第4話 ペリドットの追憶
つまらない人生だった。
代わり映えのない毎日をただ惰性で過ごしていた。
生かされているから生きているだけ。
与えられているから食べるだけ。
何もできないから眠るしかないだけ。
両親には見捨てられ、心を預けられる友達もいない。
ベッドの上だけが僕の居場所。
窓の外は本の中と同じ空想の世界。
いつからか憧れることもなくなった。
希望も死んだから絶望だってしない。
何もなかった。僕の人生には灰色だってなかった。
ただ死ぬのを待つだけの人生。
何の価値もない石ころのような命。
それでも。
こんなつまらない僕の人生でもあなたは。
世界島の間に位置する地中海に墓地と教会だけの島が存在する。
十九世紀の初頭に衛生上の理由から中心部以外に埋葬するようになったために造られた島で、現在ではちょっとした観光地にもなっている場所だ。
水の都と呼ばれる街から水上バスが出ており、二十分ほどで行ける。
島の中は薄暗く近寄り難い墓地というイメージから程遠い。
背の高い木々が作る並木道、手入れの行き届いた芝生、整然と立ち並ぶ墓標、小さいが荘厳な佇まいの教会。
死に対する恐怖や不気味さではなく、死者が安らぎを得られるようにという祈りに満ちている。
ここを訪れるのは当然、埋葬されている人の関係者が多い。日に数組ほど観光客も来る。
この日も、島に向かう水上バスには数名の客が乗っていた。何人かは花を持っているので墓参りだろう。それ以外は観光目的か。
その中に一際目を引く女がいる。
手に持っている白百合の花束すら霞むほどの佳人だ。
大輪の薔薇を思わせる赤髪と神秘的な若草色の宝石の如き瞳が見る者の目を惹きつけて離さない。
上品なボルドーのスリーピースに合わせるように中には白のフリルスタンドカラーのブラウス。深いココア色のパンプスが彼女の真珠のような肌によく映えている。
小船がリズミカルに揺れるたびに髪を飾るレースリボンが蝶のように舞う。
背筋を伸ばして座る姿は東洋の諺を借りるなら正しく牡丹の花。容易に声を掛けることが許されない美しさだ。
乗り合わせた誰もが見惚れているとは知らず、女は流れていく景色を見つめている。
やがて水上バスが目的の駅に着くと、女は足下に置いていたアンティーク調のトランクを持って降りた。
すぐそばにあった教会を通り過ぎ、幾つかの並木道を抜け、島の奥へと向かっていく。
途中で右に曲がり、墓標が立ち並ぶ中を進んでいく。
暫く歩くと女はある墓の前で足を止めた。
墓石には『Luca Esposito』と刻まれている。
それは一人の少年の墓だった。
女はトランクを置き、胸の前で十字を切ると花を捧げ、静かに目を閉じた。
海風が芝生を優しく撫でる。潮の香りに混ざって百合の甘い匂いが女の鼻腔を擽った。
目を開け、暫し墓石の名を見つめたあと女はトランクから小さな黒い宝石箱を取り出した。
蓋を開けると中からは、美しいスプリンググリーンの宝石が顔を出した。鉱物とは思えないほどのみずみずしい透明感と内側から放たれる輝きが精彩を放つ一品だ。
女は宝石を手に取ると輝きを確かめるように太陽へと翳す。
白い肌にうっすらと緑色の影が映り、水面のように煌めきながら頬の上を踊る。
女は小さく何かを呟くと、そっと宝石に口付けた。
つまらない毎日だった。
同じ病室で寝起きして、同じような景色を眺めて、代わり映えのないご飯を食べて、また寝る。
長ったらしくて覚えられない名前の病に冒されてから六年間、僕の日々は味気なく過ぎている。
病気になったのは六歳の頃。その時から入退院を繰り返していたから学校には通えていない。当然、友達なんてものはいないから誰も見舞いに来ない。
両親とも、もう何年も会っていない。
病気が治らないと分かった途端、僕を見捨てた。
世間体を気にして入院だけはさせてくれているけど、それだけ。僕が何度も死にかけているなんて知らないだろうし、知ったこちゃないだろう。
医者も看護師も僕のことを諦めているのはなんとなく勘付いていた。毎日愛想笑いをしながら様子を聞きに来るけど、治らないってことを一番よく知っているのはアンタたちじゃないのかって言いたくなる。
