枕元のスマホが震える。

「ん～…」

　表示されている時間を確認してアラームを切り、布団を被ったまま猫のように背中を伸ばす。階段を上る足音が聞こえて、俺はまた枕に顔を埋めた。

「朔太郎、朔」

　兄、泰良の声。毎朝決まった時間に俺を起こすのは、子どもの頃からの泰良の役割だ。

「起きろ、朔」

「…起きてるよ～」

　少し間を空けて答えると、さっと引き戸が開いた。体を起こして入り口の方を見ると、大きな黒いシルエットが立っている。

「はよ～」

　向こうの表情は確認できないけれど、笑顔を向け、メガネを取ろうとベッドヘッドに手を伸ばした。

「…？…ん？」

　いつもだったらすぐ手に触れるはずのメガネが触れない。手探りの範囲を広げてみても、感触がない。

「あれ？」

　少し焦っていると、「ふぅっ」と、ため息が聞こえた。

「入るぞ」

　と、シルエットが動いて、ベッドのすぐそばにしゃがみ込む。

「ほら」

　と、何かが目の前に差し出され、手を伸ばすと、慣れた感触が触れた。

「あ、メガネ」

「踏むとこだったぞ？」

　どうやら寝ている間に、落としたらしい。

「ありがと」

　受け取ったメガネをかけると、ようやくシルエットの輪郭がはっきりとして、すぐそこには、あきれたように微笑む泰良の顔があった。

（おお、今日もイケメン）

　じっと見ていると、泰良は目を逸らして立ち上がった。窓の方に手を伸ばし、サッとカーテンを開ける。

「…！」

　朝日が眩しくて、思わずぎゅっと目を閉じると、ふっと泰良が笑った。

「さ、起きろ」

「はぁい」

（イケメンだなぁ…）

　二度目。泰良は、身内の贔屓目なしに整った顔をしていると思う。

（その上、背は高いし、バレー部で大活躍だし、成績も常に上位だし…）

　我が兄ながら、モテ要素しかない。通っている高校のみならず、他校の生徒からも人気があり、「小埜先輩が、○○校の女子から告白されていた」なんて話は、昔から度々俺の耳にも入ってくる。だけど「OKした」って話は聞かなくて、友達にその話をしたら、

「朔太郎がいるからなぁ」

　と言われてしまった。手のかかる弟のせいで恋愛どころではないのかと思うと、なんだか申し訳ない。

（俺なら、大丈夫なんだけどな…）

　ふと、泰良がすでに制服なことに気付いて問いかける。

「…朝練？」

「ああ…。だから、今日は先に出る」

「来週、大会だもんね」

　昨夜、夕食時に話題に上っていたことを思い出す。

「…大丈夫か？」

「うん、平気。早めの電車乗るし」

「…」

　泰良は俺の頭をくしゃくしゃっとした。

　その手つきはいつも優しい。

（心配性だなぁ、相変わらず…）

　高校に入学してすぐ、俺は電車で痴漢に遭った。大声を上げ、犯人の腕を掴んで次の駅に引きずり下ろすと、相手は結構いい歳をしたサラリーマン。その上、

「男同士なんだから、いいだろう！」と開き直っていて、

「ヤバイな、あの人…」

　と心底呆れた。

　俺が痴漢に遭ったことを知って、「そいつ、ただじゃおかない！」と顔も知らない相手にぶちギレし、その後「弟を一人にした俺のせい」と、自分を責めまくっていた泰良の情緒は、もっとやばかったかもしれない。

　それからは、俺の身の安全と泰良の情緒の安定のために一緒に登校するようにしているが、どうしても今日みたいに別登校になることもある。そんなときはできるだけ混み合う時間の電車は避けているのだ。

　まだ何か言いたそうな泰良に、

「遅れるよ？」

　と、にっこり笑顔を向けると、泰良はぐっとなにかを飲み込んで、手を引っ込めた。

「…じゃ、いってくる」

　と、部屋の出口に向かう。

「いってらっしゃい」

　泰良の背中を見送りながら、俺は手を振る。

（でっかいなぁ）

　泰良は百八十八センチ。俺の部屋を出る時には少し頭を下げなくちゃいけない。そんな立派な体格の泰良に対して、俺は百五十八センチ。男子の中ではかなり小柄だ。周囲からは、

「小埜兄弟って、全然似てないよな？」

　と言われる。

（そりゃ仕方ない…）

　俺と泰良は正確には「兄弟」ではない。泰良の父親と俺の母親が兄妹という、実際の関係は「従兄弟」だ。

（ま、兄弟みたいに育ったけど…）

　母親同士が親友で、俺が生まれた時から一緒に過ごすことが多かったらしい。

「着替えよ…」

　ベッドから出て、パジャマ代わりのTシャツを脱ぐ。鏡に映る体には、火傷が残っている。特にひどいのは右側の腕から胸にかけての痕だ。前髪で隠れた額にも裂傷の痕がうっすら残っている。

　三歳の頃、俺は両親と共に交通事故に遭ったのだそうだ。両親はその事故で他界し、俺だけが奇跡的に一命を取り止めた、らしい。

　らしい、というのは、それは人伝に聞いた話だからだ。事故の影響なのか、三歳という当時の年齢のせいなのか、事故の記憶も、両親との思い出もほとんど俺の記憶にはない。　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　

　一番古い記憶は、何か叫びながら泣きじゃくる、小さい泰良の姿。俺が事故に遭った頃、泰良は五歳だった。泰良は、退院後に泰良の家で療養していた俺から片時も離れず、

「おれがいないときに、さっくんがしんだらどうするんだよぉっ！」

　そう言って泣いて、しばらく幼稚園を休んだらしい。

　俺の交通事故は俺ではなく、泰良の方にトラウマを植え付けてしまったみたいだ。

　ちなみに俺の目が悪いのも、事故の後遺症らしい。それも泰良の心配症に拍車をかける原因なんだろう。なかなかに根が深い。

　泰良が中学生になるまでは、寝室も一緒だった。泰良が「安心して眠れない」と言ったからだ。今だに毎朝起こしに来るのは、俺の生存確認なんだと思う。

　泰良のトラウマを考えると、俺に向けられる過度な心配症に、何も言えない。