ははのひ.6

 エンリの初陣が決まった。相手は海賊である。

 ヴィサリア沖合で商船を襲撃していた船の根拠地が探り出され、襲撃が決まったのである。海軍と、恐らくは父の手の者たちが動いたのだろう。場所は王国東部、商人たちの都市国家群と接する地域だ。国境沿いの海岸線上に、巧みに隠された洞穴の中だという。

 本来なら、十五歳で初陣を迎えるはずだった。だが十八年前の戦争以来、ヴィサリアに大きな戦乱はなかった。海賊や野党にしても、父が即位後に小さなものまで潰して回っていた。それによりヴィサリアの商業は、戦前以上の活況を呈していた。

 出発の前夜、エンリは父に呼び出され、釘を刺された。

「わかっていると思うが、飛んで偵察など決してするな」

 謁見の広間ではなく、父の私室に呼ばれた。何となく、久しぶりに暗がりの中で父の顔を見た、という気になった。暖炉の火など必要のない季節になっているので、灯りは燭台だけだ。

「かしこまりました」

「竜になって自分が行けば、戦など必要ないと思っているな」

「まあ、そういう気持ちもあります」

「人として生きたいなら、人の身に許された力だけ遣え」

「魔法はよいのですか?」

「才ある者が訓練すれば遣えるものだからな。匠が紙切れや石ころを美や藝に変えることと同じだ」

「お祖父様もですか?」

「あの人は、とんでもない匠だと思うことにしている。たった一人でこの白塔城を築いてしまうような、巨匠だとな」

「竜の力は、違いますか」

「違う。目の当たりにすれば、それは肌が感じる。そして、そういう力は人に怯えを抱かせる」

 怯え。父もそうなのだろうか。

「王族ならば、畏怖されることも必要なのではございませんか?」

「そうだ。だから軍を持っている。だが軍は、人の世にとって馴染み深いものだ。お前の力は、その正体すらわからん。そして、人々の畏怖を求めるのなら、弱いものの気持ちをわかってやれ。徒に恐れられれば、お前の生は暗くなる」

 港の市場の群衆の最中で結界を遣った。野良犬を追いかけた時のことだ。父はそのことも窘めているに違いない。周りが見えていない、と言われている気がした。

「それにな」

 父が椅子の上で少し体勢を崩した。

「この国は今、平穏が保たれている。ベイル殿がいることも、その理由のひとつだ。だが、 ベイル殿と共に滅ぶ国であってはならん。お前を、次のベイル殿にする気もない」

 次のベイル殿、という言葉で、父が何を危惧しているかが朧げにわかった。父もどこかで、祖父を恐れている。魔法は人に扱える範囲の力だとは言うが、祖父は明らかに桁が外れているのだ。十八年前の戦争では、ヴィサリアとランナフルに跨がる帝国との国境線と、帝都全域を祖父の結界が覆ったという。やろうと思えば何でもできる祖父の匙加減次第で、帝都は消滅していたかも知れない。

 祖父は、今のところ国防の要となっているが、その力が王国に矛先を向けた場合のことも、王ならば視野に入れておかねばならない。また、祖父が倒れた時、帝国を含む周辺諸国が動き出すかも知れない。いや、この平和の水面下で、間違いなく蠢いているものはある。

 強力であるがゆえに、危機をも招きかねない。祖父とは、そういう存在だった。

 そして、エンリやアルファレ、エルーナは、その祖父の血を引いている。身に宿した火の力や魔法を訓練するエンリ達が、仮に祖父に等しい力を得たとする。そうなったとしても、三人が聖者にも化け物にも成らずに済む体制をつくる。そのために父が腐心していることを、エンリは知っていた。マリアナ・デルリーヴォとの婚姻も、ある意味ではそのためなのだろう。

「ヴィサリアは、誰かの何らかの力を恃むことなく、ヴィサリアの力によって立つべき。それはわかります。同盟者として、セルタナやランナフルと手を結ぶことは、国力の一面だとも思います」