僕のことを心から気に掛けてくれる人なんていない。
きっと僕は誰にも看取られずに死ぬ。
無意味な人生を嘲笑われながら、孤独に死んでいくんだと。
そう、思っていた。
あなたに会うまでは。
「お初にお目に掛かります。宝石商リコリス・エーデルシュタインと申します」
驚きで息が止まるとはこういうことか。
鮮やかな赤い髪に透き通るような若葉色の瞳。薔薇の如き唇と雪を欺く肌。一切の狂いなく作られた姿形。
名だたる芸術家たちでさえこの人を再現することはできないだろう。
まるで神様に愛されて生まれてきたような人。
それが初めてリコリス・エーデルシュタインを見た僕の感想だった。
「……」
突然見知らぬ人が会いに来たことより、こんな綺麗な人がこの世に存在するのかということに驚いて暫く呆然としてしまった。
「突然の来訪失礼致します。ルカ・エスポジト様でいらっしゃいますか?」
「……」
「坊ちゃん?」
「…………」
「坊ちゃん」
「……え、わ、うわあああ!」
不意に目の前に白い手が伸びてきてびっくりした僕は思いっきり後ろに仰け反ってベッドから落ちた。
「坊ちゃん!」
声が綺麗な人って焦った声も綺麗なんだなあ、なんてことを考えながら背中にくる衝撃を覚悟して——
「い……たく、ない……? ……ひっ!」
恐る恐る目を開けると、これでもかという至近距離にあの美しい顔があって思わず小さな悲鳴を上げてしまった。
顔が近いとますます造形の細かさに目がいく。
睫毛長いなあとか、肌のきめ細かいなあとか、目がキラキラしてるなあとか、いい匂いがするなあとか、色々……。
——じゃなくて! 顔近すぎない⁉︎ 何がどうなってるの⁉︎
女の人とこんなに距離が近くなったことがないので混乱していると、握られていた左手を優しく引かれそのまま抱き締められる形に収まった。
「申し訳ございません、坊ちゃん。お怪我はございませんか?」
耳元で囁かれる甘い女声に全身の熱が顔に集中する。
「だ、だだだだだいじょうぶ! 大丈夫だから、離れて!」
恥ずかしくて慌てて彼女から離れた。
彼女は何度か目を瞬かせると、ほんの少しだけ眉尻を下げた。
「驚かせてしまい申し訳ございません」
「……いや……別に。こっちこそ、ごめん。それで、ええと……宝石商、だっけ? 何の用? 僕、宝石とか興味ないけど」
気を取り直してお互いに向き合う。
落ち着いて考えてみれば、こんな死にかけの子供に宝石商が何の用だろう。
——怪しい商売とかだったら鼻で笑ってやる。
そう思って身構えていると、彼女は厳かに告げた。
「坊ちゃん、死後の魂を宝石にできると申し上げたら、いかがなさいますか」
「……は?」
死後の、魂? なんだそれ。
「私は亡くなられた方の魂を宝石にすることができるのです」
「……はあ?」
あまりに荒唐無稽な話が出てきて思わず素っ頓狂な声が出た。
言ってる本人は至極真面目な顔つきをしているから冗談なのか本気なのか分かりにくい。
「いや……いやいや、なにそれ。新手の霊媒商法か何か? 子供だからって馬鹿にしてる? 魂を宝石にとか、ありえないでしょ。そもそも魂とか存在するの?」
「します。この世界に存在している以上、全てのものは多かれ少なかれ固有の魂を保持しています」
「証拠は?」
「魂は特別な方法で具現化せねば目視することができない物質です。私の場合は宝石化することで魂の形を捉えることができます」
「つまり、今目の前で提示できる証拠はないってこと?」
「はい。ですが、存在を確認することでしたら可能です」
「存在を、確認……?」
彼女は一度頷くと僕の両目を手で覆い、よく分からない言葉を唱えた。
その瞬間、心臓が大きく跳ねたかと思えば僕の意識は『からだ』の『奥』に沈められた。
どうしてそんなことが分かるのか僕にも理解できない。ただ、頭がそう理解した。
まるで海の底へ落ちていくかのような感覚を味わいながら奥へ奥へ沈んでいく。やがて『からだ』の一番『奥』に辿り着き、そこにある小さな光の粒の集まりに触れようと手を伸ばし——。
「そこまでです」
「っ⁉︎ ……はっ……は……」
そこで意識が浮上した。いや、させられた。
水中から急に引き上げられたみたいに息が上がっている。
