オッド・アイ

「俺だ、俺だ」


 猫は頭をすっくと持ち上げ、鎮座した。見たところ雌猫だが、俺と言っている。言葉に合わせて口許が動いていた。この猫が喋っていると、どうやら認めざるを得ない。


「――猫?」


 山ほどの疑問が頭を席巻した結果、やっと一単語が出てきた。訊くべきことはもっとあったはずなのに。


 猫のほうは瑠唯の混乱などどこ吹く風だった。悠然としっぽを揺らしながら、耳をぴくぴくと動かす。真っ白な毛並みは、眩しいほどつややかだ。


「そうだ、中身は違うが。しかし言葉が通じるとは思わなんだ」


 通じるも何も、猫が人語を操るなど前代未聞である。呆気に取られて絶句しながら、瑠唯はまじまじと猫を見つめた。よく見れば、右目と左目の色が違う。片方は緑、もう片方は青のオッド・アイだった。


 別嬪な猫だ。だが中身は猫でないとはどういうことか。そんな猫がいてたまるか。


「中身は違う、って」


 相手の言葉をおうむ返しに呟いてみると、猫は大きく頷いた。


「俺は猫ではない」

「幽霊?」

「人でもない」


 端的に言い切った猫のひげを、微かな潮風が揺らす。


「いったい――」


 言いかけた瑠唯の声を遮って、猫は凪ぎ切った海の向こうへ顔を向けてみせた。一拍置いて、そちらを見るよう促すしぐさだとわかる。


「むこうから来た」


 猫の示す先には、もちろん小島がある。穏やかな水面に佇む灰色の小さな鳥居と、その向こうに浮かぶ小ぢんまりとした島。社と、もう一つの鳥居だけがある場所だ。


「小島神社から?」


 猫は答えなかった。後ろ足で首のあたりを掻いている。その表情は、実に気持ちよさそうだった。


「で?」

「社から来るのが何か、わからないのか?」


 そんなわけないだろう、と言いたげに猫が問いかける。社から来て、人でも猫でもないものと言ったら――


「神」

「うむ」


 猫は満足げだったが、こちらとしては、まだわけがわからない。


 だが目の前で話しているのは、間違いなく猫であり、神を名乗っている。猫はふつう、神を名乗ったりしない。人も――よほどの場合を除いて――事情は同じだ。ならば神を名乗るのは、神ということになる。


「どれだけ暇を持て余してるんです?」


 神の仕事が、離島にやってきて猫に身をやつすことのわけがない。


「失礼な。高天原たかまがはらからわざわざくだってきたというのに」


 高天原とは、神々が住む天上の国だったか。しかし、いくら壱岐が無数の社を擁する神の島とはいえ、神が降臨するわけがない。しかも、猫になって。


「何のために?」

まがつ物から、島を守るためだ」


 いったい何を言っているんだ。


 神が出動するには、それなりの大義が必要だろう。それはわかる。だが、あまりに取ってつけたような理由は、かえって不自然だ。この平和な日本、しかも壱岐島で、神を必要とするような試練がありうるだろうか。かりに島を守ろうとしているとして、だったらなぜ猫になって現れたのか。


 本心が、声に滲み出た。


「はあ」

「信じていないな」


 おおむね信じかけているが、まともに相手をするべきかどうかは大いに検討の余地がある。瑠唯はひとまずスマートフォンを取り出すと、朝日の写真をレンズに収めた。あとでゲストハウスのブログに投稿するためだ。


「おい」

「うん」


 神とやらは、猫の姿になっているせいで大半の威厳を失っている。瑠唯はスマートフォンを懐にしまうと猫に背を向け、元来た道を戻り出した。


「待て」

「んじゃ」


 この猫――いや神は、積極的に瑠唯を脅かす様子はないが、何かをもたらしにきたというのとも違うようだ。暇なら関わってみても良いが、今日は瑠唯の人生の新たな節目である。とっとと帰って、もう一度客室の掃除でもするに限る。


「仲間の遊び心で、こんな姿で出てきてしまった。しばらくお前の家で飼ってくれ」


 何を言いだすんだ。早く立ち去りたい心が、足を促した。


「おい」

「うちは接客業なので、猫は入れられません」


 言い残して、ひたすら駆ける。帰りは歩こうと思っていた斜面も、走って帰った。最初は猫の軽い足音がついてきたが、やがて追ってこなくなった。ほっと胸をなでおろしつつも、安心はできず走り続ける。

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