第13話 弔いの代償に
リルザ様は、子供に戻られている間の記憶がない。
ということは当然、わたし……ユーラのことも知らない。
リルザ様の質問の意味を理解したとたん、合わせていた目を思いっきり反らしてしまった。我ながら不審すぎる。
でも、だって、なんて言うの。はじめましてこんにちは、わたしは意識のないあなたの元に無理やり嫁いだ、あなたの妻です……
い、言えないっ……!
この縁談にリルザ様のご意志はなかったと聞いている。リルザ様が子供に戻られているあいだに進められたのなら納得で、そもそも縁談のこと自体ご存じないかもしれない。言葉を探して、結果押し黙る。
「……じゃあ、とりあえず青国を目指しましょうか」
「え?」
「希望の場所を思いついたら言って下さい。そこまで送ります」
「ど、どうして青へ?」
驚いたわたしの質問に、リルザ様のほうが不思議そうな顔をする。
「あなたが青の方だと思ったからですが。その銀の髪は、青国人特有の色でしょう」
髪に手をやる。そうか、青を出たらこの髪は珍しいんだ。驚いた、一瞬、リルザ様はわたしのことをわかってるのかと思った。
「ああ、それとも緑でさらわれたのだったら、今は緑に住まいが?」
「……はい。緑へお願いします」
「わかりました。名前は言えますか」
また黙ってしまう。いろんなことが頭をめぐる。
リルザ様は早々に見切りをつけた。荷物を肩にかけ、歩き出す。
「あの」
あわてて、その背に声をかける。リルザ様が振り向いて下さる。
「ごめんなさい」
「どうして謝るんですか」
声はおだやか。わたしをなにも責めていない。
「その、なにも言えなくて」
「かまいませんよ。たいしたことではありませんから」
……う。
平原に伸びる広い街道を進む。晴れた空には気の早い入道雲。わたしが一番、好きな雲。ぼけーっと眺めながら、だけどわたしの心はどんよりである。
そうだよね、わたしが何者かなんて、ぜーんぜんたいした話じゃないよね。リルザ様は目の前にいるこのわたしに、なんの興味も持っていない。
正直言って、思いっきりスネた。
――聞くけど、ユーラ。まさかおまえ、嫁ぎさえすれば彼が恋に落ちてくれるとでも思ってるのかい?
ぐさり。兄様はわたしの周りで一番わたしに辛辣だった。他にも散々言われた。
――よくもまあ、嫁ぐだなんて発想ができるね。こんなふうに強引に進めた縁談で、彼はおまえになにを思うだろうね? その都合の悪いところを見ない器用さと、夢見がちでずうずうしい思い上がりには、いっそ頭が下がるよ――。
兄様の言葉は、きっと世間様の言葉だ。
――わかってる。嫌われたってしかたないと思ってるわ。それでも会いたいの。会いたいから、しかたないの。
過去の己の台詞が突き刺さる。うそでした。嫌われてもいいなんて、全然そんなことありませんでした。なんて潔くないの。
こっそり、ため息をつく。城を出てからこっち、ともかく自分にがっかりすることばかり。
前を歩くリルザ様の背中は、ふらふらと危うげだった子供の時と全然違う。頼もしさの分だけ、遠くなっちゃった気がする。
とぼとぼ歩いていたら、リルザ様が街道のはしへと足を寄せた。
一度こちら見てきたから、なにも考えないまま、ならってはしへ寄る。馬車の足音が迫ってくることに気がついた。すぐに大きく響きだす。
歩くわたし達の横を、馬車が勢いよく追い抜いていった。よく見えなかったけど、女の子が乗っていたようだ。
わたしはぼけっと、リルザ様の背中を見つめた。
リルザ様はすぐに気づいて、足を止めて振り返る。
「どうかしましたか?」
「いえ。すみません」
あわてて追いかける。
なんていうか、……リルザ様ってこういうふうに動かれるんだ、とか考えてた。
わたし、この人の動作には、ほとんど驚かされてない。わたしは家族以外の男の人が苦手で、ちょっとした動作にもびくりと驚くというか、怯えてしまうんだけど(そして別のことではいろいろと驚かされているけど)。
リルザ様の動きには、なにかするよって予告みたいな一呼吸がある。それは無意識のうちにわたしに心の準備をさせている。
緑の王子殿下だから? 緑って、特に女性を丁重に扱う国柄のはず。
リルザ様は、こんなふうに動かれるんだ。
目の前で、リルザ様が動いている。
不思議な気持ちになる。
わたしがリルザ様について知れるのは、戦に関する報告書だけだった。