息を整えながらふいに、もしあそこで呼び止められずに『あれ』に触れていたら、どうなっていたんだろうと考え、何故か背筋がひんやりとした。
まだ心臓がうるさく跳ねている。未知の体験に心と体が追いついてこなくてどうしていいか分からない。
「大丈夫ですか?」
労るような声とともに水が差し出される。
震えそうになる手を抑えてコップを受け取り一気に飲み干した。
「ぷはっ……はあ……。あれが、僕の魂?」
「はい。坊ちゃんがお望みでしたら、死後、あれを宝石にしてご遺族やご友人にお渡しするのが私の務めです」
「……」
まだ半信半疑だった。『あれ』が魂だっていうのは頭が理解できても感情で納得するのは難しい。
仮にできたとして、僕には魂を残しておきたい家族も友達もいない。
「……」
寂しい人生だ、と我ながら思った。
自分が死んだ後それを悼んでくれる人も、自分のことを憶えていてくれる人もいないなんて。
ただ死んで、終わり。それだけ。
そんな人生が宝石になんかなりっこない。
「坊ちゃん?」
「……いい、いらない。どうせ受け取ってくれる人なんかいないよ」
僕はなんだか悔しくなって、背中を向けてベッドに潜り込んだ。
「……かしこまりました」
心なしか寂しそうな声だった。
まるで僕が独りなのを心配してくれているみたいに聞こえたけど、心の中で否定する。
——そんなわけない。
僕の人生で、僕のことを心配してくれた人なんていない。
親ですら見捨てたのに、初対面の人が気にかけてくれるわけない。
そんなわけ、ないのに。
「……」
あの緑の瞳が頭から離れない。
「……」
まだ誰かからの優しさに縋りたい自分がいる。
「……」
気付けば声をかけていた。
「……ねえ」
「はい」
「宝石って、誰かに渡さなきゃダメなの?」
「いえ、お望みでしたら埋葬することも可能です」
「……例えば、あなたに保管してもらうとかは?」
「可能です」
「え、いいの?」
「はい。これまでにもご依頼いただいたお客様の宝石を丁寧にお預かりしております」
「……そう」
寝返りを打って、目だけをベッドから覗かせる。
なんだか警戒心の強い野良猫みたいだな、なんて自分で思ってしまう。
「じゃあ、さ。あなたが保管して。親には絶対に渡さないで! そしたら、依頼してあげても、いい……」
最後は消え入りそうな声で呟いた。
暫くの間、沈黙が部屋を支配する。
いらない、と言った口で依頼するなんて失礼だっただろうか。
断られるかな……などと考えていると。
「かしこまりました。宝石商リコリス・エーデルシュタインが承ります。ルカ様、貴方に佳き宝石を」
彼女はトランクを置いて、優雅なお辞儀をした。
「い、いいの……?」
「はい。ルカ様のお望みのままに」
依頼を受けてくれたという安堵で力が抜けた。のっそのっそとベッドから起き上がる。
「それで、どうやって宝石にするの?」
「はい。まず、私が宝石にするのは死後の魂ですので、魂は亡くなられた後にお預かりいたします。方法については申し訳ございませんが秘匿事項ですのでお答えできません。次に、宝石はご希望がなければお客様の魂に最も近いものを選ばせていただきます。何かご希望はございますか?」
「って、言われてもなあ……宝石に詳しくないから分かんないや。何かいいのある?」
「多くのお客様は記念日や宝石言葉にちなんだものをお選びになられます。例えば、老齢の奥様は結婚記念日に記念石であるエメラルドを、とある父君はご息女のためにマラカイトを。特にご希望がなく、私にお任せされる方もいらっしゃいますよ」
聞いたことがある名前や、ない名前が出てきてちょっと頭が混乱しそうになったけど、一つだけ分かったことがある。
「色んな人が宝石になったんだね」
皆、自分の魂を宝石にして残してあげたい相手がいたんだ。
もう会えなくなっても、帰りたいと思える場所がその人たちにはあったんだ。
「いいなあ……僕には、何もないや」
呟いた声は真っ白な病室に溶けて消えた。
羨んだって、どうにもならないって分かってる。
でも、やっぱり寂しいし、虚しい。
せめて僕にも、美しいと思える何かがあればよかったのに。
沈んでいく気持ちを持て余していると「ルカ様」と彼女が声を掛けてきた。
