壺の中の宇宙史
色街アゲハ
第一章
何時だか少年が読んだ本の中に、掘り出された名も知れない貴人の物と思われる骨壺に関する物があった。其の壺の中には、副葬品として青いオパールが収められており、其れは長い年月に依っても、些かも其の輝きを損なう事無く、放つ輝きは、嘗ての貴人の在りし日の姿、又、其れを偲ぶ人々の想いを、今も尚伝える物として其処に在った。
少年が此の話を読んでからと云う物、何故か此のオパールのイメージが何時迄経っても、頭から離れようとしないのであった。故人を偲ぶ、恐らくは彼の人を慕う者に依り、其の想いを託されたと思しき宝玉。其れは長い間、本当に長い間、地中で誰に顧みられる事の無いまま、埋葬された時から掘り出される其の時迄、もしかしたら今に至る迄、そして、此れから先も其の想いを保持したままこの世界に在り続けるのだろう、と。其の衰える事の無い青い輝きの中で。
少年の孤独な境遇に、この青い光が結び付き、何時しか或るイメージを醸成するに至った。長い間地中に在った骨壺、其の中では、他の世界から隔絶した独自の世界が恐らく展開されていたに違いない、其れはどんな世界だったのだろう、と。
外の光の射さない、暗い閉じられた世界の中で、オパールの青の色が少しずつ其の中に滲み出して行き、長い時を経て壺の中一杯に其の色が満ちて行った。満遍なく広がった青い色は、やがて各々の層に分かれて行き、見上げれば何処迄も広がる空の青。下には延々と続いて行く波打つ海の青。
何時しか少年は、広い海の中に唯一つポツンと浮かぶ白い砂も眩い孤島に一人佇む己の姿を見い出してた。
何処迄も広がる空の中を、少しずつ形を変えながらゆったりと流れて行く雲の群れを、飽く事無く目で追い続け、寄せては返す波打ち際の音に知れず心を捉われながら、傍らの空に向けて伸ばした指が所在無さげに揺れている姿を思わせる椰子の揺れる影を、時の経つのも忘れ何時果てるともなく見入っていたりと、何時しか心の裡を占めるに至った此の世界。
其れは生まれ落ちて此の方、遂に馴染む事のなかった世界より以前の、唯其処に在るというだけで充足していた世界の再現だったのかも知れない。
変わる事を望まず、そもそもそんな事思い付きもしない、のどかな午睡の夢の中で垣間見た永遠の刻。誰知られる事無く、自ら語る事も無い。其れは閉じられた壺の中でのみ成立していた世界であり、しかし一旦骨壺の封の切られた後、中には唯、物言わぬオパールが一つ。掘り出される以前に夢見ていたであろう、壺の中のあの永遠の海辺は、封切られると同時に始めから其処には何も無かったかの様に、特別な処など何も無い、ありふれた壺が虚ろな口を開けているだけだった。
話はこれで終わる筈だった。密かに見られていた夢は誰に知られる事も無く、ひっそりと消えて行っただけの。
しかし、夢と云う物は連鎖する物なのである。例え誰に知られる事なく終わったのだとしても、其の夢が一旦現れた、其の事が他の種子を同じくする夢の芽吹くのを促す物なのだ。類は友を呼ぶ、或いは、或る夢が芽吹く以上、其の原因となる種子は既にばら撒かれた後なのだ。知られようが知られまいが、一旦芽吹いたその夢は、芽を出すだけの条件が整ったと云う事。他の場所で芽を出さない理由など無いのだ。
期せずして少年の手に取った一冊の学術書。身の丈に合わぬ所を無理に背伸びして手に取った其れは、人類の宇宙観の変遷、歴史に就いて綴った物で、大部分の記述は少年にとっては難解、若しくは退屈な物であったが、其の中に書かれた一節、”世界は巨大な壺の中”云々が妙に気に掛かり、かねてより少年の夢見ていた世界の雛型が其れに合わさり、一人物思いに耽りがちな性格も相俟って、自分だけの密やかな世界を醸成して行ったのである。
皆が寝静まった後、カーテンを開き窓の外に広がる街の眺めは、何時だって少年の心を浮き立たせた。静寂に包まれた夜の街は、自分だけの精巧な玩具の様に思われた。目を細めて遠巻きに見ると、増々其の印象は強まり、遠く灯るビルの明かりは豆電球、遠く走る微かに音の伝わって来る電車は、自分の手の平に収まる位の大きさで、あの街の上に浮かぶ月は蛍光版を切り抜いた物に違いない。街全体がブリキか何かの安っぽい金属で出来ていて、其の動力として至る所に水銀の水路が奔っている。
