シオリ 2

 シオリは扉をやけに静かに開けた。その所作にはどこか、決して僕の気が立たないようにという意思が込められている気さえした。僕と会う緊張を無表情の奥に隠しながら、きびきびとした足取りで傍まで寄ってくる。


「お兄ちゃん」


「今日ももうそんな時間か」


僕は遠回しに待っていたという心持ちをシオリに向ける。しかしそんな言葉の裏を察したのか察していないのか、シオリは唇を引き結んだまま、つい1、2時間前までユリが座っていた椅子に腰掛けた。


 扉を引いて僕を発見した時を最初に、シオリは目を合わせてくれない。身を縮こめ、握りしめた拳を膝の上に置き、はたして彼女が顔を上げることはない。


 僕はこの時間が嫌いじゃない。彼女が僕に対してただならぬ罪悪を抱えているのは明白で、そんな彼女には悪いけど、毎日の夜を知らせに来る妹との時間が嫌いじゃなかった。形式的で面倒な会話はない。言葉や態度で気を遣われて、それに対して気を遣い返す必要もない。


 何かに怯える彼女が傍にいてくれるだけで、無意味に堂々巡りする思考も、耳の奥でとこからともなく反響する誰かの言葉も、彼女に意識を向けると一瞬にして晴れていく。ぐわんぐわん揺れる脳みそが清々しいほど澄んでいく。


 彼女がいる時は誰も扉を叩かないから、それを警戒して肌の感覚が鋭敏になることもない。一日のほとんどを人の目に晒されて過ごす僕にとって貴重な、静謐なひとときだった。


 時折シオリのスマホがピコンと鳴って、その細く血の気に満ちた指でサッサッと何かを入力すると再びカバンに仕舞う。2回目の通知が鳴ったところで、僕は視線を窓の外へとずらした。


「お兄ちゃん」


 ふと、シオリが僕を呼んだ。今まで彼女から話を始めようとしたことがなかっただけに、内心で驚きを隠せなかった。僕は緩慢に彼女の方を向く。すると、なるべく僕の方を見ないようにとしていた彼女が、覚悟を決めたように僕の目を捉えていた。でもその表情は今にも泣き出しそうだった。


「僕は君のお兄ちゃんじゃない」


「え」


「見た目は君のお兄ちゃんかもしれないけど、僕にはその記憶がない。だから僕はマサオミでもなければ君の兄でもないよ」


シオリは鳩が豆鉄砲を食らったように目をパチパチさせている。そこにさっきまでの深刻な面持ちはない。まだおさなげの残る可愛らしい少女が一人いるだけだった。


「でも‥‥‥」


数秒かけて僕の言葉を咀嚼したあと、彼女は再び陰る。


「みんなさ、そのうち記憶が戻るとか、ちょっとずつ思い出していけばいいとか、気遣ったこと言ってくれるけど、実感がない。実感がないのに思い出しようもない。実感がないのに気遣われても、こっちも気を遣って、ただただ煩わしい。これから、君にも気を遣わなきゃいけなくなる?」


混乱して押し黙る彼女は俯いたまま考え込んでいる。


「いらないよ。懺悔も、そうやって泣きそうな顔するのも」


「じゃあ、どうすれば‥‥‥」


「知ってるよ、全部。先生から聞いた。何があったのか」


彼女が顔を上げる。本当は知らない。先生に聞いたのは、頭を強打したということ。彼女が何をしたのかまで医者の知る由は無い。


「あと、こうも言ってた。記憶が戻らない可能性もあるって。で、僕自身も取り戻しようがないと思ってる。つまり――」


「もう会えない‥‥‥」


 年端もいかない女の子に突きつけるには残酷すぎる現実。それは彼女にとって、兄の事実上の死であり、突然すぎる別れ。しかもそのきっかけを作ったのが自分自身となると‥‥‥。ただ、彼女はそれをたった今理解したという様子ではなかった。下手に狼狽えるでも、顔を真っ青にするでもなかった。


 きっと彼女は自分でその事実に思い至ったのだと、そう直感した。こうやって毎日会いに来る理由わけが分かったような気がした。


「やだ‥‥‥やだ‥‥‥」


 俯いたシオリは膝の上で拳を強く握りしめ、嗚咽とともにほろほろと涙を流し始めた。僕が目の前にいるからか声を堪えようとしていて、それでも押し殺せず呻くような声を漏らす。


 シオリの嗚咽と漏れ出る泣き声が、街明かりに照らされる病室を支配する。


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記憶喪失になったから自分の人間関係を辿ってみる @hihihi012345

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