「宝石の勉強をなさいませんか?」
「宝石の、勉強?」
突然の提案に目を瞬かせる。
「知識は財産です。知らないことを知るということは世界を広げることであり、何もないということは、これから何かを得られるということでもあります。ルカ様さえよろしければ、私がお教えいたします」
真っ直ぐな瞳で彼女が僕を見つめる。僕のために何かしたいと訴えかけてくる。
初対面で赤の他人の僕のために、心を砕こうとしてくれているんだと気付いて胸の中に小さな火が灯ったようだった。
いつもは大人しい心臓が期待と不安ではちきれんばかりに脈打つ。
「僕でも、できるかな……」
「大丈夫です。何かを得たいという意思は強い原動力になります」
「いいの? 迷惑じゃ、ない?」
「私がしたいのです、あなたのために」
「どうして……」
どうして、そこまでしようとしてくれるんだろう。
きっと彼女が提案していることは仕事とは全く関係のないことで、しなくていいことだ。
僕なんか、今まで会ってきた客の中の一人にしかすぎないはずなのに。
「あなたを笑顔にして差し上げたいと思ったからです」
覗き込んだ瞳は澄み切った若葉色の宝石みたいで。
——ああ、綺麗だ。
もしも最後に目を閉じるなら、今この瞬間がいいなとさえ思ってしまうほど美しかった。
どこまでも誠実であろうとする優しさだけがそこにはあって、思わず泣きそうになる。
「……分かった。じゃあ、お願い」
泣きたくなくてつい可愛くない言い方になってしまったけど、彼女は気にせず頷いてくれた。
「では、明日から勉強を始めましょう。本日はこれで失礼させていただきます。明日の午後、また伺います」
「うん。……あ、あとさ……僕のこと、ルカでいいよ。代わりに、リコリスって呼んでいい?」
彼女はドアの前で振り返ると、口の端だけを上げて「はい」と言ってくれた。
こうして、僕と彼女——リコリスの日々が始まった。
「こんにちは、ルカ」
「こんにちは、リコリス」
翌日の午後。リコリスは約束通り来てくれた。
今まで誰かと約束なんてしたことがなかった僕は、昨日の夜からずっと緊張しっぱなしだった。
——本当に来てくれるかな。
——来てくれなかったらどうしよう。
そんなことを考えながら過ごしていたら、いつもより遅い時間に眠ってしまって、起きたのはリコリスが来る一時間前。急いで昼ごはんを食べた。あんなに慌てて食べたのは初めてかもしれない。
今もどこかそわそわしながらリコリスを見ている。
「本日から勉強を始めるにあたって、教材をご用意いたしました。どうぞ」
そう言って、古びたトランクから取り出したのは、一冊の本とノート、それから万年筆だった。
本には『宝石の基礎』と書かれており、ノートと万年筆は新品だった。
「これ、僕のために?」
「はい。私が最初に学んだのもこの本からです。初心者にも分かりやすく、かつ必要な知識が得られます」
「わあ……! あ……もしかして、死んだ後に返さなきゃいけない?」
僕のため、という言葉に気分が舞い上がってしまったが、これは貰ってもいいものなのだろうか。
おそるおそる聞くと、リコリスは緩く首を横に振った。
「それはもうルカに差し上げたものです。このノートと万年筆も。好きな時に、好きなようにお使いください」
「いいの?」
「ささやかではありますが、私からの贈り物です。ご迷惑でなければ、どうぞ受け取ってください」
「……ありがとう。大切にするね!」
両手で大事に持ち上げる。
生まれて初めて誰かから貰ったプレゼント。
「僕の……」
何もない僕に初めてできた、たった三つの宝物。
勉強はまず、宝石の種類を覚えることから始まった。
「こちらからルビー、スピネル、レッドベリル、ガーネット、ピンクトパーズです」
僕の目の前に本物の宝石を並べ、一つずつ指差しながら名前を言ってくれるのは有難いけど……。
「どれも同じに見える……何が違うの?」
形が違うだけで、同じ赤色の宝石が並んでいるようにしか見えない。これが全部違う宝石なのかと思うと目眩がしそうだった。
睨みつけるように宝石を見る僕とは反対にリコリスは涼しい顔をしている。
