Epistle IX — The Bosom Friend's Mystery

39.雨に滲む





 日曜、月曜と経過しても、セイラは屋敷に帰ってこなかった。

 そして火曜日の朝、アリサは夢見荘に戻ってみようと決めた。


(お姉さまがいないんですもの、屋敷にずっといたって退屈なだけだわ。舞白さんのことも気になるし……)


 昼過ぎ、アリサは熾乃に命じて学院まで車で送らせた。これまで晴天続きのゴールデンウィークだったが、この日は朝からどんよりとした空模様で、学院のロータリーに着いた頃には小粒の雨がぱらついていた。


(そういえば、部屋の鍵は舎監室に預けているから、今は入れないんだったわ)


 今更になって自分の見落としに気づく。休暇中に夢見荘へ戻ってくることは本来許可されていないため、今は舎監の目を盗んで勝手に入り込んでいるのと変わらない。

 自分の部屋に入れないことに気づいたアリサは、荷物を抱えたまま『007号室』まで赴いた。緊張した手つきでドアをノックしてみるも応答がなく、半ば諦めた思いでドアノブを回してみたところ、鍵はかかっていなかった。


 恐る恐る開いて中を覗いてみたが、室内には誰の姿もない。明かりは点いておらずカーテンも閉め切られている。舞白側のベッドはめくれ上がった毛布など、最近まで使用された形跡があるが、セイラ側の寝具はきちんと折り畳まれて整頓されていた。


(舞白さんはともかく、お姉さまはもういらっしゃらないのかしら。まさか行き違いではないと思うのだけど)


 ひとまず荷物を部屋に置かせてもらい、舞白を捜しに行くことにした。可能性が最も高いと考えた一階のセリュールには誰もいない。外に出て各階のセリュールの窓を確認したが、明かりが点いているところは見当たらなかった。


(外は雨が降っているし、校舎は休暇中だから閉まっているはず。お休みでも開いていそうなのは聖堂と、活動中の部室棟と体育館……どこも舞白さんが行くとは思えないわ。

 改めて考えてみると、わたくしって舞白さんのことなにも知らないわ。だってほとんど話してくれないんですもの。分かっていることと言えばバイオリンやフランス語が上手なことくらい――でも、そんなのは周知の事実、みんな知っていることよ。腹心の友が聞いて呆れるわ)


 厳密には、アリサだけが知っていることもある――舞白がセイラに憧れている理由。

 これだけは恐らく誰も知らない。舞白の性格を考えると、セイラにも打ち明けていないかもしれない。


(共に篝乃会に入って、以前より一緒にいる機会も増えたはずなのに。こんなにも分からないものかしら? お茶会やダンスパーティーの練習を重ねても、なにもかも上辺だけの交流で、結局はお互いになにも――)


 徐々に雨脚が強まる中、アリサの脳裏にわずかな可能性がよぎる。

 考えるよりも先に足が向いた先は、篝乃会がダンスの練習に使用していた講堂。屋根付きの通路などはないため傘を差していく必要はあったが、その労力は果たして実り、講堂の鍵が開いていることを確認できた。中は暗いがステージ上のライトだけが点いており、ぎこちないステップで踊る一人の生徒を照らしている。遠目でも、それが体操着姿の舞白であるとすぐに分かったが、半袖姿なのは珍しいと思った。


「やっぱりここね……舞白さーん! ごきげんよう――」


 アリサは無性に嬉しくなり、手を振りながらステージまで近づこうとした。自分が来たことには驚くだろうが、同時に喜んでくれるものと思っていた。

 が、舞白の反応は――むしろ真逆。


「――っ!」


 ステージまで歩いてくる人影に気づいた舞白は顔を青ざめさせ、脱兎の如く舞台袖へと走っていった。アリサはわけが分からず呆気に取られる。


「ちょ、ちょっと舞白さん! どうして逃げるのよ!」


 恥ずかしがって隠れたようには見えず、なにか忌避するような眼差しと去り方だった。


(まだお茶会のことを気にして……? それとも、まさか舞白さん、なにか知って――)


 アリサは戸惑いながらステージに上がったが、舞台袖に舞白の姿は見えない。どうやら奥の倉庫に入ったらしい。


「舞白さん、いるんでしょう? わたくしよ、アリサよ。開けてもいい?」


 ドアの前で呼びかけてみるも応答がない。

 仕方なく開けてみたが、舞白の姿は見当たらなかった。


(消えた? いいえ、もしかして――)


