#17 瀕死
屋敷に戻ると、リーシャは血のついたドレスを着替えて、ラインハルトの馬車の御者に伝言を伝えた。
女性の馬車に同乗して行ったというウソを疑うことなく、御者は慣れた様子で一人で帰っていった。
(こういうことが日常茶飯事なのね……)
将軍は女癖がよくないらしい。あの見た目と声なら、相手には困らないだろう。
婚約式は終わりを迎えつつあった。仕事は山積みだが、今はラインハルトのそばを離れられないので、「眠いので後はお願いします」と酔っ払い兄を起こして任せた。生返事だったが、「こんなことも出来ないとお友達に笑われますよ」と言うと、渋々起き出したから大丈夫だろう。出来はともかく。
「リーシャ、閣下は?」
客を見送っていたセディクに尋ねられ、「庭で少し話した後、お帰りになりました」とリーシャはウソをついた。
「そうなの? ちなみに何の話をしてたの?」
「アーモンドの花が綺麗だとか……うちの庭を気に入ってくれたみたいです」
「それ、また招いてほしい口実じゃないか? 口説かれなかった?」
心底心配そうに言われてリーシャは首を振った。
「この後、素敵な女性と過ごすと言っていました」
「ええ、護衛もいないのに? まずいなそれ……」
弱りきってセディクは頭を抱えた。ラインハルトが護衛を連れて来ていないことはリーシャも気になっていた。
襲われた直後に危険すぎる。
「護衛にも知られたくない相手と付き合ってるのかな……」
重々しいため息とともにセディクはうめいた。
「ありそうですね。人妻とか?」
適当にリーシャは頷いた。彼なら本当に好きそうではある。
「年上の未亡人が特に好きらしい」
後腐れがなくて理解のある相手か。なるほど。女好きが好みそうな相手だ。
ともかくラインハルトが帰ったというウソを、誰も疑わないでくれて良かった。――本当に良かったのかはともかく。
「……お義兄様。すみませんが、後のことは兄に任せていいですか? もう眠くて」
「もちろん。今日は一日中、働き詰めで疲れただろう? ゆっくり休んで。君のおかげで、色々あったけど良い婚約式になった。感謝してるよ」
兄はろくに働かないのを見越した上で、セディクは快くリーシャを休むよう言ってくれた。彼にウソをつくのは心苦しい。
(せめて彼にだけは将軍の容態を伝えるべき……?)
だがセディクにも立場がある。将軍が毒で瀕死の状態と知ったら、上官をはじめとした部隊に知らせないわけにはいかないだろう。
(あの毒……症状からしておそらくウズ。帝国よりもっと東で使われる暗殺用の毒だわ。製法も扱いも難しいあの毒は……)
帝国内に処置できる医者がいない。
リーシャがそれを訴えたところで、誰も信じてくれないだろう。前世の知識と言えない以上、リーシャもなぜ知っているのか説明できない。
(結局、殿下の言う通りにするのが一番いいのかしら。万一があったら、大問題になってしまうけど……)
離れに戻ると、ラインハルトの熱は上がっていた。脈も速く、ひどく苦しそうだ。
「う……姫?」
「はい。殿下のことは誤魔化しておきましたよ。他に欲しいものは?」
「たらいか何かないか……吐き気がひどくて」
体を起こすのを手伝って、口元にたらいを持っていくと、ラインハルトは胃の内容物をすべて吐いた。
「最悪だ……女性にこんな醜態をさらすなんて」
「馬鹿なこと言ってないで、今は回復することだけ考えてください」
リーシャの見立てが正しければ、嘔吐はこれ一回では済まないはずだ。一晩にあと数回、吐くものが何もなくても吐瀉することになる。その体力もいつまで持つか。
ひどい汗をかいて浅い呼吸を繰り返しながら、ラインハルトは手で何かを探した。
「姫……俺の剣は」
うわ言のように彼は言った。
「ここにありますよ」
ラインハルトのサーベルを、リーシャは彼が握れるよう、ベッドの上に置いた。
(こんな状況でも剣を求めるのね……)
身を守るための武器を手放せない人生。だからこそ皇族には常に帯剣が許されている。
「殿下、心配なら誰か呼びましょうか? 基地まで人をやって密かに呼び寄せることもできます」
熱に浮かされながら、ラインハルトは首を振った。
「どこに裏切り者がいるかわからない」
「それで護衛も置いてきたんですか。襲撃の直後に無茶すぎますよ。追撃されたらどうするんです」
つい責める口調になったリーシャを、ラインハルトは薄く目を開けて見た。目を開けることすら体力を使うようだった。
熱でうるんだ目で彼は微笑んだ。
「副官が生きてたら同じことを言っただろうな」
ラインハルトは苦しそうに話し続けた。そうしないと意識を保てないのだろう。そして意識を失えば危ないと、彼は正確に自分の状態を理解しているようだった。