「宝石を形作る組織の化学式や含まれる不純物、産出される地域などによって異なります。今回は科学的な側面ではなく、それぞれの宝石にまつわる歴史を学びましょう」
「歴史かあ……それなら僕でも分かるかも」
長い入院生活における最大の敵は暇だ。
幸い、僕は小さい頃から本を読む習慣が身に付いていたから、暇を持て余すことはない。
学校には通えなかったから文字は殆ど独学だけど、それなりに読み書きはできるし、歴史を勉強するのに抵抗はない。
僕は貰ったばかりの万年筆を握り、ノートを開いた。
「よろしくね、先生」
「はい、まずは宝石を身近に馴染ませていきましょう。ではこちらのルビーから。この石がルビーと呼ばれるようになったのはつい最近のことで、それまでは〝燃える石炭〟という意味を持つ古い言葉で呼ばれておりました」
「え、燃えるの?」
「いえ、太陽に翳した時、石が燃えているように見えることから、そう呼ばれていたと言われています」
「へえ、昔の人って想像力豊かだなあ」
「今は科学の力で解っていることが、昔の方には神の御技のように見えていたのでしょう。人は理解の及ばないことを想像力で補う力がありますから」
確かに。幽霊とかも人の想像力から生み出されるものだと、何かで読んだことがある。
話を聞いて、遠い存在だと思っていた昔の人たちが少しだけ近くなったような気がした。
久しぶりの勉強は楽しくて、時間を忘れるほど夢中になってリコリスの話を聞いた。
気付けば窓の外は穏やかな橙色のグラデーションに彩られていた。
「本日はここまでにいたしましょう。時折休憩を挟んでおりましたが大丈夫ですか?」
「うん、大丈夫。楽しくって何時間でもできる気がする!」
実際に何時間もやったら僕の体がもたないだろうけど、それぐらい楽しかったってことを伝えたかった。
「よかったです。あなたが楽しいと思えることができて」
春の陽だまりが溶けているみたいな優しい声が返ってきて、胸がポカポカと温かくなった。
心の底から僕のことを想ってしてくれたんだなって分かる。
——嬉しい、な。
荷物を纏め「また明日」と言って病室を出ていくリコリスの背中を見送るのが寂しいと思うぐらいに、僕は絆されていた。
そうして始まった二人だけの勉強会は時折世間話やリコリスの旅の話を交えながら順調に進んでいった。
「古代の文献に残っているサファイアは現在のラピスラズリのことであると言われております。そのサファイアがルビーと同じ石であると判明したのがつい百年ほど前のことです」
「でも、ルビーとサファイアって色が違うよ?」
「中に含まれる不純物が違うだけで、石を形成する物質は同じものです」
「そうなんだ……そう聞くと、石って不思議だね」
「花言葉のように、宝石にも言葉があります。本日はそれについて勉強しましょう」
「貰った本に書いてたやつだ! エメラルドが幸福で、ペリドットが希望でしょ?」
「はい。よく読み込んでおられますね」
「うん。僕、ペリドットが好きだな。宝石言葉も好きだし、なによりリコリスの目と同じ色をしてるから」
「……ありがとうございます」
「あ、ちょっと照れてる?」
「授業を始めます」
「照れてるんだ……」
「リコリス! 早く昨日の続き教えて!」
「ルカ、慌てずとも私は逃げませんよ」
「だって楽しみだったから」
「では、今日は少し実験もしてみましょうか」
「実験?」
「宝石を燃やす実験です」
「なにそれ、見たい!」
「リコリスって魔法使いなの?」
「いえ、私は魔術師です。魔法使いとは別ですよ」
「何が違うの?」
「魔法は古い神々や隣人……妖精などの力を借りて奇跡を起こすことを指します。魔術は魔法を人の力だけで使えるように模倣した技術のことです」
「……つまり、神様に助けてもらわなきゃいけないのが魔法で、そうじゃないのが魔術?」
「概ねその認識で間違いないかと」
「ねえねえ、何か魔術でしてみせてよ」
「いけません。魔術は秘匿しなければならない技術です」
「……ダメ?」
「承りかねます」
「……ちぇ」
リコリスが来てからつまらなかった毎日が少しずつ鮮やかになっていった。
知らなかった外の世界、見たこともないような美しい宝石、聞いたこともない新しい知識。
