五 戻り橋

 平安京の近くまで僕たちが戻ってきたのは、夜も夜中を過ぎていた。

 兄さんの指示により、大江山方向とは反対の東から僕たちは入京する。


「とりあえずオヤジに嘘の報告をせなあかんから、俺は屋敷に行くけどな。お前らは先に帰っとってええよ。怪しまれんよう、いつも通りにな」


 オヤカタさまは京の邸宅に住んでいる。

 重大な秘密を持ち帰ったと言うのに、兄さんはいつも通り飄々としていた。

 心臓に毛でも生えているんじゃないだろうか。

 そう言えば安倍晴明さまは、京の北東部であるこの近くに住んでいたことを僕は思い出す。

 そして大江山に出発する直前、晴明さまに忠告されたことも。

 摂津に戻るまで片時も兄さんのそばを離れるなと。


「兄さん。晴明さまは、僕たちが大江山に向かったことを知っていたんじゃないでしょうか。だからあのとき門外で忠告を」

「おお、あんときはたまげたわい。尻尾は少しも出しとらんはずやのに、なんでわかったんやろな。まじないの力も少しは信じてみよか、そんな考えが頭をよぎったわ」

「なら、京は危険です。晴明さまは藤原の重鎮と付き合いが深い。今回のことがすでに知られているなら、兄さんはなにか罪をでっち上げられ、捕らえられてしまいますよ」


 実際に僕たちは、正式に出された命である軍事訓練を放り出して大江山に行ったのだ。

 なにもないところからでも、その気になれば濡れ衣を着せて人を処刑したり左遷するのが京の貴族のやりかただ。

 細かく突っ込まれたら一巻の終わりである。


「んなこと言ってもな。役目が終わったんやから、オヤジに報告する。これをしないほうがかえって怪しまれるわい。せやからここが賭けやねん。確実な証拠もないのに、お偉方が陰陽師の推測を信じるんか。それとも訓練は無事に終わったっちゅう、俺の嘘を信じるんかの勝負やな。平気な顔で嘘をつくんは、得意中の得意やけど」


 馬上の兄さんは、わずかに震えていた。

 そりゃそうだ。

 兄さんだって人の子だ。

 恐くないわけはないのだ。

 それでも、金時に対して平気で舌を噛めと言うだけあり、自分の命も瀬戸際にあるという覚悟を決めての大江山行きだったんだ。

 そんなギリギリの賭けを繰り返さない限り、兄さんの夢は叶わないんだ。

 下手な鬼退治なんかより、よっぽど恐ろしい。

 兄さんが魑魅魍魎やまじないを信じていないのは、人間より恐ろしいものはないと思っているからだろうか。


「金時、僕たちも一緒に行こう」


 その言葉が口から自然に出た。

 僕の命は頼光兄さんとともにある。

 金時だってそうだろ。


「んまあ、俺ぁ元々そのつもりだけどよ?」

「なんやねん、ツナ坊、オヤジのこと嫌っとったやろ。あんま会いたくないんちゃうか」

「たまにはいいでしょう。僕は嘘が下手だから黙ってますけど」 


 他の仲間に大江山から連れてきた村人を送り届けさせ、僕と金時、頼光兄さんの三人は平静を装いながら京に近づいた。


 都を出入りする人の様子は、特にいつもと変化がない。

 夜中だから人通りそのものが少ないけど、兄さんや僕を見て顔色を変えたり警戒したりすることもなかった。


「とりあえず大丈夫そうやな」


 通りすがる人に軽く手を振りながら、兄さんがそう言った。

 この付近を歩いているということは、それなりに身分のある人たちだ。

 兄さんのたくらみが漏れていれば、彼らはその内情を知っているはずである。

 その危険はなんとかしのげたようだ。

 一条にある戻り橋の近くに僕たちは差し掛かった。

 そこで金時が僕の服を軽く引いた。

 なにかに気づいたようだ。


「ナベっち、橋の上に女の人がいるぜ。こんな夜中なのに」

「……ん。本当だ、よく見えたね」


 かすかに人影があるのが、かろうじて判別できた。

 金時に言われなければ女性かどうかもわからないくらいだ。


「なんや、また身投げとちゃうやろな。京の北も南も、川に飛び込むんが流行っとるんかい。堀川は溺れるには浅すぎるやろ」


 女と聞いてしまった兄さんが、気をとられて橋に近寄る。

 こんなところで悪い病気が出た。

 いちいち構ってる場合じゃないというのに。


「兄さん、早くオヤカタさまの屋敷に行きましょう。京の人たちはまだなにも知らないようです。訓練を滞りなく終えたという報告さえ先にしてしまえば、それだけこちらが有利になります。あとで晴明さまがなにを言ったとしても」