十三の歳から戦場に出ていたリルザ様の武勲は多い。父様にせがんで、その写しをあるだけ見せてもらった。
淡々と並べられた事実の羅列はおもしろくもなんともなくて、でも彼のことを書いたものだから、意味がわからなくても、こりずしつこく読み返した。そんなわたしに、父様がある日ふと言う。
――彼は、商人のようだね。
どうしてわかるの? 尋ねると、父様が指で文書を示す。
――勝ち戦ばかりだ。勝てない戦には兵を出していない。ほら、この戦いでは緑国の村を見捨てて兵を引いている。報酬のない戦もしていない。名誉よりも、実益を重んじるようだ。
とてもじゃないけど、すてきなことに聞こえなかった。憧れがくもったような気がした。
でも、それで報告書から読み取ることを覚えた。リルザ様についてわかりたくて、改めて読み直す。味気なかった文書が意味を持ち始めた。
他の文書を読んで比べるようになって、また違うことがわかる。リルザ様は移動にかける日にちが少なくて、動き出したらとても速い。兵をぶつけたときはいつも圧勝で、その理由は明らか。自軍の兵数が大きく上回っていて、緑国領内が戦場のときにしか戦わないから。
確かに慎重な戦い方。自軍への被害を出すことがずいぶんとお嫌いのよう。
それでいて、重要な戦にはことごとく参戦されて、戦果を上げている。こういってはなんだけど、おいしいところを押さえている、って感じ。父様が商人のようと言ったのは、こういうことだったのかもしれない。
――ねえ、父様。ひょっとして、もしかして、リルザ様は臆病でちゃっかりした方なのかしら。勇気があって、お強い王子様ではないのかしら。
身勝手な幻滅に怯えて、父様に訴えた。父様はわたしの頭をなでながら、改めて文書を見て下さる。
父様はゆっくりと笑った。
――確かにそういう方かもしれない。でもそれは、悪いことかな。
重要な戦に参加できるのは、戦況を把握しているから。自軍を減らさないのは、戦はそもそも、そういうものだからだと、父様は説明する。
――彼の騎兵は生き延びることで経験を積み、高い殲滅力を持つ精鋭へと成長した。最近では援軍として待機することが多いようだが、自分の得手を知っていて、周りにそれを認めさせた結果だろう。私は彼を評価するよ。
くすみかけた憧れが、また輝いた。
こういう戦いをする人。どんなふうに話すんだろう。どんなふうに、笑うんだろう。
今わたしは、リルザ様と歩いてる。
リルザ様と会うって、わたしにとって、こういうことだったんだ。
胸元をつかむ。落ち着かなくて、とりあえず空を見る。
「何が見えるんですか?」
いつのまにか、リルザ様が足を止めてこちらを見ていた。
「さっきから空ばかり見ているでしょう」
喉を鳴らす。緊張してる。どうか声が上擦りませんように。
「雲を見ていました」
「雲?」
「わたし、雲が好きなんです」
「空ではなく?」
「は空も大好きです。でもやっぱり、雲が好きで」
小さい頃からそうだった。雲ひとつない、澄んで晴れた空を見ると、わたしはいつも少しだけがっかりした。
「なるほど」
リルザ様が空を見上げる。
「確かに雲がなければ、少し味気ないかもしれませんね」
手をひさしに、気持ちよさそうに笑った。
「あの、む、昔から」
「はい?」
「昔から、ずっとそう思っていたんです。雲を見てるだけで胸がぎゅってするんです。遠くの雲が雨を降らせているのを見たときは、本当に感動しました。こちらは晴れているのに、不思議でたまらなかった。風が雲を押し流して、降る雨がまるでつむぎ糸のようになっていて、父が『あれが雲のしっぽと言うんだよ』と教えてくれて」
綿のようにやわらかそうなのに、でもあれは冷たくて激しい自然の一部なんだ。初めて華姫と一緒に空の散歩をしたとき、雲に飛び込んでってお願いした。でも華姫は、ユーラが死んじゃうからだめだって叶えてくれなかった。
「ひつじ雲もわた雲もうろこ雲も、みんな好きです。冬の雪空の、重くたちこめた雲は気が滅入るけど、でもときどき雲の切れ間から光が降りてきて、それがまるで神様の奇跡みたいなんです。わたしがあんまり好きなものだから、あれが見えたときは家中のみんなが教えてくれるようになりました」
ててっと走ってリルザ様を追い抜き、空を指し示す。
「一番好きなのは入道雲です。今あそこに見える、大きくて堂々とした雲。やっぱり、あのもくもくした感じこそ雲って気がするんです。でもこわい雲なんですよね、雷雲ですし」
……雷雲?
