第9話 餞別の膳

 朝から暖かな空気につつまれた三月最後の日曜日——。

「まる福」の前には、引越会社の大きなトラックが停まり、作業員が次々と降りて店の中へと入っていった。

 廊下では弘哉と信子が立ち、作業員を二階へと案内した。


「おはようございます。荷物は部屋にたくさん積んであるんで、全部持って行ってください」


 弘哉がそう言うと、作業員は続々と階段を昇り、流れ作業で次々と箱を二階から降ろしていった。作業員達の手慣れた作業により、あれほど積まれていた箱はほんの数十分であっという間になくなった。

 しかし、部屋にはもう一つ、とんでもなく大きな荷物があった。


「すみません、これだけは皆さんも一緒に手伝って頂けませんか?」


 作業員達は、部屋から大きなベッドを引きずり出すと、「これはもう少し人数が要るかもな」と言い合いながらベッドの端々を抱えていた。


「うーん……私と弘哉が入っても厳しいかもね。父さんも呼んでくるから、ちょっと待っててくれる?」

「父さんも?」

「そうだよ。一人息子が遠くへ行ってしまうというのに、朝からずーっと厨房に引きこもってるの。何考えてるんだか知らないけど、親としてここは手伝わなくちゃね」


 信子は厨房の前に立つと、腹に力を込め、大声で叫んだ。


「おーい、父さん! 弘哉のベッドを二階から下げる作業を手伝ってくれるー? 私たちだけじゃ運べないからさー!」


 しかし、満は一向に厨房から出てくる気配が無かった。


「もう、いい加減にしてよ! 一人息子のために、何とかしてあげようと思わないわけー!?」


 信子は徐々にヒートアップしていった。すると厨房の戸が開き、満がようやく姿を見せた。


「うるせえんだよ! 今朝上がった魚を捌いているんだ! 気が散るから黙ってろ!」


 満は野太い声で捲し立てると、激しい音を立ててドアを閉めた。


「まったく……こういう時にも自分のことばかりなんだから。すみません、居る人達で運ぶしかないわね、これは」


 信子は肩を落としながら、弘哉とともにベッドの脚の部分を持ち上げた。作業員達とともに、足を踏み外さないよう慎重に一段一段確かめながら階段を下り、ようやくベッドを一階に降ろすことができた。

 ベッドをトラックに積み終えると、弘哉はようやく肩の力が抜けた。

 二階の部屋の中は、もはや何も残っていなかった。長年机やベッドが置かれて青くなった畳の上には、窓からのまばゆい光が差し込んでいた。


「ありがとう」


 弘哉は部屋を見渡しながらそう呟くと、貴重品や本が入ったリュックを背負ってドアノブを閉めようとした。その瞬間、この部屋で過ごした日々が、フラッシュバックのように脳内を駆け巡った。

 しかし、そのほとんどが満に怒鳴られて泣き崩れたこととか、激しく落ち込んで白衣を投げつけたりとか、正直二度と思い出したくないようなことばかりだった。弘哉はドアノブを閉め、階段を一段ずつ下りていった。

 一階に出ると、さっきまで固く閉ざされていたはずの厨房のドアがいつの間にか開放されていた。弘哉はドアの中を覗くと、満が一人で黙々と料理を作り続けていた。まだ開店までには時間があるのに、一体誰のために……? でも、集中している時に邪魔したらまた怒鳴られそうなので、弘哉は満の背中に向かってそっと声を掛けた。


「父さん、行ってくるね」


 案の定、満は気づいていない様子だった。

 弘哉は苦笑いしつつも、それ以上声を掛けることはせず、厨房から出て玄関で靴に履き替えようとした。


「おい弘哉」


 野太い声が、突然真後ろから聞こえてきた。


「お前に見せたいものがあるんだ、すぐにこっちに来い」


 弘哉は慌てて靴ひもを結ぶ手を止め、廊下に上がり、厨房へと戻っていった。

 中に入ると、満は相変わらず一人で調理を続けていた。調理台の上には、一枚のお膳に数々の料理が並べられていた。


「父さん、これって……」

「俺からの餞別だ。さっさと食べていけ!」

「でも、こんなに?」

「何だ、俺からの気持ちのこもった餞別がいらないっていうのか、おい?」

「ち、違うけどさ」


 お膳の上には、ご飯とつみれ汁、さらに赤魚の煮つけとカンパチの刺身が並べられていた。本来ならば、客に提供しても良い位の質と量であった。


「いただき……ます」


 弘哉は手を合わせると、箸で少しずつ白米をすくい、口に運んだ。


「あれ?」


 幼い頃から食べ慣れた味のはずなのに、何か特別なものに感じた。食べれば食べる程、名残惜しくていつまでも食べていたいと思えた。

 赤魚の煮つけも、賄いで何度も食べた味のはずなのに、いつもと違う味のように感じた。そしてカンパチの刺身……身は脂が乗っていて、光に当たると綺麗な光沢を見せていた。おそらく獲れたてのものなのだろう。


