#21 春分の祭り


 ネヴルーズは春分の日に行われる、春の到来を祝う祭りだ。

 大通りでは踊りとパレードが披露され、多くの露天が並ぶ。


「ふわ……」


 気持ちの良い晴天に、思わずあくびが出てリーシャは目をこすった。このところ、あちこち歩き回って疲れがたまっているようだ。


(お祭りなんて久しぶり……)


 領地にいた頃も祭りはあったが、祖父もリーシャも騒がしいのが得意ではなく、祖父の挨拶が終わるとすぐ帰宅するのが常だった。気になるなら見てきていいと祖父にはいつも気遣われたが、はしゃいで楽しむ感覚はとっくにリーシャからは失われていた。子供らしく楽しい振りをしたほうが祖父は安心するとわかっていても、早く帰ってハサンと会いたい本心を偽れなかったのだ。


(……ハサンに見せてあげたかったな)


 人も多いし、大きな音もするので猫のハサンにはきついだろうが――。もうひとりのハサンのことをふいに思い出し、リーシャは首を振った。あの子に会うことは二度とないのだ。

 変えられない転生の宿命だった。



 ラインハルトとの待ち合わせ場所のラガタ橋はトランジャ川にまたがる大きな橋梁だ。馬車がすれ違えるほどの幅に加え、両脇には人が歩くための歩道もついている。

 ラガタ橋の周辺は人でごった返していた。

 トランジャ川は帝都の物流を支える巨川だった。岸辺にはいくつもの船着き場があり、人と荷物を絶えず運んでいる。

 その岸部でも一番大きな渡し場がラガタ橋の下にあった。

 観光に訪れた人や、祭りのために運び込まれた荷物、それを運ぶ奴隷など、馬車が通る隙間もないほど橋は人で溢れていた。


(殿下はどこに……)


 この人混みの中から人ひとりを見つけるのは大変な作業だった。彼は目立つ人だが、ここで目立たれては大騒ぎになりそうだ。


やってられるか、こんなことネ モグ ヴィシェ オヴァコ!』


 荷運びをしていた若い奴隷の一人が荷物を地面に叩きつけて叫んだ。彼が口にしたのはバルカニア半島でよく使われているラシュカ語だった。

 体格から見るに捕虜から奴隷になった元兵士のようだった。まずいことに手枷だけで、足枷はついていない。


(脱走……!?)


 周囲の人がパッと離れた中で、リーシャは奴隷と目が合った。

 騒ぎに気づいて鞭を持った奴隷主が焦った様子で駆けつけようとしている。

 追い詰められた奴隷がリーシャに向かってきた。人質にする気だと不思議と理解できた。

 今日のリーシャは普段着だが平民にしては良い身なりで、扱いやすい小さな子供が一人でいるように彼には見えただろう。


(何か武器は……)


 一瞬気をそらせれば、哀れな奴隷は主人によって制圧されるだろう。そして罰を受ける。鞭打ちは皮膚が裂けるほどの重罰だ。

 投げつけられるものでもあればよかったが、リーシャの腕力で扱えて、相手を怯ませられる都合のいいものは周囲にはなかった。


(嫌になるな……)


 56回も転生して、暴力と無縁でいられた人生は一度もなかった。慣れてしまった部分もあるが、平気なわけではない。

 何度転生しても、女性で子供であることは変えられない。暴力に弱く、抗う手段は限られる。その非力さにうんざりする。


(短剣でも持ち歩くべきだったかな……)


 護身のためでも武器は暴力を呼ぶ。そして短剣は相手を殺さず無力化することに向いていない武器だった。使う時は一撃で相手を屠らなければかえって危険だ。

 奴隷の逃亡は厳罰の対象ではあるが、殺されるほどの罪ではなかった。たとえ短剣を持っていたとしても抜くのに躊躇しただろうし、人質が武器を持っていることに気づかれたら状況を悪くするだけだ。

 結局、黙って人質にされるのが一番被害が少ない。人質を取ったところで奴隷は逃げられないし、大騒ぎにはなるだろうが時間の問題で制圧されるだろう。

 ラインハルトとの約束に間に合わなくなることだけが気がかりだった。それ以外は、他の人間が被害に遭わなくて良かったと思うしかない。57回も人生があると、こういうことはたまにあるので、他の人間よりリーシャには耐性がある。

 覚悟して身構えると同時に、リーシャに迫っていた奴隷が吹っ飛んだ。横から走ってきた体格のいい男が、奴隷に飛び蹴りしてふっ飛ばしたのだ。ステッキを持った赤毛の紳士だった。

 蹴りの風圧に押されて、ぺたんとリーシャは尻もちをついた。実に見事な飛び蹴りだった。リーシャの身長を超えるくらい、紳士は飛び上がっていた。野生動物のような跳躍力だ。

 吹っ飛んだ奴隷に紳士は追撃した。馬乗りになってステッキで容赦なく殴り始めたのだ。血が飛び散って奴隷が泣きわめいても彼はやめなかった。


「そ、それ以上やったら死にます……っ」


 振り上げられた彼の手にしがみついてリーシャは止めた。ステッキの金属製の握りは奴隷の血で光っていた。これほど殴ったら杖のほうが折れるはずなので、おそらく鋼入りなのだろう。護身用に強化された武器だ。

 紳士がリーシャを見た。丸メガネ越しに、見覚えのある赤い瞳と目が合った。


(殿下……!?)


