第27話 頼もしい背中

「わぉ、人間。どこに行くんだよぉ。飯の時間だぞー。おとなしく食べられろぉ」


 走る文香を、ふるすましが追いかける。

 高さ十メートルもある、ふるすましの巨体。左右の足が打ち鳴らす地響きに、文香の体が跳ねた。

 着地し損ねた足。あっと思ったときには視界が回り、地面に右肩を打ちつけてしまった。

 文香は痛みに顔を歪めたが、すぐに両手を地面につけて上半身を起こす。


「いか、行かなくちゃ……」


 天を助ける。みんなのために天狗の宿屋を守る。そう決めたのだ。

 だが、立ちあがろうとして、動きを止めた。


 ポタッ、ポタッ……。


 目の前に、大きな水滴が落ちてくる。

 雨にしては不自然だと、空を見上げると──。


 ふるすましが舌なめずりをして、文香を見下ろしていた。

 大きな水滴は、ふるすましのよだれだった。


「はぁあぁっ……」


 喉奥から出た掠れ声は、悲鳴にならなかった。

 心底ぞっとする恐怖に襲われる。頭は警告音を鳴らして逃げるよう指示するのに、体が動かない。


「うまそうだなぁ。イヒヒッ!」


 文香の顔よりも大きな黄土色の手が、文香を捕まえるために伸びてくる。


 逃げないと逃げないと逃げないと逃げないと逃げ──……。


 頭の中に鳴り響いていた警告音が、プツリと切れた。頭が真っ白になる。

 五指を開いて迫り来る黄土色の手が、やけにゆっくりに見える。

 音が遠のき、景色が薄れていく。


 意識を失いかけた文香を留まらせたのは、鼻腔を掠めた香り。森の爽やかさと花の甘さが入り混じった控えめなこの香りを、知っている。

 天に抱かれて空を飛んだときに嗅いだ、彼の匂い。

 遠のきかけた意識が戻る。明瞭になった視界に映っているのは、水色の長着ながぎと漆黒の双翼。


「天、様……」

「怖い思いをさせてしまった。すまない。母さんに俺の羽団扇を渡しに行って遅れた。もう大丈夫だ」


 天は片膝立ちになって、ふるすましと対面している。

 文香に背中を向けているため、表情がわからない。だが、文香を庇うようにして後ろにやっている左手からは、文香を守ろうとする強い意志が伝わってくる。

 この上ない頼もしい背中に、文香は涙ぐんだ。


「なぜだぁっ!?」

 

 ふるすましの野太い怒声が響く。

 ふるすましは唸りながら、右手を押しだしている。文香を捕まえようと伸ばした手。だが透明な壁でもあるかのように、それ以上前に進めない。

 天は右手を突き出している。よく見ると、天の右手とふるすましの手の間の空間がピリピリと光っている。

 興奮状態のふるすましとは違って、天の声音は冷静沈着。

 

「霊力で作った防御壁だ。おまえは世界一強いのだろう? だったら、俺の霊力を破ってみろ」

「やってやるぅーーッ!!」


 ふるすましは両手を突き出した。両拳に力を乗せ、顔を真っ赤にして吠える。踏ん張るために力を入れた足が、地面にめりこむ。

 だが、天の霊力が放つ壁を打ち破ることができない。少しでも力が抜けると、押し返されてしまう。

 天は冷ややかに笑った。


「これが霊力の差だ。おまえは特別な力を与えられているだけで、霊力自体は上がっていない。所詮は小鬼。俺には勝てない」

「ふざけるなぁぁぁーーっ!!」

「ところで、文香」


 ふるすましが絶叫したにもかかわらず、天は体勢を変えた。天の右手は突き出したままだが、体勢を横向きに変えて、文香と顔を合わせた。

 天は冷静な態度を取っているが、顔は上気し、髪が乱れている。霊力を放つ行為が楽なものではないと、額に浮いている汗からわかる。

 それでも、天は口元を綻ばせた。文香を安心させようと努めているのが伝わってきて、文香は涙目で微笑んだ。


「転んだのを見たが、走れそうか?」

「はい」

「悪いが、一人で蔵に行って、羽団扇を取ってきてほしい。できるか?」

「はい!」

「いい返事だ」


 天は左手の人差し指を立てると、「グヌッチソカマダランティス」と呪文を唱え、指先に息を吹きかけた。

 人差し指の先が光る。天はその光る指先を、文香の額に当てた。


「あったかい……」

「呼応の呪文だ。困ったことが起こったら、俺の名を呼べ。すぐに助けに行く」

「ありがとうございます」


 天は文香をじっと見つめた。しばらくして、天は張りつめた声で訊ねた。

 

「俺と運命を共にすると言ったが、その気持ちに変わりはないか?」

「はい。ないです」

「そうか……。団子は好きか?」

「え? あ、はい」

「美味しい団子屋がある。終わったら、食べに行こう」

「はい……」


 なぜ今、団子の話?

 文香は不思議に思ったが、生きる覚悟をしているからこその発言だと気づく。


 自分たちは死なない。ふるすましを倒して、団子を食べに行く。


 文香は明るい未来を思い描いて、ふわりと笑った。天も、愛おしいものを見るように金色の目を柔らかく細めた。

 しかし天の笑みはすぐに消え、決意をたぎらせた強い眼差しへと変わる。

 天は体勢を正面に戻して、命じた。


「振り返らずに、全力で走れ」

「はいっ!」


 天の両手のひらから強烈な光が放たれ、ふるすましを吹き飛ばした。

 大きな音が鳴り渡る。ふるすましが飛ばされた方向には、宿屋の建物があった。もしかしたら、ふるすましの巨体が建物を壊してしまったのかもしれない。

 振り返りたい。だが、文香は蔵だけを視界に入れて走る。その背中に、覚之進の叫び声が届く。


「文ちゃん、心を強く持ってください!! ここにいるみんな、文ちゃんが大好きです!!」

「覚ちゃん!?」


 覚之進が生きていた。意識を取り戻した。良かったと心から安堵し、覚之進の無事を自分の目で確かめたいとの誘惑に駆られる。

 しかし文香は、振り返ることなく走った。


 文香は蔵に着くと、開け放してある扉の先へと進んだ。

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