想像の中で、少年は自分好みに街を作り上げて行き、昼の間其れは少年の想像の内の壺の中に、誰に告げられる事も無く、密かに隠れ眠っているのだった。
夜ともなれば、其の壺は空一杯に膨れ上がり、忽ちの内に現実の街を塗り替えて、少年だけの理想の街にして仕舞う。或る時は窓から街を遠目に眺め、また或る時は壺から覗き込んで街全体を俯瞰して、小さな細工物としての街の、細々とした動きを見て楽しむのだった。
ビロードの黒布の上に鏤められた星辰の大天幕は、時と共にゆっくりと回転して行き、地中に据えられた星読みの装置を経由し、星の光の強さ、色、位置などを元にして、街全体の動きを制御していた。
赤い小さな星が、街の外れの花屋敷の花壇の一角に植えられた花を一斉に花開かせ、黄色の大きな一等星が街工場の動力炉に灯を点す。
空一面の星々が街を動かす設計図となっており、街中に血管の様に奔る水銀の流れが、星々の定めた絵図に従い、街の各所に据えられた仕掛けを動かす。
どんな意思がその絵図を描いているのか、永らく少年には不明のままであったが、ある時ふと想い起された記憶がその答えの一端を垣間見させる事となった。
記憶と言っても、其れが本物なのか、想い起そうにも朧気で、其れが本当に自分の記憶なのか今一つ実感が持てないのであったが、何時の事かも分からない或る夜の事。不意に目が覚め、違和感を覚えながら目を擦っていると、閉じられたカーテンの隙間から差し込む月の光がいやに白く、部屋の中にまで溶け込む様にそれは柔らかく、じっと息を潜めて動かない此方にまで沁み込んで来る様に思われるのだった。
誘われる様に身を起こし、カーテンを広げると、何の事は無い、何時もと変わらぬ、ただ丸い月の高く照り映えている夜空なのだった。
おかしな時刻に目が覚めた物だから、再び寝入ろうにも目が冴えて、仕方なく部屋の床に座ってぼんやりと、空を見上げているのだった。
目の前に置いたクッションの上には、祭りの日にお小遣いをはたいて買い込んだ、ビー玉だのおはじきだの、様々な形、色をしたガラス玉が散らばって、気紛れに手に取って光にかざしてみたり、意味も無くカチカチと触れ合わせてみたり、と、手持無沙汰の夜長を遣り過ごしていた。
そうしている内に何気無く気付いた事だが、手元のガラス玉の数が、どうにも見る度に変わっている様な気がしてならない。始めは寝惚けた末の勘違いとも思ったが、目を逸らす振りをして横眼でガラス玉の方に注視していると、果たして、クッションの上のガラス玉の幾つかが俄かにチカチカと光ったかと思えば、不意に消え失せ、代りに夜空の一画に先程のガラス玉と同一の色をした星々がそっと灯り、何食わぬ顔で夜空に紛れ込んでいた。
己の戯れ心で選んだ夢の結晶であるガラス玉。あんな色こんな色、キラキラと光って、覗き込んでいる内に自分の心の中に吸い込まれて行く様な、そんな他愛の無い夢の一欠けら。
其れ等が夜空に描かれた壮大な絵図の内に参加している。ただ外から眺めるだけで、此方から触れる事の出来ない街の姿に、諦めと半ば憤りを覚えていた少年は、自分でも気付かない内にこの街の密やかな動作の要因となっていた事に、驚きと嬉しさを覚え、しかし同時に疑問が頭を擡げて来た。
自分の所有するガラス玉が、星空の一端を担っている事は理解した。しかし無数とも言えるこの星辰の空。自分一人の想像の産物にしては余りにも大きく多過ぎる。例えこの壺の中の世界が自身の想像に依る物だと云う事を差し引いても、これだけのものを自分一人で造り上げるには……、と、其処で気付いた。そもそも自分が此の空想の街の夢に浸る様になった切っ掛けが、一冊の本の一節からだった事に。そして、その一節に至るまでに費やされた時と、其れに伴う様々な人々、其れ等全てが街を生み出した土壌となっている事に。
過去の遺産だけではない、もしかしたら今現在も、自分がそうであった様に、街の”運営”に知らず知らず参加している人々が、人知れず存在しているのではないか、と云う事に。
皮肉な事に、少年が外の世界に目を向け、自分以外の人々と多少なりとも交流を持つに至ったのは、他でもない、他者との接触を拒絶し、自身の内に耽溺する原因となった筈の、此の自分の夢の世界の故だったのだ。
第一章:終
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