第26話「紫色の双眼」

 やかましいほどの蝉の大合唱で、寺の住職さんのお経が掻き消されそうだったが、有難い心持ちで玲華は手を胸の前で合わせたまま、木戸下家先祖代々之墓の前でジッと目を閉じていた。お経が終わっても、蝉のけたたましさは変わらない。


「やあやあ、お父さんの納骨も無事に終わりました。これで一安心といったところですか」


「ありがとうございました。私の我が儘で、しばらく東京に置きっぱなしになっちゃって・・・罰当たりですよね?」


「いえいえ、四十九日に納骨するのは決まりではないですから、ずっとお側に置いておられるかたもおりますし、故人の気持ちを想像すれば、お父さんはきっと、幸せな娘との同居生活だったのではないでしょうか」


「だと良いですけれど・・・」


 玲華は線香の煙がもうもうと漂っている中へ入り、少しだけ煙を手で払うような素振りをしてから、持って来たお供え物の果物を墓に供え、再び手を合わせた。


 手を合わせながら、振り返ればお墓参りはいつ以来なのだろうかなどと考えていた。そもそも玲華は神様や仏様の存在などは信じていない。世の中の悲惨な出来事や、人間の愚かさ、薄情さ、残忍さ。自然の厳しさ、無慈悲さ、無限さを鑑みれば、いわゆる簡単に想像しうるような、全知全能の力を持った神様と言える存在などはいないだろうと。


 しかし、ご先祖様は必ず存在する。


 数百年、数千年前にも確実に存在していたからこそ、いまの自分は存在しているのだ。電気も水道もない、薬すらない時代。暖房も冷房もなかった時代。野蛮な人間同士で殺し合い、容赦ない自然の猛威にもてあそばれながら、途切れさせることなく命を繋げてきたからこそ、いまの自分はこうして生きているのだ。


 こんなことを木戸下家先祖代々之墓の前で、手を合わせながら思っていた。





 潮の混じった風が、玲華の緩いウェーブのかかった長い髪を優しく撫でていく。そのときばかりは、ちょっとだけ蝉たちはお行儀を良くしたようで、各々が羽を風にそよがせていた。空には手のひらくらいの大きさの雲がたくさん、目で追えるくらいの速さで北へ北へと流されて行く。その雲が作った大小の影の群れが、日射で焼けたように熱くなった墓石や樹木を、明るくしたり暗くしたりと、光の演出している。


「私は一足先にお堂へ戻ってますから、どうかお父さんとゆっくりして下さいな」


 しゃがれた声でこう言うと、住職さんは額の汗を白布で拭いながら、木陰のある竹林の方へと進路を選びながら、墓と墓の合間をぬって歩いて行った。





 玲華は墓石の水鉢に柄杓で水をくべると、またかかんで手を合わせた。


 風が完全に止まってしまい、蝉の大合唱も復活。へばるような蒸し暑さもあり、帰りの飛行機の時間もあるので、腰を上げようと思っていたところだったが、後ろから思いがけずに誰かが声をかけてきた。


「姉さん?・・・姉さんだよね?」


「え?・・・佳澄?・・・佳澄じゃない!どうしたのよ?」


 玲華の前に現れたのはご存知、佳澄警部こと道内佳澄であった。


 警部は普段から、いかにも女性刑事らしい黒色のスーツ姿をしていたが、さすがにこの暑さなので、上着のジャケットは左腕に掛け、その手には大きな花束と、反対の右手には水桶を持っていた。


「まさか・・・今日が父さんの納骨だったの?」と警部。


「そうだったの。ようやくね。っていうか、どうして?・・・偶然?」


「う~ん、偶然と言えば偶然になるけれど。・・・この間、久しぶりにくれた姉さんのメッセージから、何となく今頃なのかしらって思ったから」


「え、なにまた推理?・・・こわっ」と言った玲華だが、昔から佳澄には細かいことを詮索されたり、佳澄の持ち前の推理力で、小さなウソや冗談を見破られては恥をかかされることが当たり前だったので、本人のプライドから、あえて偶然ということにした。


