遥か彼方。

「どう? 嬉しい?」

 ごくり。あたしは唾を呑み込む。

「どうどう?」

 そ、そりゃあ、ね。嬉しいよ。嬉しい、うれ、う、ううううううううううう――

「…………(こくり)」

 こくこくと頷くあたしは、少々ニヤついていたので、嗤う赤べこのような不気味さがあったと思う。それを証拠に彼方くん、なんか引いてる。冷や汗垂らして、唇引きつってる。

 ごめんね、ちょっと、まだニヤつきが止まらん。

 ふふっ、ふふふふふふフフフフフフフフ。

 あたしは口元を隠しながらそっぽを向く。

「ん? どうしたの?」

「……!? ……(ぷいぷい)」

 彼方くんの、美女顔が覗き込んできたので、咄嗟に後退り、一生懸命首を振る。

 ぷいぷいぷいぷいぷいぷいぷいぷいぷいぷい。

「(ぷいぷいぷいぷいぷいぷいぷいぷい)」

 うえ、首振り過ぎて酔った。

 あたし、ただのアホ。

「!? 大丈夫? ほら」

 ぎゅ。

 …………はえ?

 あたしは、間近にある彼方くんの顔が、なぜ目の前にあるのか理解出来なかった。

 …………はえ?

 あたしは、彼方くんの支える腕の先を見る。

 …………あえ?

 あっれぇ? おかしいなあ? なんであたしの腰を支えてるのかなー?

 …………あえぇー?

 あっそうか! あたしを咄嗟に支えてくれたんだー!!

 …………っあぇッ!?

 じゃ、じゃああたしは彼方くんに、彼方きゅんに掴まれてる!?

「大丈夫?」

 きゅーん!?

 ああっ、耳にエコーがかかってる。かかっとるよ。彼方きゅん。さいこーでしゅ。

(うへ、うへへへへへへへ)

「……? ほんと大丈夫?」

 彼方くんは支えてる女が、不気味にニヤついてるのが恐くなってきたのか、顔をどんどん離れさせていく。影がどんどん出来ていく。

 ああー、彼方エネルギーが減少していくー。

 っなんて言ってる場合じゃないや。本当に嫌われる。

「……(ぽんぽん)」

 あたしは態勢を整えると、彼方くんの肩を叩いた。

「あっ、ごめんね。今、離れ……」

 彼の首、うなじに手を伸ばし、回してこちらに引き寄せる。

「っうわ」

『ありがとう』

 あたしは顔を真っ赤にして、息を掠めたような音のない声で、彼の耳をつんざく。

 鼓膜を揺るがせ、つんざけ。優しくでもいい。彼の聴覚を動かせ。届け、あたしの聲!

「……は、どっどう、いたし……まし、て……」

 あたしは顔を紅く、朱く染めて俯く。彼方くんも耳を抑えて、真っ赤に顔が染まる。

「…………」

「…………。……、ごっごめんね、桜歌さん」

 彼はあわあわと手を慌てさせて謝る。

 ううん、謝らなくていいんだよ。彼方くん。

 全部、全部がいい思い出になってるから。なってるから。

 ありがと。彼方くん

 あたしは顔を上げる。

 彼方くんが気不味そうにこちらを見つめている。

 あたしは、笑う。笑った。微笑んだ。ほがらかに。それは中毒性のある、どこにでもあるような笑顔。それを、彼に、あたしのとびっきりの笑顔を見せた。

「…………」

 彼は口を真一文字の、それでいて圧倒された、真剣な顔。その表情でいて、彼はふと、微笑んだ。

 それはふっと、今にも消えてしまいそうな儚い優しい微笑みだった。


 あたしは口を動かす。

 あ、り、が、と、う

 ――――――、と。

 ああ、この時間が一生続けばいいのに。

 あたし達を囲む朗らかな幸福はゆっくりと色を付け、歯車を動かす。がちゃり、と時計の秒針の様に段々と規則正しく。自我を取り戻し、動き出す。

 そして、――――――


「ぶるり、ごめ、ちょっとトイレ行ってくる」

 いい雰囲気は、彼方くんの尿意に台無しにされた。


 あたしは、彼方くんがトイレに向かってから、一行に帰って来ないのが心配になって、様子を見に行った。

 すると、

「ふぎゅーーー! トイトイトイレ!! トイトイレ」

 なんかトイレの入口の前でぷるぷる震えてる奇妙な不審者を発見した。しかも可愛い女の子。

 ちょっと近付いてみる。

 とことこ。

 んー、もうちょっと。

 とことことこ。

 …………いや、もうちょい!!

