7.神楽

 翌日は、雲ひとつない青空が広がる晴天となった。

 しかしマシロが目を覚ましたのはその陽光によってでなく、家中に立ち込めていた様々な料理の香りがマシロの部屋まで漂って来たからだった。そして、台所に足を踏み入れた瞬間視界に飛び込んできた数多くの料理たちが、マシロの眠気眼を完全に覚まさせた。


「あら、おはようマシロ」


 小野はマシロの気配に気づくと、にこやかに振り返り声を掛ける。マシロは薄く開けた口で挨拶を返したが、目は並ぶ料理を見つめ続けていた。それを見やって、小野はふふ、と微笑む。


「ちょっと張り切り過ぎちゃったわ。あ、ちなみにこれはお昼用だからね。朝ごはんはこっちよ」


 マシロはそう言って差し出された朝食を小野から受け取ると、落ち着き切らない様子で自分の席に着いた。そこでふと、テーブルに真那の姿がないことに気づき、あたりをキョロキョロと見渡した。が、どこにもおらず、出かけたのだろうかと思いながら、トーストを齧り始めた。



 その後、萌子が朗らかな挨拶と共に小野の家にやって来たのは、身支度を終えたマシロが引き続き小野の料理姿を眺めていた時だった。

 小野に促されマシロがおずおずと玄関を見に行くと、三つ編みにした長い髪を耳の横から垂れさせ、長袖Tシャツに短パン、足元はスニーカーという、見るからに動きやすそうな装いをした萌子が立っていた。

 マシロに気づくと、顔に笑みを咲かせる。


「昨日約束した通り、一緒に神楽を見に行こう」


 言われ、マシロは目を泳がせたあと、靴を履こうとしゃがみながら、半ば心落ち着かなそうに訊ねた。


「剣くんは、一緒ではないですか」

「え、真那?」


 萌子はきょとんとした顔をしてそう言うと、一拍置いてからクスリと笑い、マシロの足元にしゃがみ込んだ。三つ編みが揺れる。そのまま、もたつきながら靴を履くマシロに手を貸した。小野が昨日、マシロのために買い与えた新品の靴はまだ硬く、うまく足をはめ込むことができなかった。


「真那は今日、祭りに出るから。一緒には行けないかな」


 それを聞き、マシロは内心ほっと息をつく。そして無事靴が履けると、立ち上がったマシロの手を萌子が優しく握った。間を置かず、萌子の明るい声が小野家の玄関にふわりと響く。


「せっかくだし、朝一番の神楽を見に行こうよ。私、朝の澄んだ空気の中で見る神楽が一番好きなんだ」






 小野はまだ準備があるということで、まずはマシロと萌子の二人だけで出発することになった。マシロは昨日と同じように帽子を深く被り、人混みに出るということでこの日はマスクも着用した。


 マシロは昨日散歩をする中で、風景ばかりでなく、道行く人や、道端に佇む人々も眺めていた。そこで、ひとつ気づいたことがあった。目に留まった人々の中で、自分のような真っ白な髪や、透けるような肌の白さを持つ人は、誰一人としていないのだった。

 自分は、周りのみんなとどこか違う。そのことを小野につぶやくと、小野はそうね、と相槌を打ったのち、しばらくの間はあまりそれが人の目に触れないようにしましょう、と言い添えた。

 マシロの髪も肌も、とても美しいものだが、それ故に人目を惹き過ぎてしまう。それを避けるために、ある程度隠した方がいいと、優しく言葉を継いだのだった。

 その提案について、マシロは深く追求するようなことはしなかった。小野の言葉を、そのまま素直に受け止めた。


 萌子がマシロの細く白い手を引きながら少し歩き、マシロはそれについて行く。そうして進んで行った先に、人だかりができている場所があった。

 ここにやって来てから始めてみる人の群れに、マシロは目を丸くする。しかし萌子は慣れたようにするすると人の間を縫って進んで行き、マシロはもたつく足を懸命に前に進めついて行った。

 そして、ここが良さそうだと言って萌子が示した場所に立つと、私服を着る一般の人々とは佇まいを異にする者が人だかりの中心に集まっているのが目に入った。


 法被はっぴを着る青年、袴を履いて笠を被りまるで侍のいで立ちにも見える中高年の男性、着物を着せられている感が否めない年端もいかない小さな少年たち。その少年らは全員鳥の絵柄の被り物を被り、自分の顔よりも大きなつづみを抱えている。全体的にまだあどけなさが残っていた。


 マシロは物珍しそうにして、彼らを順々に眺め見ていく。男ばかりかと思ったが、端の方で巫女の衣装を身に着けた少女が四人、背筋を伸ばして立っているのが目に留まった。彼女たちは萌子よりいくらか背が低く、顔ももっと幼げで、柔らかな頬を時折紅色に染め、はにかんでいた。


 そこからまた目を移していくと、大人の男性陣の端の方に、真那や文也がいるのが見えた。法被を着て、片手には笛を持っている。マシロがそれを萌子に伝えると、萌子はそこに向かって手を振った。まず真那が気づいたが一瞥いちべつをくれただけで、その後気づいた文也は、にこやかに手を振り返してきた。



 その後だった。幼い声で、「だ」と言ったのがマシロの耳に届いた。そしてマシロが文也たちから視線を外すや否や、人々の視線がある方に集中した。

 その先には、周りの人々より幾分も大きな体を持つ獅子がいたのだった。華鬘けまん模様が施された緑の身体に、艶のある赤い顔が覗く。そこには鋭さを持った双眸そうぼうが組み込まれ、金色の歯はむき出しになっている。

