第一章:5話 取引と、アザゼルの再契約
恭平は、安アパートの自室で、疲れ果てた体をベッドに投げ出した。免罪符の効力消失による反動は凄まじく、全身の筋肉が軋み、頭痛が激しい。彼は、すぐにでも眠り込みたい衝動と戦いながら、最後の作業に取り掛かった。
リュックから取り出したマグネタイトの塊は、ずっしりとした重みと、安定した魔力を放っている。これこそが、命がけの「逃走」によって得た報酬だ。
『マスター。早急に休息が必要です。体力の回復を怠ると、次の逃走に支障をきたしますよ』
腰のチキンソード(鞘に戻っている)が、心配というよりは、効率を重視した口調で語りかける。
「うるさい。これはビジネスだ。一刻も早く情報屋に渡して、金を確保する」
恭平は、魔導端末を取り出し、情報屋に取引完了のメッセージを送る。そして、同時に、悪魔アザゼルに再度のコンタクトを試みた。
メッセージ:{アザゼル。対価:マグネタイトの塊(深層階採掘)。要求:暴食のマスターの支配権争いに関する最新情報。及び、チキンソードに関する完全な歴史と術式解析。}
数分後、部屋の隅に漆黒の煙とともに、アザゼルが姿を現した。彼は、恭平の疲弊しきった様子と、床に置かれたマグネタイトの塊を交互に見て、冷笑した。
「ほう。グラトン・ベヒモスの目を掻い潜り、生還したか。君の『安全第一』は、時には狂気的だな、恭平」
「茶化すな。対価だ」
恭平は、マグネタイトの塊をアザゼルの足元へ押し出した。塊から放たれる強力な魔力に、アザゼルの目がわずかに輝いた。
「素晴らしい。『グラトニー・ロード』が最も執着する『食料』。これは高く評価しよう」
アザゼルは満足そうに頷き、情報開示に移った。
「まず、君の興味の的、ダンジョンマスターたちの『大罪戦争』だが、水面下で激化している。特に最近、日本にいる『暴食』のグラトニー・ロードが、ブラジルの『色欲』と、フランスの『傲慢』から執拗な干渉を受けているようだ。彼らは、グラトニー・ロードの『飽食』主義を『怠惰』と見なし、支配権を奪おうとしている」
「つまり、暴食のダンジョンは、今後、より荒れるということか」
「その通り。君が稼ぎたいなら、より『危険で汚くキツイ』仕事が増える、ということだ。残念だったな、恭平」
恭平は舌打ちをした。安定した収入を求める彼にとって、ダンジョンマスターの戦争勃発は、最悪のシナリオだ。
「次に、『不敗の免罪符』、チキンソードについてだ」
アザゼルは、恭平の腰の鞘を一瞥した。
「あれは、元々、七人のダンジョンマスターの一人、南アフリカの『怠惰』のマスターが、『できるだけ楽に戦いに勝つ』という発想で生み出させた魔導具だ。だが、完成直後、『怠惰』のマスターは、そのアイテムを使うことすら面倒になり、闇市場に流した。まさに、君の『怠慢』な性癖にぴったりの経緯だろう?」
恭平は、自分の「怠惰」が、世界の裏設定と深く繋がっていたことに、軽い戦慄を覚えた。
「『怠惰』のマスターは、自分の軍勢すら動かすのを嫌がり、今はひたすら『睡眠』という名の支配戦略を取っているらしい。チキンソードの術式は、持ち主の『逃走』という生存本能をエネルギー源とし、知性と力を蓄積する。ただし、一度の戦闘で力を使い切ると、持ち主の肉体を極度に消耗させる。悪魔的なユーモアだ」
アザゼルは、悪意に満ちた笑みを浮かべた。
「つまり、君が力を使い、強大な敵と戦えば戦うほど、君の体はボロボロになり、次の戦いを嫌がる『怠惰』の思考に囚われていく。まさに、術式が君の『怠惰』を強化するわけだ」
恭平の目の下の隈が、一層深く沈んだ。彼の「怠慢さ」は、単なる性格ではなく、このダンジョン時代における普遍的な「大罪」の影響を受けているのかもしれない。
「契約は守るが悪魔は穴をつく。お前は情報を渡したが、その情報を利用して、俺の『怠惰』を増長させようとしているわけだ」
「私がしたのは、事実の開示だけだ、恭平。利用するかどうかは君次第。さあ、取引は完了だ」
アザゼルはマグネタイトの塊を回収し、再び漆黒の煙となって消え去った。
怠惰からの脱却、あるいは沈溺
恭平は、情報を得た満足感と、アザゼルの言葉による嫌悪感に苛まれながら、ベッドに横たわった。
(『怠惰』のマスターが作った剣……俺の『怠惰』を加速させる……)
彼は、目を閉じる。頭の中には、「できるだけ楽に稼ぐ」という口癖が木霊する。だが、その楽な道が、最終的に肉体の破滅と、世界的な戦争への巻き込みを意味しているとしたら?
チキンソードの言葉が、脳裏に響く。
『マスター。怠けましょう。寝て、体力を回復し、楽に稼げる情報だけを待ちましょう。それが最も効率的で、貴方様と私が長生きする方法です』
「……チキンソード。お前は、本当に賢いのか?」
『ええ。逃げるための知識と、生き残るための計算において、私は最強です。マスター』
恭平は、自分の過去の経験――仲間を失ったトラウマ――と、目の前の楽な道、そして「怠惰」という大罪に深く根ざした魔導具の誘惑の間で揺れていた。
翌日。恭平は、情報屋との取引を終え、まとまった現金を手に入れた。彼は、その金の一部で、高性能な睡眠導入剤と、魔力回復促進のポーションを購入した。
「安全第一。楽に稼ぐ。そして、楽に休む」
彼は再び、拠点である安アパートに引きこもる。ダンジョン配信者やトップランカーたちが、激化する大罪戦争の情報を追い、次なる危険な依頼に飛び込んでいく中、佐倉恭平は、ひたすら眠り続けた。
そして、その眠りの間、彼の夢の中には、自分がかつて失った仲間たちの顔と、彼らを救えなかった「慎重」で「怠慢」な自分自身が、何度も現れるのだった。
恭平の冒険者としての生活は、さらに深く「怠惰」という大罪に沈溺していくのか。それとも、このチキンソードという矛盾したアイテムが、彼を「逃走」の果てにある、新たな「努力」へと導くのか。
(俺は、ただ……安全な老後のための貯金がしたいだけだ)
恭平は、静かに目を閉じた。彼の腰には、彼を「チキン」と呼び続ける賢い剣が、静かに休眠していた。
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