僕はまだ、僕でいられるか

月野志麻

僕はまだ、僕でいられるか

 小学六年生の春。授業参観があった日。

 朝、「今日の五限目、行くからね」と言っていたのに、母さんは学校に来なかった。家に帰ってから、「なんで来なかったの?」と訊けば、「なにが?」と返された。本当に、何も、ピンと来ていないような顔をしていた。


 この日から少しずつ、母さんはおかしくなっていった。

 今思えばこの日からだった、の話。

 まだ「なに言ってんの、今日授業参観だったんだよ」って言えて、母さんも「うそ! やだ、本当じゃない、ごめんね」と謝ることができていた日。


 母さんがおかしくなった、と決定づける事件が起きたのは、俺が中学一年生のときだった。

 あの授業参観以外で、俺の見える範囲で、母さんのおかしなところはなかった。それ以外は何事もなく、普通の日々を過ごしていたはずだった。


 母さんが、働いているスーパーのお金を盗んだのだ。


 学校から帰ると、「なぜこんなことしたんだ」と、母さんを連れ帰った父さんが、リビングで母さんを問い詰めていた。「分からない」と言う母さんを、父さんはさらに怒ったけれど、母さんは本当に何も分かっていないようだった。怒られていることに対して、ただ悲しそうに眉を下げていた。


「手にお金を持っていたの。持っているってことは私のだろうって思って、ポケットに入れちゃった」


 夕飯の支度をしながら、母さんは俺に、困ったようにそう言った。


「ダメね、気を付けないと」


 そう言って、溜息を吐いた。


 母さんがポケットに入れたお金は、本当はお客さんが代金として支払ったものだったのだ。その日は、疲れているのだろうって、店長さんが母さんを早く上がらせて、でも様子がおかしいからと父さんに連絡したらしかった。その日は、それだけで、母さんがクビになるだとか、そういう大きな事にはならなかったのだけれど、そのあとに……一ヶ月もしない内にまた何回もそういうことがあって、とうとう母さんはクビになった。


 クビになったのに、次の日も職場に行く準備を母さんがしているから、これはおかしいと言って、父さんは母さんを病院に連れて行った。夏休みに入る前のことだった。ゆるやかに、母さんは色んなことを忘れていった。そういう病気なのだと、病院から母さんを連れて帰って来た父さんが教えてくれた。


 ソファーに座り、頭を抱える父さんの姿を、今でも鮮明に覚えている。

 母さんは、何事もなかったかのように、キッチンで、夕飯の味噌汁を作っていた。俺の知らない曲を口ずさみながら。

 その日の夜、寝る前にスマートフォンで、聞き取れた歌詞を検索した。

 随分と古い曲だった。俺が生まれる前。母さんと父さんが、学生のころに流行った曲のようだった。


 俺は中学二年生になった。

 母さんは、『母さん』であることを、忘れてしまった。


「トモくん、貸してくれたマンガ、ありがとう」

「うん。おもしろかった?」

「ええ、すごく」


 母さんは俺に、カバンの中に入れていたコミック本を渡すと、思い出したように「お菓子とジュース持ってくるね!」と、部屋を飛び出していった。


 鼻歌とともに、足音が遠ざかっていく。あの日、味噌汁を作りながら、母さんが口ずさんでいた歌だ。あの日から、母さんはその歌を口ずさむことが増えていた。


 母さんがいない間に、後ろにある本棚にコミック本を戻した。同じタイトルの、三巻と五巻の間に四巻を差し込む。その一つ上の段には小学校を卒業するときに貰った色紙があった。色紙の真ん中、『佐伯新』と名前が書かれている。触ってみると、少しだけ埃っぽかった。震える指で、名前をなぞる。けれど、最後までなぞることはできなかった。


 中学一年の終わりから、俺は『トモくん』になった。『トモくん』は父さんの名前で、母さんは、十四歳になって、俺は母さんの中からいなくなった。


 『トモくん』としか呼ばれない自分には、この色紙も、ここに書かれた名前も、もう必要ないもののように思えた。


 玄関扉が開く音が耳に届く。ハッとして時計を見れば、十八時になるところだった。

 部屋を出て、階段を降りている途中で、母さんの「お父さん」と言う声が聞こえた。


「お父さん、おかえりなさい」


 ハツラツとした、跳ねるような声。玄関先には、父さんがいて、リビングから顔を出した母さんは、木製のトレーにクッキーとお茶が入ったグラスを載せている。


「ただいま」


 靴を脱いで、部屋に上がった父さんは、母さんの頭を撫でる。それから俺に気付いてこちらを見るから、俺は頭を下げる。母さんが、俺と父さんを交互に見て、「今、トモくんが来てて、勉強教えてもらってたの」と照れ臭そうに笑った。


