21
ギールの手を引きながら、イシャルは消えていった。昼にでも出かけたようだった。甘酸っぱい若い恋が育まれていくように見えた。俺は息を吐いてから、イシャルから貰った万年筆にキャップを付けた。カチリと音が出たのを見て、俺は机に置いてから立ち上がった。一度伸びをしてから、重要な書類を片付けた。俺が顔を上げれば、既に灰狼がソファに座っていた。本を読む灰狼の前の机にパンが用意されていた。一瞬の内に良くも器用にパンを置いてから、その体勢を維持出来る。俺もソファに座ると灰狼を見た。
「買ってきてくれて有難う。灰狼は俺の好み知ってるから安心だ」
灰狼は静かに瞬きをしてから、焦るように手元のメロンパンを頬張っていた。よほど腹が減っているか、せっかちのようだ。ただいつもらしく安心した。俺は前にあったサンドイッチを食べた。たまごサンドとレタスとツナのサンドだった。丁度良い脂分で味も食べやすかった。俺は食べながら灰狼を見て、ふと思い出した。風邪を引いた時に迷惑をかけたので、せめてでも副隊長としてお返しをしないといけないことを。不安ではあるが、これは少し街中の方で買い物に行かなければならない。恐れては何も始まらない。当たって砕けろを座右の銘にしている俺は、このような困難で恐れる必要がなかった。もし迷子になっても進み続ければどこかに辿り着く。それが全てだった。善は急げ。思えば吉日だと俺は食べ終わるとすぐに基地から出た。上着はいつもながらの愛用する物だ。
余り見て回ることがないので、昼時の街は真新しかった。表通りでは多くの人が店を見て回りながら、散歩を楽しんでいた。背に日光が当たりながら進めるのは、何とも温かい物なのだろう。俺もポケットに手を入れながら、少しだけ店頭を見渡した。どの店でも銀狼が俺のことを歓迎していた。俺は自然と微笑んでしまった。だが、やはり似合わないと口に手を当てた。誰も見てないだろうと周りを見渡せば、一人と目が合った。その人は俺を見ると宇宙人でも見たかのように目を大きくし、俺を指差していた。口から言葉にならない音が漏れていた。俺はしくじったな、と逃げるように近くの裏道に入った。太陽の光に溢れるどこまでも輝き続ける表より、少し暗く陰の指す場所の方が安心出来た。俺は背後に誰もいないことを確認しながら、道を進み続けた。
歩く人も疎らで気にせず歩くことが出来た。銀狼の彫刻が多い中、一つの店が目に止まった。レトロな喫茶店のように、歴史を感じる古い店だった。煉瓦で外装が作られ、薄暗い窓の奥に琥珀色の照明が輝いていた。その手前に黒狼のぬいぐるみが何体も飾られていた。灰狼が持っている物と似ていた。扉の前には本当の狼の大きさで、黒狼の置物が置かれていた。番犬に自分がされているようで、何とも言いがたい気分だった。非常に黒狼が愛されているのは良いが、きっとその黒狼は俺ではないようだ。扉には堂々と黒狼ぬいぐるみの新作が出た、とポスターで書かれていた。そのような利用を俺は軍に認めたことはないが、最初から俺が何かを言えることでもなかった。気付けば俺は店の前で立ち止まっていた。
「どうしようか……」
と、独り言を呟いた。
このようなことで悩むのは馬鹿馬鹿しかった。だが、今見つけた物以外で灰狼が一番喜びそうな物はなさそうだった。俺は拳を握り締めてから開けた。きっと何かの運命だろう。再度俺がここに来れる可能性は低い。部下を思わないのは副隊長として失格だろう、と自分を叱責した。重い足取りだとしても、俺は店に近付いた。番犬黒狼を一撫でしてから、扉を押すとカランコロンと綺麗な木の音がした。一歩進むと、珈琲の香ばしい香りが俺を襲った。珈琲が飲めない俺でも楽しめるのは初めてだった。喫茶店という予想は合っていたようだった。俺は初めて入る店に足が竦み、入り口で立ち止まった。背後で扉が閉まる無造作な音がした。戦場でなら平気なのに、新しい店は慣れない。
「いらっしゃい」
笑みを浮かべた店長と思われる丸眼鏡の男が俺に言った。だが、俺を見ると動きを止めた。手に持っていたマグカップを置くと、俺に走り寄った。俺は避けるように一歩後退った。
「黒狼様ではないですか。ご来店心から感謝します。まさかお会い出来るとは。この日は一生忘れられません」
ぜひ忘れてくれ、と俺は言いたくなった。やはり、灰狼と同類のようだ。灰狼で気付かぬ内に多少は耐性が付いたようだ。俺は一旦見なかったことにし、店長に口を開いた。
「あの扉のポスターにあったぬいぐるみは今も売っているのか?」
流石の自分で黒狼とは言いたくなかった。今の言い方でも十分に恥ずかしかった。店長は首が取れそうなほど、頭を激しく上下させた。外れそうになった丸眼鏡を手で直していた。
「当然で御座います。二四時間三六五日営業しています。そうだ、来店記念に贈呈させて下さい。それが何よりも私の喜びです、黒狼様」
俺はすぐに頭を横に振った。人気だからといって盲信している者に、横暴にするのは間違っていた。それは俺ではなく、ただの暴君か独裁者だ。財布を取り出すと俺は値段分マスターに差し出した。
「いや、払う。誰とも対等でいたいからな」
「わざわざお気遣い有難う御座います」
と、店長はお金を受け取ると俺に袋に入ったぬいぐるみをくれた。
俺は丁寧に包装を断り、内ポケットに入れた。丁度良い大きさだったようで、綺麗に収まった。手がかさばるのは誰もが嫌がることであり、特に軍属ほど戦闘時のことを考えるのだろう。店長に再度感謝を述べてから、俺は店から出た。一瞬の出来事ではあったが、何とも濃厚な一時と言えた。俺が帰るのを残念がっていたが、最後は店長としての仕事を優先し、けじめを付けてくれた。後は渡す相手の人物が喜んでくれるかだった。
「行くか」
基地までの道もどうやってここまで来たか分からないが、一先ず俺は歩くことにした。どの道遊び過ぎていれば、灰狼が俺を捕まえに来るのだった。特に何も考えずに俺は、何かに導かれるように歩いた。生活圏内のようで立ち寄ったことのない場所も多かった。目的がないからこそ俺はそこまで行けた。目的があればそこに行って帰るだけで終わってしまう。美味しそうな料理やスパイスの香り。昼風呂にでも入っている石鹸の匂い。公園で楽しそうに鬼ごっこで子供。それを見守るベンチに座った大人。攻撃の恐怖に怯えずに堂々と道を歩ける。自分のしたい好きなことをしながら、楽しく誰かと時間を共にする。そういう日常は守る助けを俺達は出来たのだ、と思えた。
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