第一回 おとーふコロシアムAブロック『標的』

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「お疲れさまでした~」

「あ、本間ほんまさん、今日チームで飲み会どうかって話してたんだけど、来られる?」

「え、あーっと……」

 

 いつ、話していたのだろう。

 どうして帰りしなに誘うのだろう。

 もっと早い時間に、今夜飲み会がある可能性だけでも伝えていてくれればいいのに。


 そんな言葉たちを吞み込んで、私は笑ってイエスと答える。

 行きたくもない飲み会ではあるけれど、今後の就労環境のことを考えたら出席するほかないだろう。

 参加メンバー全員の仕事が終わるまで、もう一度パソコンを立ち上げて細々とした作業で暇つぶしをする。

 明日は絶対に定時で帰るのだと、そんなことを思った。

 

 彼氏もいない、一人暮らし。

 別に、何か他の予定があるわけでもない。帰宅途中に寄ったコンビニで夕食を買い、適当に流れてくる動画を流し見するだけの生活。

 それでも、だからこそ、仕事の時間が終わってからもよそ行きの顔をし続けなくてはならないことがしんどいのだ。

 社会人としての仮面などさっさと脱ぎ捨てたい。


 なのに。


「いや〜、悪いねぇ」

「いえ、どうぞどうぞ」


 女というだけでしゃくをさせられ、大皿料理の取り分けをさせられ、無礼講ぶれいこうだと言われながらも自分の身を守るために気楽に酒を飲むことさえできない。

 自分のグラスからは目を離さず、上司の機嫌を損ねないように思ってもない言葉を連ねながら、ちっとも楽しくない飲み会は進んでいくのだった。


「二次会、ホントに行かないの?」

「はい、終電もうすぐなんです。すみません……」

「そっか~、じゃあまた明日ね~」


 ひらひらと手を振った同僚は、次の瞬間にはうちのチームで一番の美人へ目を向けている。


 綺麗に巻かれた明るい髪に、すらりと伸びる手足。飲み会の途中に何度も直していたメイクは今も可愛い顔面を保っていて、私には眩しすぎるほどの、オンナノコ。


 帰るための口実に使っただけで、終電の時間まではまだそれなりに余裕があった。

 私はのんびりした足取りで最寄り駅に向かう。

 ネオンに彩られた街の中にいても、私は光らず埋もれていて、誰にも気付かれないみたいに、孤独だった。


 改札を抜け、階段を降りてホームに続く道を歩く。

 カツンカツンとヒールが鳴り響く中、タイルの敷き詰められた壁に寄り掛かるようにしてぐったりしゃがみこむ男がいた。


 一瞬視界に入れた後、すぐに視線を逸らして俯き歩く。

 ホームレスには見えないけれど、酔っ払いだろうか。具合が、悪いのだろうか。


 駅員を呼んだ方がいいのかもしれないと思う自分と、関わり合いにならない方がいいと思う自分がいる。

 女でなければ、何も考えずに声を掛けるのに。

 飲み会だって、二次会だろうが三次会だろうが参加したのに。


 苦しそうではないから、きっと大丈夫。

 私が何かしなくても、誰かが助けてくれるはず。

 駅員の見回りだってあるだろう。


 男の横を通り過ぎ、そのままホームに続く階段を目指した。

 私の足音だけが響く、夜。

 

 気を紛らわせるために取り出したスマホの画面には、終電の一本前に乗れそうなくらいの時刻が表示されている。


 ダメだ。

 やっぱり駅員を呼ぼう。

 

 だって今なら、もしかしたら少し休んで終電に間に合うかもしれない。最寄り駅に着いたところで力尽きたのだとしたら、日付が変わる前に家に帰れるかもしれない。


 そう決めて振り返ると、男の姿はどこにもなかった。


「は?」


 意味が分からない。

 だって足音なんかしなかったし、物音だって。

 どうして、誰もいないのか。


 目の前の光景が理解できない私の背後に、何かの気配がした。

 

 振り向きたくない。

 振り向きたくない。

 