「軍指揮も国政も、しばらくは俺が代わってやれる」

「はい。明日、父上の指揮を身体に叩き込みます。そして、これまでの訓練の成果を出せるよう、全力を尽くします」

「もういい。行け」

 立ち上がって一礼し、退出した。

 居室に戻ると、入口でレンドローサとララが立っていた。父に呼ばれた際、居室の番を命じてレンドローサは置いてきていた。

「何か用か」

 ララが扉に手をかけようとしたところへエンリが話しかけたので、レンドローサが代わりに扉を開けた。

 何か言おうとして、言葉が出ない様子のララを見て、エンリは手招きした。だが、ララは首を振って動かなかった。

「無事を祈っております。それだけを伝えに参りました」

 エンリはただ頷いた。

「ご心配には及びません、ララ殿。必ずや、私がお守り致します。何より、海賊如きに殿下が、傷ひとつ付けられましょうや」

「貴方のことも心配なのですよ」

 ララがレンドローサの方を向いた。弱い灯に照らされて、不意にララの頬の火傷痕がくっきりとエンリの目に映った。また、たじろぐような気分がエンリの胸中に湧いた。それを振り払うように、エンリはレンドローサの肩を軽く叩いた。

「案ずるな。私が守っておいてやる」

「殿下、それはいけません」

 汗を浮かべたレンドローサが、エンリとララを交互に見る。ふふ、と声を漏らしたララに、エンリもつられた。



 日が高くなるとともに、降り注ぐ陽射しも強くなった。風を求めて、エンリは甲板に出ていた。船室は蒸し暑い。兜も脱いでいた。

「もう夏だな 」

 そばにいるレンドローサに話しかけた。レンドローサも、船上の戦に合わせて軽装だったが、エンリのように兜を脱いではいない。反対側に控えているイネスは、どこにいても緑色のローブで通している。不平など漏らさないが暑そうな顔はするレンドローサと、顔にも出さず黙って控えているイネスが、対照的だと思った。

「呑気なことをおっしゃいます。余り気負い過ぎるのも考えものですが」

 日の光で、海面が輝いている。波の動きとともに、微妙に煌めきが移り変っている。潮の流れている場所は、他とは別の色を見せていた。海の道だ、と何となく思った。

 父は甲板に据えられた椅子に腰掛けている。揺れや波飛沫を気にする素振りは見せない。その父を、近衛騎士団長ヴァスラーダや、今回の司令官に選ばれた海軍将校メネーゼス、旗艦の船長であるソアレスと、追従する幕僚たちが取り巻いている。軍議はもう済んでいたので、エンリは船首の近くへ離れていた。ひとりになろうとしたが、レンドローサとイネスは黙ってついてきた。

 追い風を受けて、軍船は進んで行く。三隻の布陣である。膨らんだ帆が立てる音、船が波を蹴散らす音が、絶え間なく聞こえる。風が頬を撫でれば、その度に潮風が匂う。音も、匂いも、同じようで刻々と変化しているように感じた。