どれもが僕の心を幸せで満たしてくれる。
何かを知るたびに僕の中に宝物が増えていくようで、とても心地よかった。
あんなにもこなければいいと願った明日が待ち遠しい。
いつしか僕はこんな日がずっと続けばいいのにと思うようになった。
自分が病気であることなんか忘れて。
だから罰が下ったのかな。
ある日呼びだされた診察室で僕は医者からついに余命宣告を受けた。
「ルカ、どうされましたか?」
「え?」
毎日の日課になりつつある勉強会。
今日もリコリスから宝石の逸話や歴史を教わっていると、気遣うような声で呼ばれた。
顔を上げるとリコリスと目が合った。
よく見ると、表情が少し心配そうだ。
「えっと……」
「もしや、お身体の具合でも悪いのでしょうか?」
言い当てられて、どきりとする。
少し言いづらかったけど、別に隠さなきゃならないことでもないので素直に口を開いた。
「……実は、ね。昨日医者に言われたんだ。あと三ヶ月ももたないだろうって」
ここ数日、体が思うように動かない時間が増えていた。勉強を途中で切り上げることもあったから、リコリスは薄々気付いていたかもしれない。
幸せな時間は長く続かない。僕の幸せはいつだって神様に奪われる運命なんだろうな。
みっともなく震えそうになる声を必死に抑える。
——笑え、笑え、笑うんだ。
「まあ、なんとなくそんな気はしてたけどね」
——大丈夫、大丈夫、大丈夫。
「長生きした方じゃないかな」
——泣くな、泣くな、泣くな。
「もう少し生きられるかなって思ってたんだけど」
——怖くない、怖くない、怖くない。
「僕、もう死ぬんだって」
——いやだ、しにたくない。
こわいよ。しにたくない。こわいよ。しにたくない。こわいよ。しにたくない。こわいよ。しにたくない。こわいよ。しにたくない。こわいよ。しにたくない。こわいよ。しにたくない。こわいよ。しにたくない。こわいよ。しにたくない。こわいよ。しにたくない。こわいよ。しにたくない。こわいよ。しにたくない。こわいよ。しにたくない。こわいよ。しにたくない。こわいよ。しにたくない。こわいよ。しにたくない。こわいよ。しにたくない。こわいよ。しにたくない。こわいよ。しにたくない。こわいよ。しにたくない。
こわいよ、リコリス。
「ルカ」
耳元で名前を呼ばれたかと思えば、優しい匂いに包まれていた。
「怖い時は、怖いと言ってよいのですよ」
夏の細い雨のような柔い声が恐怖で凍えていた心に響く。
「死にたくないと、言ってよいのですよ」
「リ、コ、リス……」
「泣いても、よいのですよ、ルカ」
ゆっくりと視界が滲んで、目から何かが零れ落ちた。それは頬を伝って、リコリスの肩を濡らす。
「ひっ……う……ううっ……」
怖いと思ったことなんてなかった。
幼い頃から大人になる前に死ぬと言われ、それと同時に親から愛されなくなった。
最初は病気が治ればもう一度愛してもらえると思った。
でも、どんなに頑張っても病気は治らなかったし、振り向いてもらえることもなかった。
いつしか誰かに期待することをやめ、死を待つだけの日々を過ごすようになって。
はやく死ねばいいのに。生きていたってなんの意味もない。
だから死ぬことなんて、怖くないはずだった。
リコリス、あなたが僕に会いに来てくれるまでは。
「……こわい、よ……こわいよ、リコリス……! しにたくないよ……!」
僕のために勉強を教えようとしてくれたことが嬉しかった。
あなたが聞かせてくれる話が大好きになった。
あなたと話す時間が人生で一番楽しいよ。
「いやだよ……まだ、リコリスと、一緒にいたいよ……やっと、やっと、死にたくないって、思えたのに……!」
──神様、どうして? どうして僕だったの。
僕が何か悪いことをしたんだろうか。
こんな病気になって、誰にも愛されないまま独りで死ななきゃいけない人間なのだろうか。
僕はただ、家族に愛されたかった。元気な体で生まれたかった。
他の子供みたいに学校に通って、友達と遊んで、両親に愛される、そんな人間になりたかっただけなのに。
「なんで……死ななくちゃいけないの?」
どうしようもないことだと分かっている。
生きている以上、死んでしまうのは仕方のないことだって。