 そうだ。まだ終電には余裕があるのだから、一度改札口に戻って誰か来た時に一緒にホームへ行こう。


 ふぅ……


 耳に、吐息が、掛かった。


「?!」


 反射的に振り向くけれど、そこには誰もいなかった。

 心臓が痛いくらいに脈打って、息が上手くできない。


 とにかくここから逃げなくては。必死になって足を動かし、ホームへと駆け上がった。蛍光灯に照らされたホームには人がまばらに立っていて、全員視線はスマホに向かっていたけれど、私を安心させるには十分すぎるほどだった。


 ベンチに腰掛けると、身体の力が一気に抜けていく。変に思われないか一瞬不安に思ったけれど、どうせ誰も私のことなど気にもしていない。

 深く息を吸って、細く長く、吐き出す。


 ようやく落ち着きを取り戻すと、さっきの出来事がフラッシュバックした。


 確かに、いたはずだ。男が。

 スーツ姿ではなかったけれど、浮浪者には見えない程度に小綺麗な男が。

 だから酔っ払いかと思ったし、心配もしたし、助けようと思ったのだ。


 私自身が酔っている可能性はほぼゼロで、いままで幻覚の類を見たこともない。

 『幽霊』という単語が浮かんだけれど、その手の体験をしたことも、生まれてこの方一度もなかった。


 少しして電車が到着し、最寄り駅まではすぐだった。

 数人と一緒に電車を降りて、改札を出る。

 そこまでは良かったけれど、家に向かって歩く道すがら、一人になってしまったらまた恐怖が込み上げてきた。


 誰か、こういう時に頼れる人が欲しかった。

 両親は、そもそも私が都会に出て一人で働くことをよく思っていない。

 こんなことで電話をしたら、帰ってこいと言われておしまいだろう。

 両親の嫌な部分を共有できる兄弟姉妹でもいれば話は違ったのかもしれないが、残念なことに私は一人っ子だった。


 学生時代の友人とは社会人になってから連絡を取っていないし、気軽に電話を掛けたり、連絡を取ったりできる相手なんて誰も、いない。

 恐怖と共に、自分の孤独まで思い知らされて、メンタルへのダメージが倍増している気がした。


「ただいま」


 念の為の不審者対策に欠かさない帰宅の挨拶を、今日はことさら大きな声でこなした。誰からの返事もないけれど、何の気配も感じられない室内が、今は少しだけ安心できた。


 シャワーに、スキンケア。

 好きな配信者の動画を流しながら、心の平穏を取り戻していく。


 ホラー映画のように、寝静まった頃に何かがやってくることもなければ、悪夢を見ることもなかった。


 目覚まし時計に起こされながら、あれはやっぱり気のせいだったのかもしれないと。そう思った。


「おはよぉ、早いね」

「おはようございます。……少しお酒臭いです」

「げっ、ちょっと歯磨きしてブレスケアしてくるわ」


 デスクに常備されている歯ブラシセットを持ってトイレに去っていく同僚を見送り、パソコンを立ち上げる。


 金曜日に飲み会をセッティングしないのは、混雑を嫌う上司への気遣いだと分かっている。翌日の仕事を理由に二次会三次会を断れない彼も、私とはまた違った苦労を抱えているのかもしれなかった。


 何となくみんなが酒気を抱えたままの業務が終了し、週末がやってくる。

 繁華街の盛り上がりを避けるように帰路につくけれど、ほんの少しだけ、呑みたい気分だった。


 以前見掛けて気になっていたダイニングバーを覗いてみると、ちょうどカウンター席が空いたところで。

 メニューにあるオススメの品を適当に頼んでみると、どれも美味しかった。

 トマトとモッツァレラチーズを頬張りながら、スマホを眺める。

 なんとなく気になってあの駅のことを検索してみたけれど、特にニュースになるようなことはないらしく、何もヒットしなかった。


 ※


「あ、れ?」


 ぼんやりとしていた意識が浮上する。

 眠ってしまっていたかと焦る私の眼前に、ありえない光景が広がっていた。


 なんで。

 どうして。


 

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