6
「君は車の中にいなよ。夜は冷えるし」
「無理言わないで。私が行くと、言ったでしょう」
「まったく、強がっちゃって」
言い返す代わりに、勢いをつけて助手席のドアを閉める。隣人は黒い革のグローブをしていて、持っていた大きなシャベルを一度地面に置いて、自分のジャケットを私の肩に掛けた。
京都からどれほど離れたかは、私には分からなかった。彼は行き先を知られたくないようで、私の注意を目的地のことから逸らすか、あるいは寝させるか、心の中で問答しているようだったから、私は大人しく眠ることにしていた。
注意散漫で事故を起こされるなんて御免だ。
「寒くないのに」
「分かっているとも」
それでも必要だろう、寄る辺は。彼は夜の大気に融けるような声音でそんなことを呟いた。袖にしがみついていろとでも言いたいのだろうか。けれどまあ、ジャケットの重さはちょうど良かった。地に私の足はまだ着いているのだと嫌でも実感させられる。
頭上には月が浮かんでいる。明日は満月らしい。昨夜みたいに星々が空一面に散りばめられていて、居心地が悪くなって見上げるのを止めた。
ざく、と湿った土の音がする。私は彼の手元をスマートフォンのライトで照らした。土の臭いが鼻腔を刺激する。この辺りでは、昨夜にでも雨が降ったのだろうか。雨上がりの匂いに近いものを感じた。
「この山、勝手に入ってよかったの?」
明らかに人が通ることのなさそうな山で、道の整備のされ具合はあの崖道と同程度だ。観光客が来るようなところではない。
「この辺りの山一帯、知人の私有地だからね。大丈夫だよ」
意外なときに役立つ人脈もあるものだね、と彼は言い添えた。
この青年のコネクションはどうなっているのか、私がその詳細を知る隙などきっと彼は余していないのだろう。今だけは聞き分け良く適当な相槌を打った。
どうやら、うちの会社は少なくとも潔白ではなさそうだ。証拠隠滅も、死体遺棄も、こうして叶ってしまうのだから。
穴は次第に大きく深くなっていって、高身長のこの隣人の肩も隠れるほどになった。
これくらいでいいかな、と彼は小さめの脚立を使って穴から戻ってきた。先程まで相棒だったシャベルを無造作に地べたに転がして、彼は隣人らしく私の隣に座り込んだ。
「天沢歌留多は僕の従妹だ。あの子の親がどういう人間かも知っている」
彼は「空が青いね」と言うときと同じくらいさらりと、あまり交流の無い他人の世間話を聞くときくらいどうでもよさそうな顔で言ってのけた。あまりに唐突な内容に隣を凝視してしまう。
しかし、彼は私の反応は今はどうでもいいのか、もしくは想定済みなのか、特別こちらの様子を窺うことなく淡々としていた。
「僕はこの容姿の通り、日本人以外の血も入っている。彼らにとって異端そのものだったからね、刺青を入れるよりもっと幼いうちに捨てられたのさ」
「あなたたちの宗教って、一体……」
「言わないよ。こればっかりは絶対言ってあげない。知っても無意味だ」
そろそろ片付けるかなと、隣人はおもむろに立ち上がって、それから一度空を見上げた。
「星が綺麗だね。……届かないから、そう見えるだけかもしれないけれど」
車のトランクから重量のある密閉されたスーツケースを取り出して、それを穴めがけて乱雑に投げ捨てる。私は何もできず、立ち上がって、それを眺めているだけだった。
穏やかな空気だが、時たま生温い湿った風が木々の間をすり抜けていく。
ようやく、と彼が呟いた。
「ようやく、何よ」
「……この子、君が僕と待ち合わせしているとき、いつも倉庫の陰に隠れて君を睨んでいたんだ。ようやく僕の前でやらかしてくれたなって。少し、喜んでしまった」
グローブを外しながら、「ごめん、僕って性格悪いでしょ」と彼が苦笑する。けれど、それが私を大切に思ってくれているがゆえの感情だと分かっているから、その通りだと肯定するのも何か違う気がして、ならば何と答えたものかと少し迷ってから「そんなことないわよ」と返した。
他に気の利く返しが見つからなかった。
「綺麗ね、星。……私には眩しすぎる」
――毎日楽しくいられるのは望音ちゃんのおかげだよ。望音ちゃんの優しさに、私、とっても救われてる。
そんなわけがない、そんなはずがない。物好きとかお人好しとか、もはやそういう話ですらない。その身に降りかかる不幸の発端は、原因は、総じて私にあるというのに。どうして彼女はそんなことを言えたのだろうか。分からない。