 ここまで読めばお察しの通り、このふたり実の姉妹なのだ。





 彼女らの両親は、彼女らが小さなころに離婚をしている。姉である木戸下玲華は父に育てられ、妹の道内佳澄(道内は母の旧姓)は母に東京で育てられた。


 ちなみにふたりは双子、一卵性双生児である。


 妹が言う。


「私は結局、最後に父さんと会ったのが八年前の母さんのお葬式のときね。何だかよく分からなかったけれど、あのときから震災になるまでの二年弱、しょっちゅう父さんから野菜が送られて来てたのよ。もうとっくに養育費をもらう年でもなかったし、なんでだろう。・・・母さんが死ぬまで少しでも毎月お金を送ってきていたらしいし、その延長のつもりだったのかしら」


「そうだったの?・・・そんなことは全然知らなかったわ」と姉。





 この会話のあと、ややふたりに沈黙のそよ風が流れたが、ここぞとばかりに蝉たちの大合唱がやかましいのと、玲華はこの暑さに限界が来ていたので、佳澄にお墓参りを早々と促し、早くこの場から去ろうと考えていた。もちろん佳澄警部はそんなことだろうと見透かしているわけなので、手を合わせる時間を余計に引き延ばしてやろうと、幼少期ぶりに悪戯っ子に戻った。


 しかし、そんな彼女の悪戯心も、実際に父の墓前で手を合わせてみると、これまでの自分の人生を振り返り、少しばかり誇らしげな気分になって、父にそれを自慢するように心の中で報告をしたのだった。


 彼女らの両親がどんな訳があって離婚したのか、どうして父に玲華、母に佳澄と姉妹は分断したのかというのは、この物語では関係がないので説明は省かせてもらうが、両親が離婚をして姉妹は引き裂かれはしたが、至って関係が悪くなった様子はなく、どちらかと言えば、そこらの姉妹よりは心の奥底ではしっかりと繋がっている強さが存在しているのかも知れない。


 両親からすれば、玲華は女優に、その後は芸能事務所の社長に、佳澄は警視庁捜査一課の刑事になっているのだから、自分たちの離婚はマイナスであっても、私たちの子供たちは自慢ができる立派な娘になったと満足していたことは、ここで説明するまでもないだろう。





「にしても、よくお休み取れたわね。刑事なんて二十四時間、三百六十五日勤務と変わらないんでしょ?」


「ちょうど事件の区切りがついたタイミングだったからね・・・にしても今日も暑いわねぇ」と言うと、佳澄は金縁眼鏡をとって、ハンカチで広めの額の汗をポンポンと叩いた。


「わぁ、眩しい。真夏のお墓って、こんなに眩しかったかしら」


 そう言った妹の左目の角膜部は紫色になっていて、久しぶりに自分の右目以外に、その瞳の色に触れた姉は、いい知れない親近感を取り戻し、彼女もまた、父の墓前で少し安心した気持ちになって、腰に手をやり、例のモデル立ちになった。





「ところであなたも結婚しないわね~。・・・いい相手とかいないの?」と姉。


「え?いないわよ。姉さんこそどうなのよ?女優時代から男っ気なくって」と妹。


「まぁ・・・いつかお互いに、おいおいですかね」


「それよりも姉さん、私、とりあえず、かき氷が食べたいわ」


「え~、あんたでもかき氷なんて食べることあるのね!」


「そりゃあるわよ!・・・私ってどんなイメージなのよ」


「はいはい、じゃあそうしましょうか」


 そんな話をしながら双子の姉妹は、日陰を選びながらお堂の方へ向かって歩き始めた。





 蝉の大合唱は鳴り止むことはなく、竹林の方からは笹の葉のささやくような風の音が、墓地全体を包み込んでいる。


 線香の煙に真夏の光がそそぎ、風が揺らいでいるのが分かる。


 白々と輝く墓石は、どこか誇らしげに、あの娘たちを見送っているようだった。

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