第39話 宇宙と海の混じる場所
水の冷たさも濡れた感覚もない。それなのに水中にいるような不思議な感覚を肌に感じつつ、僕はぎゅっと瞑っていた目をゆっくりと開けてみた。最初に視界に飛び込んだのは綾見のセミロングの黒髪。とりあえず一緒に来られたことに安堵し、それから周囲を見回した。
「ここって……?」
口を開いても海水が流れ込んでこないし、言葉を発せられた。息苦しくもない、呼吸ができる。救われた。なんといってもここは――。
「宇宙――なの?」
自信のなさが伺える綾見の言葉だったが、常識が通用する世界ではなのだ、どれだけ突飛なことが起きようとも動じてはいけない。星を元の場所に返すということは、返還先の環境は宇宙がもっともふさわしい。だた――。
「宇宙っぽいけど、たぶんこれ、宇宙と海が混じっているんじゃないか? ほら、こうして手で掻いてみると前に進める」
バタ足を加えれば水中での感覚と大して変わりない。
「本当だ……不思議」
暗闇ではなかった。星々の光が僕たちを照らしてくれている。……目の錯覚じゃなければ光る魚が泳いでいるのがちらりと視えた。見上げると水の中に潜ったときのように僕たちの世界だろう星空がたゆたっていた。今回の世界は海面に上がれば割とあっさり戻れそうだ。
「ところで、マリアさんは?」
不安げな綾見の表情。分かってる、考えないようにしていたけど僕も気付いてる。マリアさんが来ていない。
「後ろで警備員をのしていたし、時間の進み方が違うんだ。すぐに追いついて来るでしょ」
しかし、そんな楽天的な考えをあざ笑うかのように、いくら頭上でたゆたう星空を見つめていてもマリアさんは境界のこちら側に姿を現してはくれなかった。……迷惑をかけないことを課題にしていたが、それどころの話ではない。僕と綾見、二人で完遂しなくてはならなくなった。
酸素かどうかも分からない不思議な大気を大きく吸い込み、不安と一緒にゆっくりき出してから僕は綾見に向き直った。
「こうなったらマリアさんが来ないことを前提に行動しよう。闇雲になるけど、僕たちで星の場所を探そう。――僕たちでやりきるんだ」
「……うん!」
考えることは一緒。綾見も覚悟を決めた顔つきだった。
「さて、方針は決まったわけだけど、どうやって探す?」
図書館では受付、地下世界なら岩山、今までの世界はどちらもひとまず目指す場所があった。しかし、今僕らがいる世界は宇宙と海が混じる世界。周囲には目印になりそうなものは何もなく、僕らを照らす無数の星々との距離は測れない。
「二見くんの眼でも綻びの光は捉えられない?」
綾見の質問に僕は力なく首を振った。
「ごめん、ここからだと何も視えない」
「そっか……。それじゃあ、とにかく移動するしかないね」
「どっちに行こう?」
海面という天井はあるが、ここには地面がない。前後左右に加えて下という選択肢。多岐に渡るのも困りものだ。
「う~ん……とりあえず潜ってみたい、かな? なんとなくだけど、目的の場所は境界線とは離れた場所にある気がする」
「なんとなく分かる」
僕らは直感を頼りに舵を水底にとった。……底があればいいなってところだけど。
僕たちが潜ったみなとみらいの深度と同じならとっくに着いているのだろうけど、他の世界と同様、この狭間の世界も例に漏れることなく広大だった。いくら潜ろうとも底が見えてこない。振り返るとたゆたう僕らの世界の星空はこの世界の星々と溶け合って境界が分からなくなっていた。
「ここらで一旦進む方向変えてみる?」
僕が提案したときだった。綾見がはっとした表情で前方を指さした。
「視えた。何かあるよ」
綾見が泳ぎを加速させる。眼鏡を外しても僕には視えない。綾見の後を追いかけるだけだ。
「どこ? 光なんて視えないけど?」
「光なんて言ってない。よく見て、ほら、金属みたいな何かが星の光に反射しているでしょ?」
光じゃないのか。外した眼鏡を掛け直して目を細めてみる。……本当だ、何かある。宇宙の底にはまだまだ辿り着きそうにない。そもそも底なんて概念そのものがないのかもしれない。そんな果てしなく広い宇宙のどこか、僕たちのいる場所には少しばかり錆びた自転車が横たわっていた。漂っているんじゃない。足場がないにもかかわらず、まるでそこに地面があるかのように自転車が横たわっていた。
「不思議……どうなってるんだろ」
綾見が見つけた光の正体に手を伸ばす。
「触れる、本物だよこれ」
綾見が倒れた自転車を立ち上げる。
「こんな世界だけど、漕げるかな」
跨り、ぐっとペダルを一押し。自転車は静かに前進した。
「凄い!」
興奮した様子で綾見が縦横無尽に自転車を走らせ、僕の前でブレーキを立てた。「キィ」と錆び付いた音が宇宙に響く。
「泳ぐのより楽だし早い!」
目を輝かせて綾見が自転車から降りる。僕にも体験しろとサドルを向けてくる。
「それじゃあ遠慮なく」
前カゴに依頼品の星が入った鞄を入れてサドルに腰を落とす。僅かに自重を感じるが、どういう理屈なのだろう。……まぁいいか。
「ほら、後ろに乗って」
「え?」
言葉の意味を理解してもらえなかったのか、綾見は間抜けな声を出した。
「せっかく移動手段を見つけたんだ。使わない手はないでしょ」
「それは……そうだけどっ。二見くんに悪い」
私重いし、と綾見は口ごもる。
「重さを感じない世界で何言ってんの。っていうか、これで綾見が乗ってくれないと僕が恥ずかしいでしょ。つーか既に恥ずかしい」
何それ、綾見は小さく吹き出す。それから「お邪魔します」と、おずおずと後ろの荷台に腰掛けてくれた。
「それじゃあ改めて、迷子になった星の帰るべき場所を探しに出発進行」
ペダルを漕ごうとした間際、
「重いっていったら許さないから」
綾見が念を押してきた。
「……振り?」
「降りようか?」
「ごめん嘘。大丈夫だって、これでも男の子なんだから」
太鼓判を押したものの、実のところ女の子を後ろに乗せた二人乗りの経験なんてない。重さを感じませんようにと心でそっと祈りながらペダルを踏み込む。僕の祈りが通じたのか、はたまたこの世界の常識だからなのかは知らないが、羽のような軽さでペダルが回った。
「うぉ!?」
「何なに!? どういう反応?」
過敏になった綾見が後ろからせっつく。
「ごめんごめん、そういうのじゃない。すっげー軽いから。綾見どころか自分の重さすら感じないから驚いた」
綾見の重みを一切感じられないのは実は残念だけど、それは次の機会にとっておくことにしよう。
「でしょ!? 凄いよね!」
体重の件をクリアしたからなのか、すっかりリラックスした綾見が前かがみになって同意する。
「……!」
綾見の身体を背中に感じる。緊張で身体が硬直したのがどうかバレませんように。
「行くぞ!」
大げさに振る舞い僕はペダルの回転を上げた。
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