯いている。キャップが彼女の顔を見せまいと守っている。おかまいなしに、進藤優成はなお言葉を紡ぐ。

「手放したくない。もう会えないなんて嫌なんだ。明日も明後日も、会いたい。毎日だって会いたいんだ」

 思いだけがあふれていく。草野芽生に関するすべての記憶がぐるぐると全身を巡る。どれもきらめいて見える。そして気づけば、自分でも言うつもりのないことを口走っていた。

「好きなんだ。どうしようもなく、草野さんが好きなんだ。草野さんのぜんぶが欲しくて、ぜんぶが知りたいんだ。もう遅いのかな。ねえ」

 そこまで言うと、ようやく草野芽生の身体がピクリと震えた。

 そして、草野芽生はようやく顔を上げた。その目は何かを決意したように、静かな光を放っている。

 そして草野芽生は、ゆっくりとした手つきで被っているキャップへと手を伸ばした。そのつばを掴んで、脱いだ。

 月明かりで、今まで頑なに隠してきた草野芽生の頭頂部が露になる。進藤優成の瞳にそれが映った時、彼はあまりのことに、声も出せなかった。

 彼女の頭には、草野芽生の頭には、緑の双葉が生えていた。

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