第41話 月に降り立つ

 月とは言ったものの、それは僕らの知識が十分ではないだけで本物の月ではないことは綾見も承知の上だろう。だけど、月と言い表すしかないくらい、僕らが近づくその星は月と瓜二つだった。

 初めて使った自転車のブレーキはキーと甲高い音で鳴いたものの十分に利いてくれた。光のトンネルが消え、ほうき星たちもそれぞれ点の姿に戻っていく。

 ひとまず月面と呼称するとして、自転車を月面に着地させることは無事成功した。そのまま漕ぎ続けたいところだったが、月面は砂地もあればゴツゴツした岩もあって自転車との相性は最悪だった。

「ありがとうな」

 僕と綾見は降車して、ここまで連れてきてくれた自転車に一礼して別れを告げた。

「さて、どこに向かおうか」

 僕の問いに綾見は躊躇いなく前方を指さした。

「決まってるよね?」

「だな」

 綾見が指さす方向に僕も同意する。というか、選択の余地はない。僕の質問はただの確認に過ぎないのだ。僕たちが立つ場所から少し離れた場所に、月面という舞台には全く似つかわしくない、公園などでよく見るベンチが一基、ぽつんと置かれていた。

 僕たちが降り立った月(仮)の重力は体感地球以上にあるようで、先ほどまで無重力状態で自転車を走らせた身体には一歩一歩が堪えた。自重がズシンと足に響く。おまけに足場も悪い。ベンチまで目算五十メートルもなかったが、そこにたどり着き、ベンチの背もたれに身体を預けたときには息も絶え絶えだった。

「元の世界に戻ったらダイエットする……」

 綾見は絶望の表情で「うへぇ」と呻いた。

「いやいや。重い軽いの問題じゃないでしょ。綾見十分に細いし。求められるのは筋力、戻ってやるべきは筋トレだって。……まぁ、そんな話は置いといて。何か視える?」

 並んで座るベンチから見える景色は月面のくっきりとした地平線、墨で染まった空、まき散らされた星くずの光。時折発光する小魚の群が宇宙を泳ぐ姿を見かけるが、めぼしいものは見つからない。

「……何も」

 ぼんやりと前を見つめたまま綾見が返す。

「だよなぁ……。といっても、他に当てがあるわけでもないしぁ」

「まだ動くのは尚早じゃない? ここは待つことも大切な気がする」

「その心は?」

「勘?」

 勘ですか。しかしマリアさんも女の勘は当たるようなことを言っていた気がする。

「時間もたっぷりあることだし、ゆっくり待つとしようか」

「後になって責めるのは無しだから」

「心外な。そんなことするもんか」

 言質とったからという綾見の言葉を最後に、僕らの会話は一度途切れた。

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