 肩を掴んで止める僕を、兄さんがいいからいいからと振りほどく。


「べっぴんさんかどうか、チラッと見るだけやから」


 そう言って早歩きで橋に向かう兄さんを、僕と金時は小走りで追う羽目になった。


「姉さん、どないしてん。こんな夜中に一人で。一条とは言うても京は最近危ないで」


 声をかけられた女の人は、ゆっくりと兄さんの方を振り向いた。

 月明かりに照らされたその顔は、間の悪いことに絶世の美人と言っていい顔立ちだった。

 大きな瞳がきらりと輝く。

 兄さんが興味を持つのに、刹那も必要としないだろう。

 薄く小さな唇から、鳥のように甘い声が響く。


「お侍さま。ご心配をかけてしまい申し訳ありません。今宵は満月ですから、堀川に移る月と、空で輝く月。その両方を楽しんでいたのです」 

「そいつは風流でええこっちゃ。でも女の一人歩き、特に夜は危ないからのう。親御さんや旦那が心配せんうちに帰るとええ。なんなら送っちゃるよ」

「満月の輝きは、夜の闇を弱めてくれますわ。それはあなたさまのように。源氏の若君、源頼光さま」


 微笑とともにそう言った女の人は、衣服の懐に手をいれて白く光る刃を取り出した。


「兄さんっ!」

「カシラぁっ!」


 とっさに飛び込んだ金時が女に体当たりをぶちかます。

 橋の欄干に打ち付けられた女。

 僕は刀を抜き、首から胴をめがけて斬った。

 なにも考えられなかった。

 体が勝手に動いた。

 そのとき、僕たちは信じられないものを見た。

 斬られた女の体が、煙のように空へ舞い上がって、パーンと音を立てて消えていったのだ。


「兄さん! 大丈夫ですか? どこも怪我はありませんか?」


 腰を抜かして橋の上にへたり込む頼光兄さん。

 目も口も、これ以上はないと言うくらいに開かれ、放心の有様だった。

 そうなるのも無理はない。

 妖怪変化、魑魅魍魎、怨霊鬼神をまったく信じていない頼光兄さんが、それを目の当たりにしてしまったんだから。


「な、なんや今のは、いったい……」


 この騒ぎを聞きつけて、付近の邸宅から人がぞろぞろと出てきた。

 その中には、関白である藤原兼家さまとその息子たちもいたことを、僕たちは後で知る。

 

 次の日、早朝から僕たちはオヤカタさまの屋敷にある離れの間で、たくさんの人が来訪するのを迎えなければならなかった。

 その中でも特別に大物が、先述した関白の兼家さまと息子たちだった。

 関白さまは言う。


「うちの五男坊、道長というんですがな。こいつが親の手にも余る悪ガキでしてのう。あのときも家のものが咎めるのを聞かず、夜遊びに出ておったんですわ。そうしたら『一条の橋で侍が物の怪を退治した!』と騒ぎ立てるのです。なにごとかと見に来ると、摂津の頼光さまご一党ではありませぬか。いやはや驚きましたわい。さすが武門の誉れ、源氏の本流ですな」


 兄さんは一夜明けても衝撃から覚めないようで、客の話はもっぱら僕と金時が聞いた。

 そして去り際に関白兼家さまはこう付け加えたのである。


「できの悪い息子ぞろいですが、道長だけは度胸が据わってまだ見所がある。この兼家のあとを継ぐとすれば、こいつ以外おらぬじゃろうと思うのですわ。これからぜひとも、京に足を運ぶ際には道長のことを気にかけてやってくださらぬか。物の怪に止めを刺した綱どのにはいずれ、大内裏の警備を司っていただきたいものじゃ。すぐにとは言えぬが、ぜひともな」


 大内裏とは、みかどや后がおすまいになられる、平安京の北部中央である。

 いわばこの国の中心、そのさらに中央だ。

 僕の若さでそんな声がかかることはまず異例と言っていい。

 一条戻り橋での立ち回りが原因で、今まで無名だった金時まで注目を浴びてしまった。

 そして僕たち摂津武士は関白兼家さまの五男、藤原道長という少年の後見人に指名されてしまったのだ。

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