① 姫神の――2

 夜風は飄々ひょうひょうとして梢を揺らし、木々はさらさらと葉擦れの音を立てていた。黒い落葉が宙をゆっくりと滑るところへ一陣の風が吹き通り、夜空へ舞い上げ影を十五の月に掛けた。野禽やきんの声は鋭く、枝葉は山道に黒布を落とす。


 荒れて廃れた山道を、はっきりしない足元など気にも留めずに少年が駈ける。肩から下げた鞄が暴れてばたばたと鳴り、シャツは一度は乾いたというのに再び汗で湿ってしまった。夜気が布地を冷たくするけど、身体は火照って気持が好いくらいだった。掠れた息に痰の絡んだ咳をして、息を吐き、速度を緩めず走っていく。


 彼の視線は真っ直ぐに、道の先、闇の奥へと進んでいた。身体の動きに合わせて腰を叩く鞄を煩わしく思い、肩から外して紐の根っこを片手で握り、力を込めた。


「あいつら、絶対に許さねえ。こんな真似は決して許さん」


 眉をしかめ、苦し気に吐き出した。息は切れているが、足を止めようなどとは脳のうらにも過ぎらない。まるで自分の意思で走っているのではないかのようだった。梶を捨てた小舟の波にさらわれるかのように、体が自らとは異なる力で動かされていた。


 走っている目的、彼はそれすらも忘れていた。無意識に行われる肉体の動きに身をゆだねていた。もしも目的を思い出したなら、逆に足を止め、一息吐いてからゆっくりと歩き出しただろう。


 しかし夢境むきょうを駈ける少年はそうしない。ただ、ひとつ。


「どうして、先に行くかね。……着いたら、連中、ただじゃおかねえ」


 彼は友達と待ち合わせをし、この船寄ふなより山は山腹の峠にある展望台で天体観測をしようとしていたのだが、寝坊をして遅刻をし、置いてけ堀を食らってしまったのだ。それで、ちょっとくらいは待っててくれてもいいじゃないか、と御冠おかんむりなのである。


 自宅からここまでの間に待ち合わせ場所は二ヶ所あった。自分達の住んでいる町の駅と、この山の麓にある駅だ。


 進学塾の夏期講習が終わり友人達と別れた後、自宅で暑気にうつらうつらしている内に寝入ってしまった。そして走れば町の駅での集合に間に合うかどうかという時間に目が覚めて、急いで行ったが、そこには誰もいなかった。


 先に行くなら行くとスマホに一言メッセージをくれればいいのに、と思いながら、藤岡、佐倉、山吹、椎名のそこで集まる面々に連絡を取ろうとしてみたが、気が付かないのか、電源が入っていないのか、誰からも返事は来なかった。


 仕方なく一人で電車に乗り、船寄山駅に到着したが、辺りを見渡せど駅前広場は閑散として人の気配は僅かにもなく、薄明りの外灯に蛾虫が飛び、山風が蕭々しょうしょうと吹き下ろして来るばかりだった。


 再度先の面子と、ここで合流するはずだった山口に連絡をしようとした。が、画面上部のアイコンを見るとアンテナは圏外。溜息を吐き、先にいったのであろう友人達に追い付こうと駈け出した。


「まったく、どうして置いて行くかね……」


 そもそも彼は天体観測に乗り気ではなかったのだ。むしろ不参加を表明していた。それを提案者である藤岡和也に強引に、引っ張り出されて参加することにさせられたのだ。


「まったく……」


 吐息と共に呟いた。やはり付き合いなどは無視をして、嫌なら嫌ではっきりと断るか、置いて行かれた時点でそれを理由に帰ってしまえば良かった、と思う。


 それでも彼は駈けて行く。なんだかんだ言って付き合いが良いのだ。たとえ行く先に友人達がいなくとも。


 それを彼には知る由もないが。


 どこでどう断っていれば良かったのか、いや自分は断っていたはずだ。なのにどうしてこんな所を走って苦しい思いをしているのか、昼の会話を思い出そうとした。


 今向かう闇の先に、彼の待ち人がいるとも知らずに。

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