だけど、それを受け入れるには僕は未練をつくりすぎてしまった。
泣きじゃくる僕を抱きしめる腕に少しだけ力がこもる。
「お傍にいます。最期の時まで、ずっと」
強くて、だけどどこか寂しげな声だった。
リコリスがどんな表情をしているのかは分からなかったけど、なんとなく、泣きそうな顔をしているような気がした。
普段はあまり表情が変わるような人ではないけど、誰かのことを想う時だけ感情がほんの少し顔に出てくるから。
今もきっと、僕のことを想ってくれているんだろうなと思うと嬉しいのと同じぐらい胸が痛い。
僕はリコリスが泣いてないといいなと、願った。
それからは勉強ではなく、穏やかに会話する日々が続いた。
僕の体を慮って、リコリスがそうしようと言ってくれたのだ。
あたたかな陽射しが降り注ぐ病室の中でする他愛無い話は愛しくて、人と話すのってこんなに楽しかったんだと思わせてくれる。
今までつまらなかった僕の人生の中で最も美しい瞬間はいつだと聞かれたら、きっとこの時間だと答えるだろう。
それぐらい、今が惜しかった。
「ねえ、リコリス。どうして、人は子供を産むんだろう」
それは、両親に見捨てられた時から考えていたことだった。
僕がまだ病気じゃなかった頃は無条件に愛してくれていたと思う。
でも病気を発症してから両親の態度は急変した。
面倒だと言わんばかりの父の態度と、出来損ないを産んでしまったという母の言葉が僕からあたたかな感情を奪っていった。
注がれていた愛情はなくなり、残ったのは空っぽな心だけ。
病室から眺める家族は誰も彼もが愛に溢れていて、幸せそうで。
とても、とても眩しかった。
それと同じぐらい、自分が惨めに思えて仕方なかった。
「どうせ捨てるなら、最初から産まなきゃよかったのに……」
ずっと心にあって、でも言えなかった言葉が口をついて出た。
こんなことリコリスに言っても困らせるだけなのに。
だけどリコリスは否定するでも、慰めるでもなく、ただ静かに話をしてくれた。
「ルカは産まれたくなかったのですか?」
「……どうだろう」
もしも生まれてこなければ両親から愛されないという現実を知らなくて済んだかもしれない。
でも、リコリスとは出会えなかった。美しい宝石の世界を知ることもなかった。
それはとても寂しいと、今の僕なら思う。
「産まれてこられたから出会えた幸せもあるのかな」
——あなたのような人に出会えた。
それは僕の人生で何よりも価値のある宝物だ。
リコリスが小さく「そうですね」と言うと、それっきり僕たちは何も話さなかった。
死神の鎌は突然振り下ろされる。
無慈悲に、残酷な笑みを浮かべながら。
外では酷い雨が降っていた。今が昼なのか夜なのか分からないほどだ。
これまでのどの発作よりも苦しくて、体中が引き裂かれているみたいに痛い。
「はっ……はっ……う、あ……」
息が上手くできなくて溺れている人のようだ。
誰かを呼ぼうにも手は震えて、声も出せない。
——助けて、リコリス。
こんな時でも、最初に浮かぶのはあの美しい人だった。
彼女は宝石商で、医者じゃないのに。
ここにいたってどうすることもできないのに。
それでも。
——あなたに、会いたい。
最期はあなたに看取られて死にたいから。
「り、こ……り……す……」
どうにか絞り出せた音はか細くて静かな部屋にすら響かない。
雨の音だけが耳を支配する中、確かにその人の声が聞こえた。
「ルカ」
目を開けると、真っ先に飛び込んできたのはペリドットのような瞳だった。
「ルカ、私の声が聞こえますか」
リコリスの焦った声が珍しくて、苦しいのに少しだけ笑ってしまった。
「き……こ、え……てる、よ……」
「お待ちください。今お医者様を呼んできます」
そう言って、ベッドから離れようとするリコリスの腕を掴んで引き留めた。
「ルカ?」
「い、か、ない、で……ぼく、し、ぬ、から……」
「諦めてはいけません。足の速さには自信があります。すぐに人を呼べば……」
僕は首を横に振った。
「もう……いい、よ……ぼくを……ほう、せ、き……に、し……て」
「ですが……」
「お、ね……が、い……り、こ……りす……」