歌留多に次の朝はない。朝日の温さが彼女を支えることはもうない。
死を目前にして、彼女は何を思ったのだろう。それを、私が知り得る方法はない。
募る罪悪感と静かな恐怖で手が震えていた。
「る、ルカ、やっぱり私……」
彼は私に呼ばれて振り向き、握っていたスマートフォンを優しく取り上げて、点けっぱなしだったライトを消した。けれど、こちらに返すことはなく、彼は持ったまま膝を折って私と目を合わせる。
「モネ、聞いてくれ」
きっと二人して眼に星空を映しているのだろうと、彼の瞳を見てそのようなことを考える。碧眼が、星の光が浮く水面のようだ。
あの崖道で見た夜の海が思い出される。
彼の瞳は至って真剣な様子で、私の心をも見透かしているかのような口ぶりで、私の左手を握った。彼の手は温かった。
「あの子の死因は頸髄の損傷。君が関与したのは、頭部の損傷のみ、正当防衛だ」
「――は、何を言って……」
「僕がとどめを刺したんだ。脈拍の確認をしたあとに、念のため首の骨を折っておいた」
だから大丈夫だよと、いつもよりも更に何倍も優しく微笑んで、ここでようやく私の手元にスマートフォンが戻ってくる。何が大丈夫なのだろうか。
嫌な汗が止まらない。毛穴という毛穴が開いて、魂ごと漏れ出てしまいそうだ。
なかなか指紋認証が成功せず、ロックを解除するのに少し時間がかかった。
ここは圏外だ。
「通報するもしないも、モネ次第だ。僕は君の正義感も優しさも行動も重んじるし肯定する。どのような形であれ、君の一生の引け目になれるのであれば、それはきっと僕の幸せなんだと思う」
口がわなわな震えていると自分でも分かる。何と声を掛けるべきか、いよいよ何も出てこなくなって、雑な相槌も打てなかった。
「強いて言うなら、これが僕の我儘かな」
彼は車に凭れ掛かりながら、やっぱり僕って性格悪いでしょと、さっきみたいに苦笑していた。表情は何一つ変わっていない。それから溜息を一つ吐いて、グローブをまた着け、シャベルを持ち直してさっさと穴を埋めた。
私の良心の呵責で通報したとして、殺人犯として捕まるのは私ではなくこの隣人だと云う。どのみち私も捕まるのであろうが、彼女の死因の九割が私のせいでも、最後に彼の一割があったから、巻き込んでしまうことになる。
間違いなく、私のせいのはずなのだ。
歌留多が死んだのも、あのいじめっ子が死んだのも、彼を巻き込んだのも。
なのに、幾ら何でも滅茶苦茶すぎやしないか。
「よし、じゃあそろそろ行こう」
何もなかったかのように、彼はいつも通り微笑んで、私の肩を軽く叩いた。
彼は、この隣人は、兄は、家族は、大切な人は、ルカは、私のせいで。
胸が締め付けられるようなとか、そういった直喩表現でなく、本当に呼吸のたびに気管支が痛む。
ずっと守られて育ってきたのだと、ここでようやく実感する。歌留多に、ルカに、それと多分、父にも。そうやって重責に耐える苦痛さえろくに知らずに生きてきたのだ。絵に描いたような愚者。思慮に欠けている。
「帰ろっか。京都にも行こうね。モネは、帰りに寄りたいところはある?」
「ルカ」
「どうした?」
車内は真っ暗で、互いの表情も伺い知れない。
「私、あなたを切り捨てられそうにない」
たった一言、「そっか」と私の選択を肯定した隣人の表情は見えない。
膝の上で、爪が手のひらに食い込むほど強く握り締める。感情が散乱している。
彼はその拳をそっと解いて、何か固い欠片のようなものを捻じ込んできた。
恐る恐る手を開いてみると、少し歪な形になっていたが見覚えのある青いアクリル宝石が手中に収まっている。
「スーツケースに詰める前に見つけたんだ。……これの処遇は、君に任せるよ」
あのいじめっ子が、きっと歌留多から奪ったのだ。だがそのおかげで、これだけは彼女の故郷から守ることができた。
強い衝撃が加わったのか、ブリリアントカットされたアクリルのおよそ五分の一ほどは割れて無くなってしまっていたが、それが却って歌留多のもので違いないという根拠のない確信を得ていた。
「……近場で構わないから、星のよく見える場所に寄ってほしいのだけれど」
「ああ、もちろん構わないよ。ちょっと検索してみるね」
歌留多、どうかあなたは夜が明けずとも眩い星灯りの下にいて欲しい。
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