第16話「小さな焦り」

 奥屋記者の襲撃事件から二週間が経った。その間に凡司巡査は、佳澄警部からの指示で、行方不明になっている宮ノ前朱里の親に東北から上京してもらい、彼女が借りているマンションの一室に捜査協力として入れてもらった。そこでヘアブラシや、バスルームの排水口から毛髪を収集した。パソコンもあったので、これも親の承諾を得て預かることにした。


「いくら外務省勤務でも、女性の一人暮らしとは思えないくらい豪華な家だったっスよ!」と、凄い鼻息で凡司は警部に語っていたらしい。


 佳澄警部は宮ノ前の毛髪をDNA鑑定にまわした。それからパソコンの解析を始めたのだが、データの全てが消去されていたため、鑑識によって復旧作業が進められた。復旧されたパソコンのデータには、メールやその他の犯罪に関わる重要な物証となる情報が多く残されていた。





 この宮ノ前朱里も、深田光憲と同じ穴のムジナだったようだ。


 宮ノ前は外務省勤務のかたわら、金銭目的で売春をおこなっていた。売春の相手は富裕層ばかり。政治家だったり芸能人などもおり、パソコンの隠しファイルにメールのやり取りまで保管されていた。彼女は自ら失踪したのか、または誰かに誘拐され、監禁でもされているのだろうか。宮ノ前の行方不明にはいくつかの心当たりが浮かびそうであったが、道内佳澄はまったくそうは考えていなかった。


 さらに宮ノ前の悪事は、自身の売春行為だけにとどまっていなかった。彼女はSNSを通じて、他の女性に売春の斡旋もしていたようだった。しかも売春の相手方の男性と裏で結託し、その売買春の最中の動画を盗撮させ、斡旋した女性に対してその動画を使って脅迫し、金銭のキックバックを要求したり、売春から抜け出せないように女性を追い詰めるという、この手口の犯行を繰り返していたのだった。


 なるほど宮ノ前朱里は豪華な生活を送っていたわけである。ちなみにこの情報を仕入れたのは、退院後の奥屋記者である。奥屋記者が被害女性から匿名で入手した情報であった。





 宮ノ前の素性もそうだが、道内刑事の目下の懸案事項は、家妻雪夜が残したパソコンの隠しファイル「N計画」のパスワード解析であった。


 このファイルの内容如何で、今後の捜査状況が一変する可能性があり、しかも道内刑事の心の奥深くで、小さな焦りがあったことも彼女自身は気が付いていた。小さな焦りとは、自身の推理が当たっていた場合、あまり時間をかけられない重要な事態に陥る可能性があり、その一点の曇りが晴れないことによる危機感からくるものであった。


 その小さな焦りの気持ちは、政樹にも存在していた。彼の場合の小さな焦りとは、具体的になにかあるわけではない。ただ、言葉では形容し難い、なんとなく落ち着かない小さな焦りであった。もちろん、以前に一堂に会したとき以降、雪夜の「N計画」ファイルのパスワードが何であるのかが頭から離れたことはない。あれだろうか、これではないだろうかと、普段の生活の隙間に、常に小さな焦りが脳裏にへばりついていた。





「ねぇ、マアちゃん!聞いてるの!?」


 美咲の呼び掛けで、政樹はハッと我に返った。


「あぁ、ごめん。・・・で、なんだっけ?」


「スマホのパスワードって、どうやって決めてるのって話!・・・そっちが振ってきたんでしょ?」


 あ、そうか・・・そんな話題だったからまた雪夜さんの、あのファイルのパスワードのことに気を取られたんだな。と、政樹は気が付いた。


「ねぇ、マアちゃん。たまにはさぁ、パフェみたいなデザート食べても罪にならないよね?」


 妙にわざとらしく猫なで声を発した美咲に、政樹は「そりゃお前の好きにしろよ。無駄肉が付いて困るのは俺ではないからね」とスケジュール帳をペラペラとめくりながら冷たくあしらった。


