第43話 海月
「でけぇ……」
口があんぐり開く。地平線から姿を現したのは星と見誤るほど巨大な海月だった。
「綺麗……」
隣の綾見もぽかんと口を開いている。同感だ。海月の身体の中は銀河が渦巻き、無数の触手には彗星が血液のごとく駆けていた。
地平線から姿を現した海月はそのまま僕らの方へ一直線に向かってくる。漂うと形容するより意思を持って泳いでいると言った方が良さそうだ。ゆったりと泳いでいるが、巨大な分ひと掻きで稼ぐ距離がはんぱではない。みるみる僕らに近づいてくる。
「どうしよう?」と綾見。
「どうするもこうするも、このままベンチに座っているだけじゃ埒が明かない。あの触手に掴まろう」
「触手……抵抗あるなぁ」
綾見はボヤいたが、覚悟は決まっているようだった。
海月の身体が頭上を過ぎる。少し遅れて触手が月面を引きずりながらやってきた。
「せーのっ!」
声を揃えて触手に飛びつく。大きめの樹、ただし触感はゼリー。ひんやりとした触手はプリプリしていて想像してしまった所謂『触手もの』ではないことにほっとする。
「綾見、大丈夫?」
隣の触手にしがみ付く綾見はぐっと親指を立て返事に代えた。
「平気。でも、ぐらぐらして安定しないから根本まで登って合流ね」
ちらりと下を見る。海月は進行方向を上に転じ、ベンチは遙か下方、点になってしまっている。次はどこに流れ着くのだろう。なんとなく目的地に近づいていることを感じながら僕は海月の傘を目指して触手をよじ登り始めた。……宇宙に上下はないから降るが正解?
触手の根本で綾見と無事に合流すると、
「ところてんが食べたくなっちゃった」と綾見のお茶目なコメントで一笑い。
「さて、この海月はどこに向かうのやら」
傘の裏側にあぐらをかく。重力がないからできる芸当だが、綾見と天地が逆さまになると不思議な感覚がする。
「なんとなくだけど次が最後な感じ、しない?」
綾見の言葉に驚いた。
「綾見もそんな感じする?」
「二見くんも? ね、不思議とそんな感じがするよね」
「もしかして、これが影響しているのかな」
背負った鞄から久しぶりに依頼品の星を取り出す。
「こいつが目的地が近いって僕たちに訴えかけている、とか」
星は、心なしか輝きを増していた。
「あり得るんじゃない? この世界はあり得ないことがあり得ないんだから。原因は分からないけど、ゴールが近いことは良いことだよ。この世界も興味深い世界であることに変わりないけど、そろそろ私たちの世界に帰りたい」
「同感。非常識な世界に浸かりすぎて、僕らの世界の常識を忘れそうで怖い」
「分かるなぁ。体育の時間、どうしてバスケのリングの届かないんだろうって一瞬本気で考えちゃったことあるもん」
「だろ? 常識を疑うことが大事って大文字さんに言われたけど、日常生活に支障を来すのもマズイよなぁ」
「だね。不思議ちゃんキャラになるのは回避しなきゃ」
綾見がくすくすと笑う。じっとしていたときはだいぶ心が乱れていたが、もう大丈夫みたいだ。
「それにしても、この海月の中、ホント綺麗だね……」
綾見の頭上、僕の尻の下、海月の傘の内側に広がる輝きは一つの銀河系のそれだ。
「やっぱり内臓なのかな?」
「二見くんってたまに空気読めないよね」
呆れた声で綾見は僕をばっさりと切る。
「ロマンチックの欠片もございませんでした」
男の僕がやっても全く可愛くないが、ぺろりと舌を出して謝ってみせる。
「真面目な話、この海月の中にはまた別の宇宙が存在してるんじゃないかな。狭間の世界とかじゃなく、僕らのいる宇宙とは違う宇宙……とか」
「最初からそういった答えが先生欲しかったです。……でもさ、海月の中に宇宙があるとしたら、私たちのいる宇宙だって海月の中にあるかもしれないってことだよね……」
綾見の疑問に対する返しは一つしか持ち合わせない。
「僕たちの常識は?」
「常に疑うこと。――宇宙について考えると眠れなくなるからこの疑問は棚上げしとく」
「知らない方が幸せってこともあるしな。でも、海月宇宙説好きだな。一体感があってなんか好き」
「別の世界の存在を知った私たちだからこそ納得しやすいのかも」
僕と綾見の会話を気にも止めず海月は宇宙を泳ぎ続けていたが、やがてノロノロと減速し、ついには泳ぐのをやめてしまった。
「到着ってこと?」
綾見がきょろきょろと周囲を見渡す。
「下だ」
身体の向きを綾見と同じくして、僕は足下を指さした。
「下って……何もない、真っ暗じゃない」
星の瞬きが一切存在しない、深淵という言葉がふさわしい暗闇が僕たちの眼下に広がっている。
「そう、真っ暗なんだ。星の瞬きが一つもない」
メガネを外して視ても、何も変わらず眼下には灯火すら視えない。吸い込まれてしまいそうな黒が満たされているだけだ。
「確かに今までの場所とは違う、違和感もあるけど、肝心の元に戻す目印になる光がないのだったら、やっぱり違うんじゃ……?」
「綻びから漏れる光が黒いとしたら?」
僕の考えを聞いて綾見は目を丸くする。
「それもあり?」
「ほら、目を凝らすと気泡が視えるだろ? 泡だっているってことは、何かしら隙間があるってことじゃないのか?」
「それは……そうかもしれないけどっ。何も視えないんだよ? もし危ない何かがあっても気付けないんだよ?」
「うん……、だから、綾見はここで待っていて」
「はぁ?」
僕の提案に綾見はふざけるなと明確に非難の色を持った目で僕を見据える。
「ここまで来て何言ってるの? 冗談だとしても笑えない。美味しいところ全部独り占めするつもり?」
「そんなつもりは全然ない。けど、見えるだろう? 真っ暗だ。仮に一緒に潜ってはぐれでもしたら合流できる保証はない。そもそも目的の場所であるのかも分からないんだ。綾見には海月と一緒に僕が戻るための灯台になっていてほしい」
「~~っ」
反撃の言葉が一瞬詰まった隙を突き、僕はメガネを外して「すぐ戻る」と口論に決着を付けないまま逃げるも同然、綾見の制止を振り切って海月から飛び降りた。落ちる感覚はない、『潜る』がやっぱり適切な表現だ。
待ってよ! 綾見の叫び声が背中に刺さる。ちらりと顧みると、海月の傘の下で心配顔を通りこし、泣きそうな表情でいる綾見がぎりぎりで見えた。我ながら勝手な判断だ。土下座で許してくれるかなぁ。そんなことを考えながら深淵の胃袋へ身体を沈ませていった。
深淵を覗くとき、深淵もまた自分を覗いている。こんな言葉を聞いたことがあるが、少なくとも深淵の中にいる僕には通用しないらしい。そこまで距離は開いていないはずなのに、傘の中に宇宙を抱えるほど巨大な海月の光が一ミリたりとも見えなかった。周囲の闇に今更ながら身震いするが、頬をつねり自らを奮い立たせて何とか恐怖に飲まれる寸前で踏みとどまる。
「これで綻びなかったらさすがに泣くぞ」
一人ごちて鞄から星を取り出した。輝きは増しているが、周囲の闇を一掃するには全くの出力不足。目算して二、三メートル四方くらいで光は闇に飲まれてしまっていた。
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