 しばらく海を見つめていると、見張りが声を上げた。

 船が二隻、縦に並んでこちらへ向かってくる。目指す洞穴はまだ見えず、近づいてくる船を透かして、水平線の彼方に薄く陸の影が見えた。

 父の号令が下り、船上の空気が変わった。

旗が掲げられた。渦を巻きながら流れる水と風を曲線で意匠し、紺地に金の縁取りを施した旗。それが風流紋と呼ばれる王家の紋章である。

 見る間に距離が縮んでいく。不意に、向こうの船の船首に男が現れた。次には、旗が掲げられた。黒い旗。海賊の旗だ。

 胸甲だけを身に着けた、よく見る海賊の格好ではない。イネスのようにローブを身に纏っているが、首から上は晒している。風が、男の茶色い髪と、ローブを煽った。

 男が笑った。そう見えた瞬間、男が両手を広げた。

 男の両手の間に、凄まじい魔力が収束していく。海賊如きに、魔法使いなどいるはずがない。エンリは背筋に冷たいものを感じ、思わず叫んでいた。

「父上、回避を」

 椅子に腰掛けたまま、父は表情ひとつ変えなかった。座ったまま、そばに控えているメネーゼスに短く指示を出し、エンリを見た。

「敵に腹を見せてはならん。エンリ、やれ」

 父の眼光を受け止め、エンリは船首に登った。レンドローサとイネスが、すぐ後ろについた。結界を張れるイネスは下がらせようかと思ったが、王属の魔法使いが父のそばに二名控えている。後ろは見ないことにした。祖父により結界魔法が体系化されてから、ヴィサリアとランナフルには、イネスのように結界を扱える魔法使いが僅かながらいるのだ。

 指揮船が先頭に出た。一隻が真後ろにつき、もう一隻はやや離れて左後方を進む。

 敵船の船首に、巨大な火の玉が浮かんだ。それが、一瞬静止し、エンリ目がけて真っ直ぐ飛んできた。

 火球はエンリの予想以上の速さで飛んできた。だが、軌道がわかっている。船の前面に展開した結界が受け止めた。

 爆音が鳴り響いた。と同時に、飛散する炎と絡まるように、稲妻が蜘蛛の巣のように走った。

 エンリの結界で防ぐことはできた。船にも人にも被害は出なかった。だが、エンリは驚愕していた。威力もさることながら、炎と雷が融合した魔法など、聞いたこともない。

「殿下」

 イネスに声をかけられ振り向いた。眼を見開いたイネスと視線がぶつかったが、イネスが逸らした。

「いえ、何でもございません」

 頷いて、エンリは前を見た。目の端に、舌打ちしたそうなレンドローサの顔がよぎったが、今はそれどころではない。ローブの男が、また魔力を収束させている。

 もう一度飛んで来た火球に対して、エンリももう一度結界を張った。結界に火球が衝突し、轟音と炎、稲妻が巻き起こった。威力が上がっている。炎と雷は通さなかったが、結界が破られ、爆風が船上を吹き抜けた。冷たい汗が、エンリのこめかみから顎を伝い落ちた。いや、総身が濡れている。汗か波の飛沫かもわからない。日差しと爆炎の熱に晒されているのに、身体が冷たい。

 指揮船と敵船の距離は、もう相手の兵の姿もはっきりと見えるほどに近づいていた。このままでは、正面から衝突する。それでも直進のまま指示を変えないヴィサリア海軍に、敵船の方がにわかに焦り始めた。

 ローブの男だけは、変わらず三度目を放とうとしている。意外に若い男に見える。

 この距離で撃たれれば、火球の威力を更に上げられるなら、同じことをしていては防げない。指揮船に被害が出る。

 エンリは渾身の魔力を練り上げた。ローブの男が火球を撃つ。エンリは咄嗟に、一枚の盾ではなく、船首の先を頂点とした楔の形に結界を展開した。

 火球が結界の頂点で裂かれ、爆炎と稲妻が表面を舐めた。それだけだった。やはり威力は上がっていて、真正面から受ければ突破されていた。だが、ただ受け止めて耐えるのではなく、受け流せばよかったのだ。単純な事に、今更気が付いた。

 爆炎が晴れたとき、敵船はもう目の前だった。ローブの男が船首から消えている。

 エンリはまだ結界を維持していた。敵船が慌てて向きを変えようとする。そこへ、追い風と船の重さを乗せたかのように、結界の鋭角が音を立てて敵船の斜め左へ喰い込んだ。

 海面すれすれまで伸展させたことで、巨大な衝角となった結界が、敵船の頭を喫水線まで砕いた。

 全速後退の指示が飛び、足元の揺れ方が変わった。

 結界を解こうかと思った瞬間、火球が結界にぶつかった。

 ローブの男。目が合った。その目に、憎しみに近い光を感じた。

 指揮船が少しずつ後退していく。船首の下から海水が流れ込み、敵船は動くこともままならない。エンリは、ローブの男だけを見逃さないようにしていた。散発的に矢が飛んでくるが、エンリの結界に弾かれ、それより高い軌道で飛んでくる矢は、イネスが防いでいる。

