第2話 対抗策

   ◇ ◇ ◇


「――灰咲さん!」


 急いで用事を済ませて帰宅した俺は、玄関の扉を開けるのと同時にそう口にしていた。


「――っ!?」


 ビクッと身体を震わせた灰咲さんは「びっくりしたぁ~」と溜息交じりに呟くが、すぐに平静を取り戻していつものクールな表情に戻る。


「おかえり。そんなに急いでどうかしたの?」

「ちょっと話があるんですけど、聞いてもらえます?」

「もちろんいいんだけど、ちょっと待ってもらえる?」


 気が逸って冷静さを欠いていた俺は、改めて灰咲さんの姿を確認して固まった。


「――す、すいません」


 慌てて後ろを向くが、手遅れのような気がする……。


 なぜなら、灰咲さんは下着姿だったのだ。

 タイミング悪くも、着替えている途中だったらしい。


 すぐに目を逸らしたから細かな意匠はわからなかった。


 ただ、黒かった。上下ともに黒かった。黒い下着だった。

 それだけははっきりと確認できてしまった。


 均整の取れた身体を包む下着姿が妖艶で、瞬時に脳内メモリに保存してしまった。灰咲さんには悪いと思いつつも、非常に眼福であった。


「ごめんごめん。お待たせ」


 どうやら俺が脳内で灰咲さんの下着姿を堪能している間に、着替え終わったようだ。


 というか灰咲さん、平然としすぎじゃないですかね……?

 とても下着姿を見られたとは思えないほど、あっけらかんとしているけども……。隠す素振りすら見せなかったな……。


 俺になら見られてもいいと思っているのか? それとも男として見られていないのか? 果たしてどちらなのだろうか……?


 前者なら嬉しいが、後者なら男として情けなくなる。


「――それで、話ってなに?」


 そうだった。

 灰咲さんに大事な話があるんだった。


 今は俺がどう思われているかなんてどうでもいいことだ。一旦、忘れよう。


 気持ちを切り替えた俺は、靴を脱いで部屋に上がる。


「真面目な話なんですけど」

「うん、なに?」


 首を傾げる灰咲さんに歩み寄って正面に立つ。


 近くで灰咲さんの顔を良く見たら、頬と耳が少し赤くなっていた。平静を装っていただけで、やっぱり恥ずかしかったんだな。当たり前か。


「突然なに言ってんだ? って話なんですが――」


 そう言いながら跪いた俺は、ジャケットの内ポケットからある物を取り出すと――


「――俺と結婚してください」


 ある物――リングケースを開けて灰咲さんに差し出しながらプロポーズをした。

 内心では緊張していたが、平静を装ってしっかりと灰咲さんの目を見つめる。


「…………はい?」


 困惑を隠し切れない灰咲さんの視線が、俺の顔とリングケースに行ったり来たりする。


 当然の反応だ。

 彼氏でもない男からいきなりプロポーズされたら誰だって困惑するに決まっている。


「俺、考えたんですけど、こうするのが一番効果的だと思ったんですよ」


 突飛な考えかもしれない。

 だが、大須賀対策として考えたらこれ以上の手はないと思う。


「だだの同僚で、ただの友人でしかない部外者の俺がいくら首を突っ込んだところで、多分、大須賀は納得しないですよね?」

「……それは……まあ……そうだね。残念ながら……」


 未だ困惑が抜けきらない灰咲さんはぎこちない動作で頷く。


「だったら大須賀が無視できない存在になればいい」

「それが結婚……?」

「世間体を気にするタイプって話ですし、いくら大須賀でも灰咲さんが既婚者だったら、さすがに手を出せないんじゃないかと思ったわけです」

「……その可能性はあるね」

「ついでにそのほうが俺も堂々と首を突っ込めますし」


 大須賀は自己中の塊のような男だから、正直、効果があるかはわからない。全く意味がないかもしれない。


 でも、試してみる価値はあるはずだ。

 なにもしないでただ時が過ぎるよりは、遥かにマシだろう。


「どうですか?」

「……正直、凄い助かるし、一考の余地はあると思う。でも、獅子原君がそこまで体を張る必要はないよ」


 もっともな懸念だ。

 灰咲さんからしてみれば、そう思ってしまうのは無理もない。


 だが――


「別に体を張ってるつもりはないですよ」


 これは本心だ。

 無理をしているわけでも、犠牲になろうとしているわけでもない。


「純粋に俺がそうしたいと思ったからなので」

「そうは言っても……」


 言葉を選んでいるのか、灰咲さんは途中で口を閉じてしまった。


「まあ、いくら建前とはいえ、俺と結婚したくないならそれまでですが……」


 そう、これはあくまでも俺が勝手に言っていることだ。

 大須賀を退けるための建前だったとしても、そう簡単に結婚なんてできるわけがない。


 無茶苦茶なことを言っているのは俺のほうだ。

 灰咲さんが戸惑うのは無理もない。困って当然だ。


「嫌じゃないよ? 獅子原君のことは好ましく思っているし」


 勘違いしてしまいそうになるが、灰咲さんの言う好ましいは恋愛的な意味ではないだろう。友達としてとか、人としてとか、半同居人としてとか、そういう意味に違いない。


「でも、結婚となると話は別でしょ? 結婚は生涯を共にする誓いを交わすってことだから、そんな軽々けいけいに決めていいことじゃないよね? 私たちは付き合っているわけでもないんだし」


 もっともな指摘だ。

 だが、俺は別に軽い気持ちで結婚しようと言っているわけではない。


「生涯を共にする覚悟があるからプロポーズしたんですよ」


 色恋沙汰に辟易している灰咲さんに、軽い気持ちでプロポーズするわけがない。できるわけがない。


 ちゃんと覚悟を決めている。

 俺みたいな若造の覚悟が如何ほどのものかは正直わからないが、冗談や嘘が一切入る余地がないと断言できるくらいには本気だ。

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