「あっそ。じゃいいや、ファミレスでパフェなんて、滅多にないもんね~」と言ってから、政樹に向かって憎たらしそうな顔をして、美咲は呼び鈴を鳴らした。


「で、美咲はどんな風にパスワードを決めてるんだっけ?」


 政樹はここまで話した瞬間、スケジュール帳のカレンダーに目がとまった。


(あれ?以前、雪夜さんが暗証番号のヒントを俺に話をしてくれたとき、スタジオの壁のポスターを見ていたっけ)


 そのとき彼の脳内では、過去に読んだトリック物の推理小説のタネや仕掛けといったアイデアが、とめどなく溢れ出していた。


 それと同時に、雪夜との会話のやり取りまでもが鮮明によみがえって来る。





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「例えば『ある数字の羅列』を、一旦アルファベットに変換するのね。で、そのアルファベットを『ある法則』に則って、ひらがなに変換する。で、さらにそのひらがなをローマ字に変換するの」


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(そうだ、自分も釣られて、その壁に貼ってあったカレンダーが記載されているポスターに目を移した・・・)


 政樹の中で、閃きの嵐が轟いでいた。


『ある数字の羅列』って、もしかしたらカレンダーのことか!?





「さすがに自分の誕生日とかはないけど、デビューした日だったり、自分が出た映画の公開日とかにしてたけど・・・。でも最近は頻繫には変えてないけどね」


 政樹は美咲の言葉を聞いたとき、彼の目の前にあるスケジュール帳のカレンダーに、アルファベットが一気に並んでいく視覚的な幻覚があった。これかも?というより、これだ!という実感があった。


 即座に政樹はカレンダーにアルファベットを順々に書きなぐっていった。確証は無いにしても、政樹はなんだか嬉しくなった。なにかが明確になっていくような、深い霧が晴れて、視界が広がっていくような、そんな高揚感に近い、ワクワクする嬉しさが湧いて出ていた。


 そんな政樹を眺めていた美咲は「え?・・・なに?なにしてんの?・・・そんなこと聞いて私のスマホのパスワード解読とかしないでよね」などと言うので「お前のスマホなんて興味ないよ。全然」と作業をしながら適当に返事をすると、美咲は眉間にしわを寄せて、小さく舌打ちをした。





『楽曲へのこだわりもさることながら、CDの発売日にまで強いこだわりがあったようなので』


『いつもカレンダーと睨めっこ』


『作詞作業はすべてパソコンで作業をしていた』


 雪夜のマネージャーの中瀬と、所属事務所社長の古屋敷らの言葉を、政樹は思い返していた。


 それと並行して、雪夜が「南十字星と初恋」のレコーディング時に、作曲者の政樹と歌入れの打ち合わせをしている時の記憶も、脳裏からジワリと染み出していた。


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「やっぱり私、節目ってとっても重要だと思うのよね。みんなそういうものを持って生きてきているって言うか。だから『自分の誕生日』はもちろん、『デビューした日』でしょ、『初めて出したアルバムの発売日』とか・・・あっ!『初めてライブをした日』も何年経っても絶対に忘れないだろうし。う~ん、アルバムで『初めてミリオンを達成した日』も忘れられないなぁ」


 雪夜はこう言うと、今度は急に英語で「17th October・・・」と自分の誕生日を口にした。


「・・・あ、でも中学とか高校を卒業した日って憶えてる?・・・だよね、そういう節目ってなんか忘れちゃう(笑)。どうでも良い訳じゃないんだけどね(笑)」


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 コーヒーが入ったお気に入りのマグカップを両手で持って、傍らには楽譜が広げてあるソファに深く座り、雪夜は大きな瞳をキラキラさせて笑っていた。