「……君はもう、帰りなさい」


 父さんの声は冷たい。いつまでここにいるつもりなのかと、言われているような威圧感がある。

 胃が、ぐるぐると痛む。誰も母さんに指摘することはない。間違っていると言わない。


――「この子は、新だよ」

――「典子、君の息子だ」


 父さんがそう言ってくれる。その期待をしなくなったのは、いつからだっただろう。


「はい。お邪魔しました」

「今、お菓子出したばっかりなのに!」

「今日はもう遅いから。さぁ、典子、夕飯にしよう」

「……典ちゃん、また明日」


 えー、と不満そうな声が上がる。父さんの横を通り過ぎて、靴を履いた。帰りなさい、と言う父さんの声が、頭の中で何度も何度も響くのはいつものことだ。


「また、連絡する」


 父さんが呟いた。俺に言ったのだ。頷くこともしなかった。ただ唇を噛んだ。何も返さずに、玄関扉のドアノブに手を掛けた。

 昼間に雨が降ったからか、外は西日がキツく、いつも以上に濃いオレンジに染められていた。これがすっかりと黒に塗り替えられるころに、父さんからスマートフォンに「戻ってきていい」と連絡が入る。いつも母さんが、眠ったあとのことだ。


 母さんはずっと父さんを「お父さん」と呼んでいたけれど、今じゃ全く意味が違う。『息子のお父さん』ではなく、『私のお父さん』なのだ。母さんは、自分の父親だと、父さんのことを思っている。父さんは細身だけれど、母さんの父親……つまり、俺のじいちゃんはちょっとふっくらとしていて、全然似ていない。けれど、母さんの目には、俺が『トモくん』に見えるのと同じように、父さんが『お父さん』に見えるのだ。


 中学生のころから、お父さんと付き合っているのよ。と、聞いたのは、何年生のときだっただろうか。母さんは、俺の母さんの姿のまま、その頃に戻ってしまった。


 人は死んだら一番楽しかったころの姿で天国で過ごすらしい。俺には母さんがそうなってしまったように見えた。それくらい、十四歳の母は、いつも目を輝かせて、ときにうっとりとした目で、トモくんを見るのだ。


 そして、母さんの父親になってしまった父さんは、隠しているつもりなのかもしれないけれど、俺を見る目は、段々と鋭いものになっていった。

 胃の中から熱いものがこみ上げてきて、背中が曲がって肩が竦む。慌てて両手で口を押えて、一度戻ってきた胃の中身を無理やり飲み込んだ。


 俺の家族は、何になってしまったのだろう。


 父さんは、働かなくちゃいけないから日中は家にいない。

 父さんが帰ってくる夕方まで、母さんが勝手にどこかに行かないように俺が『トモくん』として傍にいる。

 施設に預けることや周りに頼ることは、父さんが世間体を気にして拒否し続けている。

 もう、何ヶ月も学校に行けていない。家族より大切なものがあるか、と父さんに言われて、これが家族なのか何なのかも分からないのに、何も言い返せなかった。


 こんな風になってしまったのに、母さんのことも父さんのことも嫌いになれなかった。

 下校中の俺を見つけて、大きく手を振りながら「新」と俺を呼ぶ母さんの声や、運動会で「新、がんばれよ」と俺の背中を叩いてくれた父さんの声を、今でも忘れられないから。


 重い足で、玄関から真っ直ぐ伸びた先にある黒の門を開ける。少し錆びていて、ギッと嫌な音を鳴らした。家のほうを振り向けば、窓から中が見えないように、そして中から外が見えることがないように、カーテンが閉められている。


「新くん?」


 高すぎない、聞き心地の良い声が聴こえてくる。「やっぱり、新くんだ」と言われるまで、一瞬それが自分のことを言われていると分からなかった。


 セーラー服の白い袖が、夕日を浴びてオレンジ色に染まっている。小学生のときは二つ結びだった千佳の髪形は、いつから一つ結びになっていただろう。


 千佳とは、同じ幼稚園に通って、小学校も六年間同じクラスだった。家が近いこともあって、話をしたり遊んだりすることも多かったのに、知らないことが増えた。


「元気?」

「うん。元気だよ」

「そっか」と千佳は続ける。


俺の家からもう少し先、三軒隣に千佳の家はあるけれど、彼女はそこから動こうとしなかった。


「ねぇ。明日は、学校おいでよ」


 詰まるような言い方だった。語尾が少しだけ震えていた気がした。とても慎重に吐かれた言葉だった。


 明日。

 明日。

 明日は学校がある日なのか。


 ずぅっと日曜日を繰り返しているような家で、カレンダーは無意味だった。


「うん。明日は、行こうかな」


 明日が来るなら。明日が、来てもいいなら。

 声は小さく、掠れてしまった。そんな日が来ないことを、俺自身が一番よく知っているから。希望を持って言葉にすることが、ひどく喉を狭めた。


「新くん」と、もう一度、千佳が俺の名前を呼んだ。


 千佳は何も知らないはずなのに、あなたはトモくんじゃないと言ってくれているようだった。

 千佳が、そこから動かないでいてくれて良かった。逆光になっているから、きっと千佳からは俺の顔はハッキリ見えていないだろう。


 輪郭なんてハッキリしなくて良い。

 苦しくて、息がうまくできないのをどうやって誤魔化したら良いのだろう。

 頬を伝う涙を手で払うように拭う。


 この家で生きる俺を、俺自身が否定しているようで苦しかった。

 それでも明日が来ることを願ってしまう自分がいて、余計に胸が痛くなるのを、爪が食い込むまで拳を握って隠している。

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