三
月日が流れ、街には
その日は休日だった。だが、部屋でぐうたらするのも良くないから、黄吉は映画を観に行くことに決めた。場所は、芝居小屋の向かいにある例の劇場である。彼は特段映画好きという訳ではない。また、物語の部類にこだわる質でもない。したがって、劇場に足を踏み入れてからは、まもなく上映が始まろうとしていたものの中から適当に一つ選んで、入場料を支払った。
それは、男女の恋愛を主題とした西洋映画であった。将来を約束したはずの青年と娘が、様々な困難や障壁によって妨げられ、最後には結ばれることなく終わってしまう、という悲恋の物語であった。しかし、互いに心を通じ合わせようとする二人の愛や人間性が、当時の習俗や時代背景と共に、見事に描かれており、黄吉は大いに感激した。だが、これは後の話であって、それだけのことであるならば、わざわざここに書き記しておく必要もないのだ。
室内に入ると、既に多くの人が席に着いていて、雑談や世間話を語らい、上映までの時間を過ごしている様子であった。新築というだけあって、複数の巨大な照明器具が照らす、ニスで塗装された木造の壁に囲まれた空間は、和が融合した西洋の世界を体現していた。そうして、文明開化という時代の変化を感じながら、彼も、指定された座席に座ろうとした。
だが、その瞬間、彼は、不意に数十秒もの間、硬直してしまった。
空席を一つ飛ばして、彼の座席の左隣に、あの女――横顔だけで充分に分かった――が座っていたのである。その時の彼の衝撃と当惑と動悸は、尋常ならざるものであった。状況を呑み込めずにいるまま、彼は、何とか平静を保とうと努めて、席に着くところまでは出来た。しかし、彼女が横に居るという事実に、やはり気が気でなく、彼は体を縮こめ、手汗をだらだらと流していた。
上映が開始され、観客は暗闇の中に投下された。
上映中、彼は、変質者のような目つきで、女の様子をこっそりと観察していた。当の彼女は、銅像のように一寸も動かず、画面を眺めていた。それは恐らく、作品に没入しているからだろうと思われた。だが、一方で、どこか作品を懐かしんでいるようにも見えた。これらと同時に、彼女が美しいということに変わりはなかったが、時間が経つにつれ、長い間女を見つめるのにも疲れてきて、黄吉は銀幕に視線を移した。
映画が終わりへと差しかかった頃、黄吉は、再び女の様子が気になって、彼女の横顔を覗いてみた。
しかし、その時、彼は先程とはまた違う衝撃を受けた。
透明な粒が、女の頬を伝いながら流れていくのを、彼は目にしたのである。粒は彼女の頬を離れて落下し、人々の履物や洋靴で汚れた床面を、憐れむようにほんの僅かに濡らした。そして、映写機の光が、女の顔に綺麗に差し込んで、彼女の目尻から溢れる〝それら〟を鮮やかに照らした。周りに存在する音も人も情景も、遥か彼方に忘却されて、そこには一人の娘と気弱な少年だけが取り残されていた。
上映後も、女は、顔を伏せながら、雫を静かに流していた。他の観客たちは、感想などを言い合って騒ぎながら帰っていった。彼らの視界には彼女がはっきりと映り込んでいるにも関わらず、黄吉以外の誰も、彼女の涙に気付いていなかった。かくいう黄吉も、茫然とその様子を見ていることしか出来なかった。それゆえ、女がようやく顔を上げた時、黄吉は必然的に彼女と目が合った。
「あ、す、すみません……!」
狼狽した黄吉は、言うべきことが思い浮かばず、咄嗟に顔を背けて、謝り出した。女も、見られていたということを知って、赤面し、顔を下へと向けた。客のほとんどが去っていった室内には、妙にぎこちない雰囲気が流れ始めた。様々な言い分が、今になって黄吉の脳裏をよぎった。だが、それらは全て言い訳にしか変換されず、公共の場で赤の他人をじろじろと見つめる、などという倒錯的な行為を肯定し得るものは何一つなかった。結果として、正直に話すということしか、彼には手段がなかった。
「……ぼ、僕は、向かいの芝居小屋で店番をしている者でして、この劇場の前にあなたがいらっしゃるのをよく見かけていて、あなたの毎晩の行動がとても気になっていたんです。そ、それで、今日は仕事が休みで、ここに映画を見に来たんです。そしたら、偶然隣の席にあなたがいらして、とても驚いたんですが、上映中に、な、泣いている様子だったので、更に驚いてしまったんです……」
そうやって、彼は、早口かつ端的に事情を語った。しかし、流石に、自分の抱える恋心を本人に打ち明けるほどの勇気は、彼にはなかった。
しばしの沈黙を破って、
「そ、そうだったんですね……」
と、女は口を開いた。想像通り、澄んだ可愛らしい声色であった。
だが、しばらくすると、今度は遠慮がちに、
「あ、あの、何処かに場所を移していただけませんか……? 他の誰かに気付かれていたなんて、思ってもみなかったんですが、逆に、今、あなたにこのことをお話してみたくなりました。そうしたら、少しは気持ちが落ち着くのかなと思いまして……。もしこの後時間がおありで、構いませんのでしたら、毎晩の私のことについても、さっき泣いていたことについても、お話いたします。ど、どうされますか……?」
と、黄吉に提案してきた。
これは、彼にとって、全く想定していなかった提案であった。しかし、彼は、胸が高鳴っているのを密かに抑えながら、何の迷いもなく、
「は、はい、お願いします……」
と返答した。
二人は劇場を出ると、大通りを抜けて、浅草寺のある方角へ歩き、浅草公園の中に入っていった。園内は仲見世などですこぶる賑わっており、奥に進めば、林泉地であるため、人工林が生い茂り、池も幾つか造られていた。やがて、彼らは、瓢簞池と呼ばれる大池まで辿り着いた。池のほとりからは、高さ二百二十尺もの凌雲閣を望むことが出来た。女は、そばにあった縁台を指差して、「あそこにしましょう」と言った。それに反対することもなく、彼は縁台の左側に腰を下ろし、余った右側に彼女が座った。
秋の肌寒さすら忘れられて、池の噴水の音だけが、二人の世界に響いていた。その音に耳を澄ませながら、世界の終末を語るような口調で、女は語り始めた。
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