リコリスは滅多に変えない表情を辛そうに歪めながら、走ろうとする足を止めて僕の手を握ってくれた。
「……承りました」
「あり、が、とう……」
僕は深呼吸して息を整えた。
目を閉じて思い浮かべるのはリコリスとの日々。
「た、の……し、かった……なあ……」
宝石のこと、旅のこと、知らない国のこと。たくさんのことを教えてくれた。
短い時間だったけど、最後にあなただけが僕を愛してくれた。
それにどれだけ救われたか、どんな言葉を尽くしても伝えきれない。
「し、に……たく、ない……なあ」
つまらない人生だった。
代わり映えのない毎日をただ惰性で過ごしていた。
生かされているから生きているだけ。
与えられているから食べるだけ。
何もできないから眠るしかないだけ。
両親には見捨てられ、心を預けられる友達もいない。
ベッドの上だけが僕の居場所。
窓の外は本の中と同じ空想の世界。
いつからか憧れることもなくなった。
希望も死んだから絶望だってしない。
何もなかった。僕の人生には灰色だってなかった。
ただ死ぬのを待つだけの人生。
何の価値もない石ころのような命。
それでも。
「り……こ、りす……」
こんなつまらない僕の人生でもあなたは美しいと言ってくれるだろうか。
「ルカ」
重なり合う硝子のような声が僕を呼ぶ。
「私は憶えています。あなたが生きていたことを。記憶力はいい方なのです。毎年、必ず会いに行きます」
「ほ……ん、とう……?」
「はい。あなたの魂も大切にします。あなたが私との時間を大切にしてくださったように」
視界がゆらゆらと滲む。耐えきれず流れ出した涙が頬を濡らす。
「う、ん……わす、れ、ない……で」
僕も忘れないから。
あなたのことを、あなたがくれた宝物を。
「ルカ、最期に聞きます。どの宝石になりたいですか?」
そういえば、まだ言ってなかったな。
勉強するうちに迷ってしまって決められずじまいだった。
でも、今決めた。
僕が、僕の魂が宝石になるならこれしかない。
「ペリドット……」
リコリスの瞳と同じ色の宝石。
僕が一番好きな宝石。
僕を愛してくれた人の宝石。
リコリスは今までで一番綺麗な微笑みを見せてくれた。
「かしこまりました。あなたに佳き宝石を」
それを聞いて僕は安心したように微笑んだ。
心臓の音が段々小さくなっていく。
強い眠気に襲われているかのような感覚が本能に死を訴えかけてくる。
——ああ、怖いなあ。
でも、最期まで手を握ってくれる人がいる。
僕のことを忘れないと約束してくれた。
僕の魂を大切にすると言ってくれた。
それだけで、この命には意味があったと思える。
ありがとう、リコリス。
あなたの優しさを決して忘れない。
どうかあなたの人生が幸せなものとなりますように。
「さ、よう、なら……あり、が、とう……」
「さようなら、ルカ」
お別れの言葉を合図にするように、体から力が抜けていく。
瞼の裏に蘇るのは鮮やかな赤い髪と透き通るような若葉色の瞳。
僕の人生で一番美しい宝物。
ありがとう、僕に会いに来てくれて。
楽しかったよ、幸せだったよ。
最期に出会ったのがあなたでよかった。
あなたがいてくれたから、僕の人生は惰性じゃなくなったんだ。
ありがとう、優しい人。
名残惜しいけど、もう行くね。
さようなら、ありがとう。
さようなら、大好きだったよ。
女は眺めていた宝石を箱に戻し、トランクに片付ける。
暫し墓の前で佇む女の元に一羽の鴉が飛んできた。
バサッと音を立てて大きな羽を広げると、ゆっくりと女の肩に足をかけ丁寧に羽を畳む。
それと同時に女の背後に人影が現れた。
「リコリス・エーデルシュタイン様」
黒い外套で全身を隠しており、見た目では老若男女の区別がつかない。
声からして若い男だろうか。
リコリスと呼ばれた女は振り返ると驚く様子もなく、静かに男の声に耳を傾けた。
男は厳かに口を開いた。
「十二天宮がお呼びです。至急〝花園〟本部へお越しください」
〝花園〟本部地下、特別管理区域の一角。
薄暗い牢の中で一人の女が嗤った。
宝石商リコリスの葬送 松たけ子 @ma_tsu_takeko
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