「父さん、さっき今朝上がった魚を捌いてるって言ってたよね? それって、もしかしたら……」

「うるさい! あっちに行ったら、獲れたてを食べることなんかできねえだろうと思って、用意しただけだ」


 満は唸るような口調で言うと、弘哉に背を向け、黙々と後片付けをしていた。

 弘哉は目の前に置かれた料理の数々を、一口ずつ噛み締めながら食べ続けた。部屋を出る時は泣きじゃくった記憶しか浮かばなかったけれど、満の出してくれた料理を食べ続けるうちに、厨房で満の傍らで店の仕事を手伝っていた日々が徐々に脳裏によみがえり始めた。

 思い返すと、小学校に入学した翌日には「遊んでる暇があれば手伝え!」と怒鳴られた。最初は厨房の掃除や信子の運搬の手伝いから始まり、中学生になると包丁を持たされ、野菜の下ごしらえやおかずの盛り付ける役も任された。そして高校に入ると、炒め物や汁物、そして魚を捌くことまでやらされるようになった。もちろん、そのすべてを順調にこなせたわけではない。満が見て何かしら気に入らない所があると、容赦なく怒号が飛んできた。

 ここで過ごした日々があったから、今の自分がいる。

 毎日辛くて仕方が無かったし、料理は今も好きになれない。自分が満の跡を継ぐかどうかも、まだはっきりと分からない。

 だけど、自分の成長は、この場所で積み重ねた経験と見事に重なりあっていた。

 お膳を平らげながら、弘哉はやっとそのことに気づいた。


「ごちそうさま」


 弘哉はお膳の上に載ったものを全て綺麗に平らげると、皿洗いをしていた満の元に近づき、「いままでありがとう」と言って頭を下げた。


「くれぐれも征之介さんに迷惑をかけることだけはするな。俺から言いたいことはそれだけだ」


 満は抑揚のない口調でそう言うと、皿洗いの手を止め、弘哉に顔を向けることなく勝手口の方へと歩き出した。


「行ってきます!」


 弘哉は勝手口に向かう満の背中に向かい、大声で叫んだ。満は何も言わず、弘哉の方を振り向くことも無く、そのまま庭へと出て行ってしまった。

 やがて窓越しに見える庭から白い煙がもくもくと上がり、風にたなびいて青空へと上がっていった。弘哉はそれを見て、満を追いかけるのを止めた。


「いい加減、煙草に逃げる癖は止めたらいいのに……」


 弘哉は満に聞こえないようにそっと呟くと、リュックを背負い、玄関へと向かった。

 入り口では信子が車を横付けしており、いつでも出発できる状態にあった。

 弘哉は助手席に乗ると、信子は頬杖を付きながら弘哉を横目で見つめていた。


「もう出発でいいの? お父さんにちゃんと『行ってきます』って言えた?」

「うん、言ったよ。電車の時間も迫っているし、そろそろ行こうよ」


 信子は車のエンジンを入れ、弘哉の視界からは徐々に「まる福」が遠ざかっていった。

 辛いことばかりで、早くここから遠くへ逃げたいと思っていたけれど、いざ別れの時になると、名残惜しくて仕方がなかった。

 やがて車は繁華街を抜け、目の前には多くの人たちが行き交う駅が姿を現した。

 信子は駅の真ん前にあるロータリーで弘哉を降ろすと、リュックとともにこれから世話になる征之介への手土産を渡した。


「じゃあね。しばらくは家が恋しくて寂しいと思うだろうけど、辛くなったら電話をちょうだい」

「ありがとう。母さんもがんばれよ」


 信子はハンドルを握る手を離し、ハンカチを取り出して何度も目元を拭った。


「母さん、急にどうしたの?」

「だって……料亭の見習いだなんて、本当に大丈夫かなって。料理が嫌いで、跡も継ぎたくなくて、進学しようなんて言ってた頃もあったからさ」


 弘哉は信子の問いに対し、何も言い返せなかった。

 けれど、これは自分で選んだ道である。仕事が続くかどうか今も不安でいっぱいだけど、後ろを振り返るつもりもなかった。


「どこまでやれるかは、分からないよ……とりあえず、頑張ってくるとしか言えないけどさ」


 すると後方の車からクラクションが鳴り響いた。振り向くと、ロータリーに入れず路上で待っている車が何台もあった。


「ごめん……これ以上ここにいるのは迷惑になるから、帰るね。とにかく、些細なことにうつむいたりせず、元気でやってくるんだよ。何かあったら戻っておいで。私たちはずっとここで待ってるからね!」


 信子は涙声でそう言うと、車は徐々に弘哉の前から離れていった。

 弘哉はリュックと手土産を持ち、しばらくの間信子の車を目で追っていた。

 駅からは、電車の出発の時間を告げるアナウンスが聞こえてきた。

 車が視界から消えたと同時に、弘哉は駅舎の方へと向きを変え、ホームへと続く階段を一歩、また一歩と踏みしめていった。


※第1章 僕の進むべき道は 了

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