第35話 帰りたい
文香は呆然と建物を見上げると、尻もちをついたまま後ずさった。
「嫌だ……嫌……」
苦しくてもつらくても、実家に帰るわけにはいかなかった。だから、自分のいる場所は金乃料亭なのだと思っていた。
けれど優しい世界があることを知ってしまった今、元いた場所に戻ることを心も体も拒否している。
あやかしの世界に迷い込んでしまった森に走ろうとした。だが運悪く、外から戻ってきた使用人の男に見つかってしまった。
「文香!? どこに行っていたんだっ!!」
文香は使用人の男に腕を取られ、引きずられるようにして、営業前の料亭に入った。
文香は金乃料亭の家族が住んでいる奥の屋敷へと連れて行かれ、主人の正一と女将の志津子に引き渡された。
「どこ行ってたんだいっ! 働くのが嫌になって逃げ出したね!!」
志津子はいつも一方的に決めつけて、文香の言い分を聞かない。
文香が違うと口にするより早く、頭を叩かれた。
志津子は、骨太でふくよか。手も大きく、厚みがある。小柄な文香の体はいとも簡単に吹っ飛び、畳に肩を打ち付けた。
「あんたみたいなガキは口で言ってもわかりゃしない! 逃げるとどうなるか、体で覚えな!」
志津子は着物の裾が乱れるのもかまわず、文香を足で蹴った。蹴って、蹴って、蹴りまくる。
文香は顔を守るために体を丸め、泣きながら許しを乞う。
「すみません、すみません、すみません……」
いつもなら、「もう二度としません。ですからどうか許してください」と口にする。
しかし、文香はそれらの言葉を呑み込んだ。二度としないと誓うことも、許されることにも意味はない。ここで働くつもりはないのだから。
志津子は足で蹴るのをやめると、文香の腕を乱暴に引っ張った。
「あぁ? 綺麗な着物を着ているじゃないか。どうした?」
文香が着ているのは、白沙に買ってもらった紅色の着物で、柄は花喰鳥。
志津子の色の悪い分厚い唇が、下卑た笑いをする。
「げへっ。いい着物じゃあないか。あんた、男を見つけたね? そうかそうか。その男のところに行っていたというわけか。で、荷物を取りに、こっそりと戻ってきたというわけだね」
「なるほど。そういうことか」
腕を組み黙って見ていた正一が、納得したように頷いた。
志津子は文香の腕を離すと、畳にうずくまる文香を冷たい目で見下ろした。
「脱ぎな。……聞こえただろう? 着物を脱ぐんだ。親には、男ができたことを黙っていてやるよ。その代わり、その着物をあたしにおくれよ」
文香は胸の前で両手を握りしめると、ぶるぶると頭を左右に振った。
志津子は舌打ちをすると、無理矢理に文香の着物を剥ぎにかかった。
文香が悲鳴をあげ、「やめてください!」「助けてっ!」と何度叫んでも、誰も来ない。室内にいる正一は黙って見ているだけ。
志津子は文香の着物と帯を奪うと、満足げに着物に頬ずりをした。
そして、文香を蔵に閉じ込めた。
「反省しなっ!!」
かび臭い蔵の中。今までも何度も蔵に閉じ込められた。だから、わかる。今はまだ太陽が高く上がっているから明るいが、夜になると恐ろしいほどに暗くなる。
いつ出してもらえるのか、それは志津子の気分次第。
文香は膝を抱え、啜り泣いた。
天に会いたい。天音にも山成にも覚之進にも白沙にも白廉にも会いたい。みんなの明るい笑顔と楽しいおしゃべりと優しさに触れたい。
ここにいたら、体を壊す前に心が死んでしまう。
太陽の光が弱まってきた頃。蔵の鍵が開く音が響いた。
あやかしの世界は季節がわからなかったが、過ごしやすい気温だった。だが、人間の世界は十一月。着物をとられ、襦袢姿の文香は寒さで震えていた。
蔵に入ってきたのは、意外なことに正一だった。
正一は料理には精力的に関わるが、使用人のことは志津子に任せている。
文香が正一と二人きりになるのは、これが初めて。
文香がどのような反応したらいいかわからずに困惑していると、正一は気難しい顔を崩した。
「家内がすまないね。あれは気性が激しい。着物を取り上げるなんて、ひどいことをするものだ。そうだ、これを持ってきた」
正一は着物の袂から包み紙を取り出すと、文香に渡した。文香が紙を広げると、包まれていたものは茶饅頭。
「お腹がすいたろう。お食べ」
「いいのですか?」
「もちろん」
正一は今まで、文香に声をかけることをしなかった。文香が、志津子や年配使用人に怒鳴られ、叩かれ、意地悪されても素知らぬふり。
それなのに茶饅頭を持ってくるとは、どのような風の吹き回しなのだろう。
文香は素直に喜べないまま、茶饅頭を一口齧った。
「おいしいかい?」
「はい。ありがとうございます」
正一は突っ立ったまま、文香が食べる様をじっと見ている。文香は居心地の悪さを感じながらも、もらった饅頭を食べる。
水を打ったような静寂。息がうまく吸えないような苦しさを感じる。
正一のねめつけるような視線に耐えながら、文香は饅頭を食べ終えた。頭を下げて、お礼を言う。
「ありがとうございます。美味しかったです」
「男ができたっていうのは、本当かい?」
「……違います」
「嘘をつかなくてもいいじゃないか。見ればわかる。色気が出ているじゃないか」
正一は文香に近づくと、いきなり押し倒した。
「きゃっ!!」
「可愛い悲鳴をあげるじゃないか。男と寝たんだろう? それで綺麗な着物を買ってもらえるのだから、女というのは得な生き物だ」
正一は馬鹿にした笑い声を上げると、ぎらついた欲望をおもてに出した。文香の体に乗る。
文香は体重をかけられ、頭の上で両手首を拘束される。乱暴されるのだと察し、血の気が引く。
正一の力は強く、掴まれた手首が痛い。指先に血が流れず、冷えていく。足をばたつかせるが、重くのしかかった正一の体を振り落とせない。
「嫌っ! やめてくださいっ! 嫌っ!!」
「股を開いたんだろう? 一人も二人も同じことだ。年頃になるのを待っていた。おまえの親から、好きにしていいと言われている。初めてじゃないのは残念さが、面倒じゃなくていい」
好きにしていい? 親はどういうつもりでそんなことを……。
暴れていた四肢から、力が抜ける。涙の膜が張る瞳が、蔵の梁を捉える。
助けを呼んでも誰も来ないだろう。今まで一度も、助けてもらったことがないのだから。
正一の唇が、文香の首筋を這う。
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