第三場
椿の花を大きく描いた、冬景色の暖簾。その向こうにある扉を叩いた。
「はーい」
「ごめん、待ってもらって。」
「ううん。
全然大丈夫だったじゃん。」
「ん?」
「いつにも増してガッチガチだったけど、全然、良かったよ。」
「そうか。よかった。」
言葉、言葉……言葉が出てこない。
「なんか、今日……違ったよね。」
椿が繋げてくれる。
「ああ」
「今までで一番、かっこいいジキルだったと思う。やるじゃん。」
「……ありがと。
話、なんだけどさ。」
「うん。」
「あのー、えっと、お前、初日変だったろ。」
「ちょっと、入り込みすぎた。バレてたかぁ」
「わかるわ、ゲネまでとずいぶん違ってたろ。
それで、最後のところ、『苦しかったよね』って言ったよな。あれ、どういう意味だろうと思って。」
「別に、大したことじゃないよ。」
「……椿はさ、どこからがお前なの。」
「……どういうこと?」
「俺は、もう長い付き合いだし、結構よく知ってるつもりだったよ。
でも違ったんだよな。
全然自分を見せてくれてない。」
「見せてないって……仕方ないでしょ、そういう仕事なんだから。私が見えちゃったら役が成立しないじゃない。」
「それは、確かにそうだけど……」
「ていうか、私だってあんたのことそんなによく知らないからね?」
「確かに、確かに、
俺ら、お互いに、よく知らない。でも芝居なら、自分を使うこともあるだろ?
なのに、
なんつーか、その見えてる部分があまりにも少ないというか……」
「カラクリを知りたいってこと?」
「いや、そうじゃなくて。」
「嘘だあ、だって急に言い出すってそういうことでしょ?」
「ごめん」
「何が。」
椿が笑う。
「別に見せたくないわけじゃないし。タイミングわかんないだけ。」
「あの『苦しかったよね』って、お前の台詞だよな?」
「そりゃそうだけど、まあ、うん。そういうこと。エマじゃなくなっちゃった。」
「やっぱり。昔もあったよな、何かあるのは分かるけど、それが何なのかは教えてくれないこと。」
「何それ。」
「人間、死の淵を見れば強くなるって。
え、覚えてない?」
「そんなこと言ったっけ」
「言ったわ! あれ怖かったって! 何隠してんだと思って。」
「あー、なんか言ったかも。」
「俺は何も知らねえの! わっかんねえの! で、それで……」
「聞きたいんだ。」
「んん、まあ……そういうこと。」
「わざわざ『知りたい』って思ってくれる人、いないんだよね。私も、どうせ聞きたくないだろうなーって思って、結局誰も知らないの。知りたいって思ってくれる人初めて。
私ね、自分の話するの無理なんだ。空気読んで、その場に溶け込んで、嫌われないようにしてさ。ちっちゃいうちに、そういうの、染み付いちゃったんだよ。それがいつまで経っても抜けない。
でも知られたくないわけじゃない。むしろ知られたい。でも喉に引っかかって出てこない。」
「そうか。」
「自分のことはまるで他人事なんだよ。でも他人の人生はまるで自分のことみたいに生きてさ。そうしたらいつか、誰かが、私をどこかで見出して、気づいて、それから、わかってくれるんじゃないかって。」
「俺でもいいかな」
「うん……」
少し声が詰まる。
「ありがとう」
「初日、演りながら気づいたんだよ。
ああ、この人は、エマでもあって椿でもあるんだって。
エマじゃなくなっちゃってたって言ったろ?」
「うん」
「良いと思う、それで。」
「?」
「お客さんの反応って、毎回違うじゃん。肌感覚で分かると思うんだけど。空気が違う感じ。」
「あー、ね。なんとなくわかる。」
「椿が演るエマは、ジキルが背負うものと同じくらい、何か、重いものを背負ってる。それで、強くて、優しくて、ジキルがどうなっても全部受け止めてくれる。それくらい器が大きいんだよ。
だから、
椿が言った『苦しかったよね』って、二人で一緒に乗り越えようとしてきたみたいな、しかもめちゃくちゃ説得力あって、重かった。お前だから出た台詞だったと思う。
それで、終わって、お客さん、一瞬魂抜けてたじゃん。」
「見てなかった」
「入り込んでたもんな。
あれは、相当だった。
スタオベって、終わった瞬間ブワァッと一気に立ち上がるやつと、『うわっ……』ってなって、ちょっと立ち上がるまでに時間がかかるやつあるじゃん。椿も、観てる方も分かると思うけど。
「うん。」
「立ち上がれないくらいやばいじゃん。」
「うん。わかるよ。」
「だから、椿の重みが、お客さんに響いたんだよ。」
「そっか。
そうなのかな。」
「ああ。
おれ、この人をもっと知りたいって、わかりたいって、思った。」
椿は、ふふっと笑った。
「ありがとね。そんなふうに思ってくれて。
あー、やばい」
「えっ」
「大丈夫、泣かない。」
「あの……」
「はい」
「好きです」
「はい。
薄々、そういう話だよなって、思ってました。
改めて言われるとなんか……どきっとするね。」
「緊張した」
笑う。彼女も笑う。
「大楽だからじゃなくて、ね。
でも、今日……かっこよかったよ。」
「うん?」
「私もです。」
「酒の飲み方なんて、社会に出れば嫌でも覚えるでしょ。若気の至りってことでええやん、大人の痛みやなくてさ。ほら、開けるよ!」
「振るな! 炭酸!」
「私に楽しい行事で行儀を求めるのはミスだね。」
行事とは、打ち上げのこと。
「いいから、とにかく俺が聞きたいのはな、」
「わかってる。まず、中学の時の後輩に諏訪瑞希って子がいて、よく図書室で話してたんよ。その子をね、千晴と逢った時に、たまたま見かけたの。で、成り行きで、その場で葵春歌って付けた。そのあとは、知っての通りね。」
「ちゃんと教えてくれ。俺の頭ん中ごっちゃごちゃ。」
「だから、中学でね、瑞希ちゃんと一緒に図書室のカウンター当番しとったんよ。卒業したら縁切れちゃってたんやけど、私が管弦楽団のオーディションに行った日、たまたま同じ電車を降りたみたいで、久しぶりに逢えた。私は気づいてなかったんやけど、声かけてくれてね、あの時の先輩のおかげで今がんばってますって言ってくれたんよ。そしたら今度は葵春歌さんがナントカカントカってニュースになっててさ、瑞希ちゃんだって、そりゃあ分かるやんな。」
「でも、だからってどうして突然参加できたんだよ。」
「瑞希ちゃんが私を指名してくれたらしい。」
「原作者がいきなり指名なんてできるか?」
「不思議やよね。」
「そこはわかんねえのか。
でも、いい先輩だったんだな。実力もあるし、かっこいいところもあるし。」
「そんなに褒めちぎられると気持ち悪いな。」
「俺は本気で、み、深冬を、素敵だと思ってる。」
終わったのはジキルとハイドの、あ!
「ジキルとハイドか!」
「へ?」
「ジキルが瑞希さん、ハイドが葵さん。その根っこにお前がいて、"君"を演った。」
「そう言うとしたら、私の中にもハイドはいる。」
「深冬の中のハイド?」
「そう。でも悪意じゃなくて、愛実。『愛の実』で、愛実。」
群青頌歌 紫田 夏来 @Natsuki_Shida
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