 マシロの近くで母親に抱かれていた幼女が声を上げて泣き出した。それくらい迫力のある姿をして、獅子は悠々と歩んできた。


 それを引き連れるようにしていたのが、金色が煌めきひと際目を引く衣装、金襴きんらんを身にまとった唐子からこだった。体躯たいくは獅子に隠れるほど小さいのだが、りゅうとした佇まいで歩みを進め、つづみを持つ少年や笛吹きの男性陣の真ん中に陣取った。白塗りされた顔に、目元口元の紅色が映えている。しかしその化粧顔の下に、緊張を滲むのが時折垣間見えた。


 その荘厳そうごんたる空気にマシロが圧倒されていると、その中で一番の年配と見える男性が、ざわめきの中を縫うようにして登場した。観客に向かって一礼し、マイクを通していくつか言葉を述べる。天気に恵まれた感謝の念、観客への謝辞、神楽に携わるものたちへの激励。それらが晴天に響き渡った。

 終わると拍手がパラパラと鳴り、水色の着物を着た男性が入れ替わるように現れた。神楽台に向きお祓い棒を掲げ一礼し、祝詞のりとを上げ始める。あたりは水を打ったように静かになった。


 空気が締まった。何かが始まる、とマシロはその身に感じた。そして祝詞が終わり、男性が下げた頭を上げ切る前に、笛の音色が澄んだ空気の中に響き渡った。金襴を纏った少年が大太鼓の前でバチを振りかざす。ドン、と深い音が、心臓にびりびりと振動した。始まった、という感覚が、マシロの体の中心にほとばしった。


 小太鼓、大太鼓、笛の音が幾重も重なっていく。それに合わせてかぶを振りかぶる獅子が舞い、その獅子と神楽台の間を、を持つ金襴の少年が舞いをしながら何度も往来する。その脇にはひょっとことおかめがそれぞれ固有の舞を舞い、その演者たちを、鼓役と笛役が囲むようにしていた。

 鼓の少年たちは合間に掛け声を飛ばしたりと懸命に役割を果たそうとし、笠を被る笛の大人たちは布が張られた椅子に腰かけ音色を響かせ、真那や文也、その他の少年の笛たちはその傍らに立ったままで吹いていた。時折そのかたまりから道を外れたような音が鳴ることがあるのだったが、それもまた味となっていた。

 

 観客たちは時に笑顔を浮かばせながらそれらを眺めていた。そんな中マシロは、神楽を舞う演者たちの集中が乗り移ったように、一心不乱になって舞を見つめていた。

 前のめりになり、各々の舞を目に焼き付けるようにする。唐子に、獅子に、おかめに、ひょっとこに、順々に視線を転じていく。

 舞だけでなく、音を奏でる者たちにも視線を向け、耳を傾ける。リズムよく響く小太鼓の音は心の奥底の何かをはやし立て、大太鼓の深みのある音は心臓を震わせ、高く鳴り響く笛の旋律は清らかで目の前を明るく見せた。

 舞の舞のつなぎ目、例のお祓い棒を持った男性が祝詞を上げる間はお囃子も舞も静まるのだが、マシロはその数十秒の間だけ、深く呼吸ができるというような具合でいた。その他は、瞬きも呼吸も忘れるほど、舞に見入り、お囃子を聞き入った。

 

 

 しかし舞は永遠には続かない。あるところでお囃子の旋律が緩慢なものになったと思うと、辺りは盛大な拍手に包まれた。マシロが状況を受け止めきれないうちに、太鼓を叩く役目が少年から大人に変わり、神楽台が動き始める。獅子はけ、その中から大人が数人顔を出した。皆、顔を真っ赤にし、大量の汗を噴き出していた。


 その傍らで、法被を着た大人たちが金襴の少年らに水を渡し、うちわで風を送り始める。鼓役の小さな少年たちは近くに控えていた自分の母親のそばに寄り、鼓を手渡すと、小さな足にひっかけてある下駄をカラコロと鳴らしながら移動を始めた。

 そのあとを、観客の数人がぞろぞろと連なってついていくのだった。


 棒を飲んだように立ちすくみながらそれらを見送るマシロの肩を、ポンと叩く者がいた。マシロが目を丸くしてその方を見ると、やっと一区切りついたと、日傘をさした小野が立っていた。その日傘を傾けながら、マシロの顔を覗き込むようにする。よくよく見ずとも、彼の心がすっかり神楽に奪われていることをすぐさま理解した。


「神楽、気に入ったかしら?」


 訊かれ、マシロはこくんと頷く。静かな興奮をはらんだ瞳が輝いていた。隣の萌子の顔にも笑みが浮かんだ。


「みんな大きくなって、ちゃんとやってるわねぇ……。――ここらの神楽はね、主役は子供たちなの。特にあの、金襴を着ている子たちが花形ね。大人はそれらを支える役。休憩に入れば大人が子供たちに水を私に行ったり、団扇で扇いでやったりして労うのよ。お疲れさんお疲れさん、って言ってね……。そうしてもらえるだけの努力を、子供たちもしているわ」


 小野が流れていく人の列を見やって言った。マシロも小野の視線を追うように、また神楽の方に顔を向ける。しかしすでに、演者たちは彼らの後を追う観客の奥に隠れて見えなくなっていた。獅子の後部に垂れる尾が揺れているのが、辛うじて合間から見えた。

 名残惜しそうにするマシロに、小野が声を掛ける。


「神楽舞をする神社はまだいくつかあるのよ。他のも見に行ってみる?」


 小野の提案に、マシロは大きく首を縦に振る。今までにない、はっきりと明確な肯定を示す反応だった。


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