 彼女はそういう人だった。


 政樹は高校時代から憧れて、雪夜を追うように音楽業界に飛び込んだ。そして、短い期間だったが、彼女と一緒に音楽を作るという、まるで夢のような体験ができた。


 しかし、別れは唐突だった。


 政樹は、ちゃんとしたお別れができなかった。


 生き返ってくれ。もう一度だけでも会いたい。声が聞きたい。話がしたい。


 そう、この地球上を、草木を分けて、くまなく探しても、いや、全宇宙を探して旅まわったとしても、もう彼女を見つけ出すことは叶わないのだ。


 もう二度と、あの笑顔を見られることはないのだ。


 とてつもない喪失感で音楽を辞めた。


 幾日が過ぎても、幾年が経っても雪夜を忘れた日なんてなかった。そして彼女の死を疑った。疑い始めたときは、自分の頭がついにおかしくなったんじゃないかと、自分に恐れをなしたくらいだった。だがその衝動は、とても平常心で抑えきれるものではなかった。


 彼女の遺体があった場所で、毎月その身を重ねて寝転がった。気圧されそうなほど高く、白々としている病棟の壁に、視界の半分を奪われながら。


 雪夜は本当に、あの上半分だけの朝焼けの空を見て、人知れずに瞑目したのだろうか。





 やっぱり『ある数字の羅列』とはカレンダーのことで間違いないだろう。


「1日」から「31日」を、アルファベット「A」から「Z」に変換。恐らく、二十六日(Z)以降は数字のままのはず。


 またまた雪夜との会話のやり取りが、政樹の脳内でさざ波に乗って押し寄せて来た。


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「で、そのアルファベットをある法則にのっとって、ひらがなに変換する」


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「作詞作業はすべてパソコンで作業をしていた」という古屋敷の話がきっかけになった。


 それではキーボードのキーの配置にのっとって、アルファベットを「かな」に変換してみる。


「1日」を例えとすると、「1日」は「A」になり、「A」は「ち」に変換される。


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「で、さらにそのひらがなをローマ字に変換するの」


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 となると「ち」は「chi」になる。


 このルールで、以下の家妻雪夜の記念日を、時系列で暗号化を政樹は試みた。


「10月17日」家妻雪夜の誕生日。


「6月23日」デビューシングル曲の発売日。


「2月2日」ファーストアルバムの発売日。


「5月5日」初めてライブをした日。


「4月19日」初めてミリオンを達成した日。


 上記の日にちを数字にすると。


「10」「17」、「6」「23」、「2」「2」、「5」「5」、「4」「19」。


 上記の数字を、カレンダーの日にちとして、アルファベットのAからZに割り振った法則に則って変換する。


「J」「Q」、「F」「W」、「B」「B」、「E」「E」、「D」「S」。


 そして、キーボードのキーの配置に則って、アルファベットを「かな」に変換してみると。


「ま」「た」、「は」「て」、「こ」「こ」、「い」「い」、「し」「と」。


「???・・・なんなんだ、この言葉って?」と政樹は一瞬だけ困惑したが、すぐに雪夜の声が舞い降りてきた。


『17th October・・・』


「・・・あ、イギリス表記の年月日順なんだ!だから月日を逆にすれば良いんだ」


「17」「10」、「23」「6」、「2」「2」、「5」「5」、「19」「4」。


 改めてこう並べ替えて、アルファベットに変換する。


「Q」「J」、「W」「F」、「B」「B」、「E」「E」、「S」「D」。


 そして再度、アルファベットを「かな」に変換してみると。


「た」「ま」、「て」「は」、「こ」「こ」、「い」「い」、「と」「し」。


「たまてはここいいとし・・・?」


「玉手箱、恋、愛し?・・・これがパスワード?」





 自宅に戻った政樹は、雪夜のパソコンの隠しファイル「N計画」を開くための、パスワード入力のダイアログボックスに「tamatehakokoiitoshi」と単調に打ち込んだ。


 彼には不思議と不安は無かった。これに失敗しても、あともう一回チャンスが残されているのだが、そんな保険も彼の頭にはまったく無かった。


 エンターキーを押すと、パッと画面が開けた。


 数年の時を経て、玉手箱が開いた。


 政樹が「N計画」のファイルを開封した。

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