 遠く喚声が聞こえた。もう一隻の敵船が、ヴィサリア海軍の二隻に挟まれ、切り込みをかけられている。指揮船が真正面から突っ込んでいる間に、指揮船の真後ろについていた一隻が襲い掛かり、後方を走っていたもう一隻が、大回りして退路を断っていた。

 エンリが楔形の結界を解いた時、指揮船が再び前進した。動けない敵船に、切り込みをかけるのだろうと判断した。だが、もう一度火球が飛んで来たら、防げるかわからない。魔力の消耗が想像以上に激しい。

 エンリ、と父の声が響いた。

「燃やしてしまえ」

 接舷して制圧せず、鹵獲もしないなら、燃やすのが一番手っ取り早い。もとより、先程の衝突によって沈む運命にある船だ。父に向かって直立し、エンリは再び敵船に向き直った。

 魔力は消耗しているが、炎は別だ。

 ローブの男は、まだ視界に捉えている。再び火球を撃つ機を窺っているだろう。だが、今度はこちらの番だ。

 手をかざした。その先から、月光色の炎を放った。指揮船が動けない敵船の真横を擦り抜けていく間、エンリは炎を噴き続けた。敵兵が一斉に船尾へ逃げようとする。その中に、ローブの男もいた。

 敵船の甲板全体へ、炎を満遍なく放射した。蒼空にいくつもの煌めきが飛び、水面の碧の上に反射してまた明滅した。敵船の甲板は美しい地獄だった。人にも、帆にも、船体にも月光色の炎が燃え移り、そこへヴィサリア兵が、火矢と、油の入った筒を付けた矢を射ち込んだ。筒は矢が当たると砕け、油を撒き散らした。火だるまになった敵兵が、海へ飛び込んだ。

 殿下、とイネスが叫んだ。指差す方向を見ると、ローブの男がこちらを睨んでいた。炎に巻かれ見失っていたが、まだ生きていたようだ。

 雄叫びとともに、火球が飛んできた。エンリではなく、父を狙っていた。楔形を出す暇はなく、最初のように盾の結界を張った。

 火球は小さかった。それは、力が弱まったのではなく威力が圧縮され、速度も増していた。

 エンリがにわかに張った結界は、真正面からではなく、斜めに火球を受けた。一瞬、火球が結界の上を滑った、と思った刹那、炸裂して稲妻を撒き散らした。

 エンリの結界は破られなかった。そして、父のそばにいた魔法使いがそれぞれに結界を張っており、大きな被害はなかった。だが、稲妻が迸った周囲の船体は黒く焦げ、ひび割れていた。拡散した稲妻が、エンリの結界を越えていたのだ。兵が二名、着弾した付近に倒れていた。

 エンリの中に、言い知れぬ感情が湧いた。ローブの男を睨んだ。

 男は不敵に笑っている。父を狙った。俺との勝負はどうした。殺す。こいつだけは。

 振りかぶり、勢いをつけて炎を纏わせた右手を振り下ろした。

 細長く尾を引く炎が、音を立てて飛んだ。ローブの男が、掌で圧縮していた火球をぶつけようとしたが、射出される前に、炎の槍が火球ごと男を貫いた。

 男が口から血を噴きだした。次の瞬間、今度は男の口から月光色の炎が噴き出した。

 二色の炎に包まれて、崩れ落ちる男と船。その横を擦り抜けた勢いのまま、指揮船は炎上する海賊船を離れた。

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りゅうのこと @enohara

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