「カッとなると見境がなくなるのは俺の悪い癖だ。副官がいた頃は止めてくれてたんだが……自分じゃ駄目なんだ。怒りがこみ上げると制御できない。今日も命を狙われて頭に来て……こんなことで俺の人生を変えられてたまるかと思ったら、意地でも予定通りにしてしまった」
かすれた弱々しい声は、彼自身こうなって反省しているようだった。
「おかげで、姫には迷惑をかけっぱなしだな」
すまない、と真摯に謝られてリーシャは戸惑った。
「私のことは構いませんが……もっとご自分を大事にしてください」
彼の言う「見境がなくなる」は自暴自棄と紙一重だ。何かひとつ間違えれば、彼自身の人生を台無しにしてしまう。
転生してまたやり直しになるリーシャと違って、彼の人生は一度きりなのだから。
「姫のリボンを返さないとな……」
「はい?」
うわ言のようなつぶやきが何のことか、リーシャはすぐには思い出せなかった。
図書館で会ったとき、ラインハルトに喪章の黒いリボンをほどかれた。そのままリーシャは逃げ出したので、リボンは彼の手に残ったのだ。
「持ち歩いてお守りにしてた。新年会で筆頭宰相を殺しかけた時……姫に怯えた目で見られたのが本当に堪えたから。どうでもいい人間にどう思われようと構わないが、死んだ兵を悼んでくれる人に怪物と思われるのは辛い。必要ならどんな汚れ仕事だってする覚悟だが、それは怒りに任せるのとは違う。……姫のような人に恐れられる怪物にはなりたくないんだ。そのためには自制が必要だってわかってる。毎日、姫のリボンを見ながら自分に言い聞かせてた」
焦点の合わない目をリーシャに向けて、ラインハルトは笑った。熱に浮かされて瀕死の状態なのに、とろけるような笑みだった。
「また会いたかった。リボンを持ち歩いていたら、もう一度姫を見つけられる気がしたんだ。見つけたら、リボンを返すのを口実に出来るだろう? ずっと大事に持ち歩いてたのに、刺客に襲われた時に汚れてしまった。再会の希望まで潰されたみたいで、余計に頭にきた」
ラインハルトの声が震え始めた。体もガクガクと痙攣している。
「殿下、寒いですか?」
「熱い……のに、寒くて仕方ない。氷の棺の中で体を燃やされてるみたいだ。俺の体、どうなってる?」
「ひどい汗です。辛いでしょうが、体を起こして着替えましょう。父のシャツがありますから」
体を起こさせるとラインハルトはまたえずいた。吐くものはなく、胃液しか出なかった。全身が悲鳴を上げながら、なんとか体の毒素を出そうとしているのだ。
吐くたびにラインハルトの体力はなくなっていく。リーシャは吐き気止めの薬湯を煎じた。
「殿下、飲めますか? 胃を刺激して、また全部吐いてしまうかもしれませんが、効けば吐き気は収まるはずです」
「飲むよ。これ以上、姫の前で吐きたくない」
ラインハルトはもう自分で器を持てなかった。それでも驚くほど強固な意思で、リーシャが飲ませる薬湯をすべて飲み干した。
汗を拭いてやり、父のシャツを着せて横にすると、少し楽になったようだ。ただ吐き気は相変わらずひどいようで、薬湯を戻さないように必死で耐えているのが伝わってくる。
「頑張ってください。毒の効果は数時間です。今夜を乗り越えれば、生き延びられます」
「なかなか……難しそうだな。姫の見立てはどれくらい?」
ウズは猛毒だ。健康な成人男子でも半分は死ぬ。
沈黙するリーシャにラインハルトは察したようだった。
「俺が死んだらクーアを呼んで、誰にも知らせず死体を処理してくれ。俺を殺したがってる連中を、むざむざ喜ばせたくない」
「殿下」
「頼むよ、姫。皇子として弔われたくないんだ。皇帝の息子として生まれたことは俺にとって呪いだった。俺が生まれなければ母は死なずに済んだんだ」
呪い。リーシャにも呪いがある。解けない呪いの辛さを知っている。
「……わかりました。万一のときはすべて殿下の言う通りにします。でも諦めないでください。まだ心残りがあるでしょう?」
「うん……殺さなきゃならない奴が、まだたくさんいるんだ。……でも心が揺れるな。ここで姫に看取られて死ぬのが、俺にとって一番幸福な死に方だろうから」
「馬鹿なこと言わないでください」
「もっとろくでもない死に方をすると思ってた。今なら、この世で一番美しいものを焼き付けて死ねる……」
満開のアーモンドの花を見て、ラインハルトはどこか呆然とした風だった。こんなにも美しいものがあるのかと途方に暮れるように。
「来年はもっと美しく咲きますよ」
おかしそうにラインハルトは笑った。
「そうだね。死にたくないな。一番素敵な女性を口説きそこねるなんて、死んでも死にきれない」
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