 雰囲気があまりにも違うので気づかなかった。染めた赤い髪の上には柔和な印象の山高帽が載っており、彼は祭りの日にふさわしい、明るい色のフロックコートに身を包んでいた。趣味のいい文化人のような出で立ちだ。

 奴隷を殴り殺しかけた杖を放り出すと、ラインハルトはリーシャの前に膝をついた。


「大丈夫? ケガしてない?」


 人を殺しかけた凶暴性は完全に消えて、その目はひたすら心配そうだった。


「はい。尻もちをついたくらいで……」


 ラインハルトはリーシャの体に触れないようにスカートの裾をパタパタ動かし、服についた砂を落としてくれた。


「危なかったな。侍女は?」

「まだいません」


 ピタリとラインハルトは動きを止めた。


「あの、で――ええと」


 ここで殿下と呼ぶのはまずい。閣下と呼ぶのもはばかられた。ラインハルトは裕福な中流階級に見えるよう変装している。


「今日はライネと呼んでくれ」


 リーシャの耳元でささやいて、ラインハルトはにっこり笑った。


「……ライネさん。護衛は?」

「俺を見失ってなければその辺にいるんじゃないかな」


 あさっての方を見てラインハルトはすっとぼけた。護衛が近くにいたら、ラインハルトが奴隷に飛び蹴りして殴り殺そうとするのを見過ごすはずがないだろう。


「……まきましたね?」

「デートの邪魔は無粋だと思って隠れてるのかもよ。姫こそ一人で来るなんて危ないだろう」


 話をすりかえるんじゃない皇子様。この前、暗殺されかけたばかりだろうが。

 リーシャの剣呑な視線に気づかない振りをして、ラインハルトはニコニコ提案した。


「今日はリーシャと呼んでもいい?」

「ダメです」


 血縁以外で女性の名前を呼び捨てにしていいのは、夫と婚約者くらいだ。本来ならリーシャの呼び方はアシールギル姫か、アシールギル嬢。同じ場に姉妹がいてややこしい時はリーシャ姫と呼ばれるが、勝手に呼んでは顰蹙ひんしゅくを買うくらい、貴族の女性の名前はみだりに呼んではならないなものだった。


(殿下に呼び捨てを許可したら、ところ構わず連呼されて既成事実を作られそう……)


 自分たちはそれほど親しいのだとアピールして、無言の圧力を周囲に加えそうである。


「姫はしっかりしてるね。だからって一人で出歩くのは危ないよ」


 とろけるような美声でラインハルトは小言を言った。


「……それ、私が言われるんですか?」

「俺は奴隷が襲ってきても蹴り飛ばせるもん」


 実際は蹴り飛ばすだけじゃすまなかった。ラインハルトが殴り殺しかけた奴隷を見ると、顔面が陥没して血だらけで瀕死状態だった。


「あーだめだめ。あんなの見ると夢に出るよ」


 強引にリーシャの視界に割り込んで、ラインハルトは瀕死の奴隷を隠した。遊んで壊してしまったスリッパが見つからないよう、飼い主の注意をそらそうとする犬を思い出すのはなぜだろう。


「……助けてくださってありがとうございました。でも殴り過ぎでは」


 リーシャが止めなければ死ぬまで殴っていたんじゃないだろうか。血に飢えた獅子と言われるわけだ。むしろよくリーシャの制止で止まったものだ。

 誤魔化せないと気づいたのか、ラインハルトは真面目に説明した。


「弱い相手を狙う卑怯な奴に手心を加えても、俺じゃなくて復讐しやすい相手を逆恨みするんだよ。二度と反抗心を持たないくらい徹底的にやらないと、姫が危ない」


 暴力をふるい慣れている人間の理屈だった。

 軍人という暴力で他者を屈服させる仕事柄なんだろうか。どれくらいやれば相手を服従させられるか、ラインハルトは暴力で人を測っている。


「姫には怖い思いをさせてしまったな。暴力にはさらなる暴力を返すのが俺の信条だけど、別に人を殴るのが好きなわけじゃないし、姫に手を上げたりしないよ。約束する」


 リーシャの手を取って、真摯にラインハルトは誓った。

 ラインハルトは暴力という手段を決して捨てられないだろう。本人にもその気がない。まるで、そのようにしか生きられないことへの許しを求めるような誓いだった。

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