 とことことことことこ。

「あっ……桜歌さん」

「…………?」

 あたしは、はてなマークが頭に浮かぶ。それはそれは大きな、はてなマーク。

「ごめん、待たせて。ちょっとトイレが入りづらくてね? さっき、おじさんが男子トイレに……」

 ほう、おじさんがトイレに一匹、かつ目的の敵地には残り数匹のおじさん(おじさん以外もいるかも)がいる可能性があると。ほうほう。ほうほうほう。

 にゃるほど。

「ん? ちょっとなんか桜歌さんいたずらっ子の顔になってない? 猫目になってない? ねえちょっと!?」

 にゃははははは、そんなことにゃいですよ? かにゃたくん。にゃはははは。

 にゃははは、にゃは、にゃ……。

 ここは強行突破しかないっしょ。

 すたすたすた。

「? おう、かさん?」

 ぷい。

 あたしは振り返る。そして彼方くんの手を掴む。

 がしっ。

 すたすたすたすたすたすた……。

「あーれー――ー…………」

 あたしは彼方くんを女子トイレへと連れ去った。


 ジャバアアアアアアアアア……。お花畑のワンシーンでしばらくお待ちください。


 カチャン。

「はあ、スッキリした」

「…………♪」

 あたしも、彼方くんのおしっこする音、聞けてごちそうさまです。

「……それにしても大丈夫かな、これって犯罪なんじゃ」

「…………(ぷいぷい)」

 あたしは自身たっぷりに首を振る。こんなに可愛い女の子(男の娘)が女子トイレに入っちゃだめなわけない。だめなわけ……、ん? なんか心配になってきた。だ、大丈夫だよね? どっどうしよう、心配マックスだよ!

 ガチャ。

 びくッ。

 女子トイレに利用者が入ってあたし達は共にびっくりする。

 トイレに入ってきたのは清楚な格好したOLってな感じのお姉さん。大丈夫かな、バレないかな。

 二人してじろじろお姉さんを見ていたので、相手は訝しげに素通りしていくが、果たして振り返りはするのだろうか。

 がちゃり。

 お姉さんはそのまま個室のトイレに入る。

 ……やった? やった。やった! やったーー!

 無事にバレずに済んだ! よっしゃーー!

「しっ、心臓に悪い……」

 ……? てか女性用のファッションコーナーにいるって時点で心配しなくて大丈夫だったんじゃ……?

 ……まあいいや。

 じゃばじゃばじゃば。

 彼方くんは蛇口で手を洗っていて、向かいの鏡に映る顔は、とても安堵した顔をしていた。

 良かったね、彼方くん。……っていうか、あたしが緊張の原因を作った張本人だけど。

「あっ、ハンカチないや」

 ん? それならばあたしのハンカチを進呈してしんぜよう。

 ちょんちょん。

「? ハンカチ……。貸してくれるの?」

 あたしは彼方くんの肩をつつくと、ハンカチをショルダーバッグから取り出して差し出す。

「ありがとう、あとで洗って返すから」

「(こくり)」

 頷くあたし。微笑む彼方くん。

 今日はとってもいい日だ。

「あっ、そうだ。お詫びにしちゃ変かもしれないけど連絡先教えてあげる」

 彼方くんはハンカチをスカートのポケットにしまう。そして、スマホをショルダーポーチから取り出した。

 わあ、スマホの手帳カバーすら、水玉のピンクで可愛い。

 流石ですぅ、彼方く~ん。

 へにょーっと、だらしなく緩んだあたしの顔に、スマホを掲げてパシャリと音をたてた彼方くん。

 意味が分からず、困惑してると、彼方くんは、メッセージアプリのアカウントから、QRコードを表示させていた。

 ……なんかさり気なく写真撮られてなかったか? ……うん撮られてたよな? この野郎、策士、蒼野彼方め。でも可愛いから許しちゃう。ちゃうちゃう。

 QRコードを表示させて、明るくなったお互いのスマホに照らされて、互いの情報を読み込む。

 あたしは、家族以外に増えたメッセージアプリの友達リストに、遥花という表示が増えて歓喜に満ちた。……てあれ? 満ちる前になんだこの名前?

「あっごめん。ボクの名前は彼方だから、似たような名前ではるかって名前を使ってるんだ。ほら、遠い所を指す彼方と遥かって類義語じゃん? で女の子っぽくして遥花。分かった?」

「……? ……(こくり)」

 ふむ、よく分からんがよく分からんのがよく分かった。

「それじゃあ早く出よ?」

「……!?」

 あたしの左手を、彼方くんの右手が掴む。その華奢でふっくらとした可愛らしい指で、しっかり掴んで。

「……(♪)」

 あったかい、彼方くんの手。愛しい、愛しいその右手。柔らかなその手で、君はどこまでも連れて行ってくれる。

 いつも優しくしてくれて、守ってくれて、助けてくれて。そして、好きにさせてくれて、ありがとう。彼方くん。

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