 無人の室内はなぜか窓が開けっ放しで、すぐ傍には乱雑に脱ぎ捨てられたダンスシューズが転がっている。

 嫌な予感がした。アリサは窓まで近づき、降り込む雨を煩わしく感じながら外の景色を確かめる。


 予感は的中し、講堂の外壁伝いに歩いていた舞白の姿を見つけた。

 強さを増している雨脚のせいで、半袖の体操着がかなり濡れているのが分かる。それも厭わず一心不乱に歩く後ろ姿は、なにか切迫した思いに取り憑かれているようだった。


「ねえ、どこへ行くのよ! 舞白さん!」


 呼びかけるも、舞白は振り返ることもなくとぼとぼと進んでいる。アリサの声などまるで聞こえていないかのように。


(もう、本当になにをしているのよ!)


 アリサは倉庫を飛び出し、正面玄関から傘を持って舞白がいる場所まで回り込んだ。

 舞白は角の手前でへたり込み、細い両腕で自分の体を抱くようにしていた。アリサはすぐに駆け寄り、差していた傘の中に舞白の体を収める。


「舞白さん、大丈夫? どこか痛めたの?」


「……アリサさん?」


 俯いていた顔がわずかに上がる。長い毛先には翆雨の粒がぶら下がり、すだれのような長い前髪の奥で弱々しく揺れる瞳の色を滲ませている。


「どこも、痛めてない」


「ならよかったけど、どうしてこんなことしたのよ? わたくしから逃げるようなこと」


「そんなつもりじゃ、なくて」


「じゃあどうして? わたくしを見るなり、あんなに血相を変えて」


「……っ」舞白はまたぎゅっと自分の体を抱き、俯いてしまう。


 アリサは一度小さく息をついてから、震えている舞白の肩に手をやった。


「違うの、責めるつもりはないのよ? ただ、知りたかっただけなの。もしかして、あのお茶会のこと、気にしているんじゃないかと思って」


「え……?」


「お休みに入る前の日からあなた、少しおかしかったでしょう? なんとなく感じていたのよ。わたくしのコーヒーを準備したのは舞白さんだから、責任を感じているんじゃないかしらって……でも、わたくしはこの通り大丈夫よ。舞白さんの過失だとも思っていないわ。もし舞白さんが気に病んでいたのだとしたら、それはまったく必要のないことよ」


「……ありがとう、アリサさん。でも、今日はその、違うの」


「違う?」


「気にしていたのは、本当だけど。今日のこととは関係なくて……誰が講堂に入ってきたのか、分からなかったから。顔がよく見えなくて」


 確かに視力の弱い舞白では、アリサが声をかけた位置から顔を判別することは困難だったかもしれない。


「だからって、こんなことまでして逃げなくたっていいじゃない。自主練習を見られるのがそんなに恥ずかしかったの?」


「そういうわけじゃなくて……本当に、ごめんなさい」


 雫が伝う真っ白な二の腕が小刻みに震えている。

 雨に濡れたことによる肌寒さと考えるのが普通だが、舞白の表情からは、別のなにかに怯えているようにも見えた。


「とにかく一度戻りましょう。今は体を温めるべきよ」


 アリサはボレロを脱ぎ、濡れそぼっている舞白の体操着の上から羽織らせる。彼女の両腕を未だ凍えるように自分の体を抱いたままだった。


「あの、シューズと上着、中に忘れて」


「いいわよ、わたくしがあとで取ってくるから。あなたを部屋まで送るのが先だわ」


 身長差のある相合い傘になったが、舞白がかなり猫背で歩いているおかげでそれほど腕を伸ばさずに済んだ。アリサのブラウスも右肩の辺りが少し濡れてきているが、舞白がこれ以上濡れないようにするには仕方がない。


「まだ、分かってあげられないことばかりね。舞白さんのこと」


 アリサが力なく呟いた時、舞白がわずかに視線を向けてきたのが分かった。

 それが申し訳なさそうな、あるいは救いを求めるような眼差しだったことも。


「アリサさんには、話すから」


「え?」


「きっと、話せるはずだから。本当の、私のこと――」


 そのか細い声は、傘を打つ雫の音に滲んでいき、雨に煙るように消え入った。


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