花火を見たとき、リルザ様が本当にこわがってらしたのは雷だったよね?
「リルザ様!」
「はい?」
「ど、どうしましょう! 雷が来るかも……っ」
振り返ると、リルザ様はひとつまばたきをするだけ。
「……あの、雷……」
「雨に降られたくはありませんね。でも大丈夫ですよ、あの雲は海へ向かっていますが、私達の進む方向は逆です」
あれ。大丈夫、なのかな……?
「心配なら、少し急ぎましょうか」
「あ……はい」
雷、こわくないですか、とは聞けなかった。
歩き始めたリルザ様に、またついていく。
「……あの」
「はい」
「なんだか、ひとりで話してしまって、すみません」
「いえ。あなたが雲をお好きということはよく伝わりました」
すっかり舞い上がりました。頬が熱い。
「あの、あとその」
「はい」
「助けて頂いたのに、なにもお話できず、すみません」
気になっていたから、もう一度謝りたかった。言い出せたのは、リルザ様がなんとなくのんびりしてらっしゃるように見えたからだ。
「いいですよ。事情があるってことぐらいは察せますから」
「……怒ってらっしゃいませんか?」
「怒るようなことじゃないでしょう。それより、そうだ」
リルザ様が足を止めて、わたしのほうへ近づく。小さな袋を渡された。手触りで、お金だってわかった。
「安全なところまで送るつもりですが、私はいつ役に立たなくなるかわからないので渡しておきます」
「そんな」
「そうなったら、気にせず先へ進んでください」
「そんなこと、できません」
「私は自分の身は守るそうです。でもきっと、あなたのことは守りません」
わたしは首を振る。
「無理です」
「そうですか。では、お好きなように」
……突き放されちゃった。リルザ様は私に背を向けて、すいと歩き出す。
袋をぎゅっと握り締める。
勘違いしちゃだめだ。
リルザ様は、親切だけど、わたしのことを好きなわけじゃない。嫌いとかでもなくて、ただ縁があったから助けてくれてるだけなんだ。だから、わたしのことにも踏み込まない。
でもやっぱり、できないと思う。する気がない。
「好きにします」
聞こえないくらい、小さな声で言った。
……実際、そうなったらどうしよう。どうやってお守りしよう……って、リルザ様が自分の身を守れるんだったら、ひょっとして、問題ってわたしだけ? むしろ今このときだって、わたしがいなければ、リルザ様は緑に向けてもっと進んでるんじゃ。なんてこと。
ひとりでショックを受けていたら、リルザ様が口を開いた。
「呼び名がないのは不便ですね」
「あ……そうですね」
「なんと呼べばいいですか?」
呼び名。わたし、名前が短いし、愛称とかはなかったんだよね。
「リルザ様のお好きなようにお呼びください」
ここはやはりリルザ様につけてもらいたいと思った。わたしにどんな名前をつけてくれるのか、とても興味がある。
「私が? 面倒なことを押しつけましたね」
……がーん。リルザ様って、親切だけど、なんていうか、はっきりしてる。
「では、クモと」
「クモ?」
「雲。好きだと言ったでしょう」
勝手に綺麗な名前を想像していたことに気づいて、ちょっと恥ずかしくなる。思わずごまかそうと、照れ笑い。
「あんまり、人の名前っぽくないですね」
「いやなら自分で決めてください」
「ご、ごめんなさい!」
頼んでおいて、文句みたいなこと言っちゃった。
「すみません。雲、大好きです。すてきな名前だと思います」
「お世辞はいいですよ。昔から、名前をつけるのは苦手なんです」
リルザ様は、小さく息を吐いた。……確かに、そうとう直接的。
そっか。苦手なんだ。じゃあひょっとして、詩も歌も苦手なのかな。緑の王子様って基本的に軍人だけど、外交もされるんだし、芸術を学ばないわけはないよね。……ダンスはどうなのかな。いつか一緒に踊れるときが来たりとか、しないかな?
にやついてしまった顔を隠すために、うつむきながら歩く。そしたら、いつのまにか立ち止まっていたリルザ様の背中に突っ込んだ。おでこと鼻を順番にぶつける。
リルザ様は、前を凝視していた。
視線を追う。街道を少し外れたところに倒れた馬車が見えた。
馬車や地面を塗っているのが血だと気づいて、肌があわ立つ。
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