第7話 わからない

「天に足りないのは、ずばり、愛ね」


 きっぱりとした口調で答えた母親に、天は不機嫌になった。両耳の穴に、人差し指を入れる。


「聞き飽きたー。愛ってなんですかー。おいしいんですかー」

「茶化さないで、真面目に聞きなさい! あなただって、天に足りないのは愛だと思うわよね?」

「それもあるだろう。ところで、天。お嬢さんの名前を教えてくれないか?」


 父親は柔和な眼差しを天に固定したまま、訊ねた。天は目を泳がせ、額を擦った。


「……本人に聞いたら?」

「あなたまさか、名前を聞いていないの?」


 疑問を放った母親に、天は間髪入れずに叫んだ。


「聞いた! 名前を聞いた。だけど……。十五歳だということは覚えている。いや、十六歳?」

「馬鹿っ!! 聞いても忘れたなら意味ないでしょ! あんたは子供の頃からそうだったわ! 自分の興味のあることにしか目を向けず、興味のないことには手をつけようとしない。年頃になれば女の子に興味が出るかと思ったのに、いつまでたっても男友達とつるんで悪戯ばかり。美男子に産んであげたんだから最大限に活かしなさいよ! あんたと結婚したい女はそこらへんにゴロゴロいるんだからその中から一番いい女を選べばいいでしょ! それなのによりによって白蛇神社の娘なんて! わかっている、理解しているわ! 宿のために身を捧げてくれたのよね。だけどね、あんな生意気な小娘の姑にならないといけない私の身にもなりなさいよ! あの結婚の条件五箇条はなんなの!? 結婚の条件その壱、妻を一番にすること。条件その弍、妻の行動と金遣いに口を出さないこと。条件その参、夜遊びを黙認すること。条件そのよん、結婚しても恋愛する自由がある。条件その伍、働きません。……嫁に来なくていい! 迷惑だわ!」


 母親は相当に鬱憤が溜まっていたらしい。目をつり上げ、ものすごい早口で捲し立てた。

 文香は、それを唖然と見ていた。聞き取るのが難しいほどの早口なのに、一度もつかえないことに感心する。


 あやかしの世界も大変だと同情していると、父親が話しかけてきた。


「お嬢さんの名前を尋ねる前に、私たちの名を明かさないとね。私は山成やまなりで、妻は天音あまね。私は天狗ではなく、山男という妖怪だ。婿養子でね。だから、この宿の主人は天なのだよ」

「教えてくれてありがとうございます。私は、遠野文香といいます。十六歳です」


 目が合うと、二人は自然と笑い合った。

 山成は垂れ目だが、笑うと目尻がさらに下がる。布袋様のような柔和な笑顔に、緊張がほぐれていく。

 天は外見と雰囲気は母親似だが、人懐こい笑顔は父親譲りらしい。

 

「ところで、文香さん。花嫁の代わりになること、天が押し付けていないかい?」

「そうだわ! 文香ちゃんの話を聞いていないわね。どうなの?」

「押し付けたわけでは……」

「天には聞いていない。だまらっしゃい」


 天狗の宿屋に来てから一時間も経っていないが、力関係がわかった。母親の天音が強い立場にあるらしい。


 天音に黙れと命じられて、天は気まずそうに口を閉ざした。文香に向けられた天の目が、(俺、押し付けていないよな?)と訴えている。

 天にしてみれば、押し付けたわけではないのだろう。文香が嫌と言わなかったから、了承したと受け取ったということ。

 だが文香にすれば、押し付けられたと感じるところはある。けれど、自分が気が弱く、はっきりしない性格だから、このような成り行きになったのだと理解している。


 文香が「押し付けられていません」と答えたところ、両親は代わる代わる訊ねた。


「結婚式に出ることになるのだが、本当にいいのかい?」

「天は押しの強いところがあるから。本当に押し付けられていない?」

「花嫁に対して、憧れがあるだろう。それが一晩だけの身代わりとはいえ、好きでもない男の花嫁になるのだ。もちろん、本物の夫婦になるわけではないが。文香さんは優しいお嬢さんのようだから。断れないでいるのなら、言ってくれ」

「私たちのせいで、迷惑をかけてごめんなさいね」


 天は立ち上がって以降、座り直さずに、ソファーの脇に立っている。

 文香が戸惑いの目を向けると、金色の瞳が優しく細まった。


「気が急いでいて、文香の気持ちを聞くのを忘れていた。悪かった。嫌なら、断ってくれていい。文香の気持ちの方が大事だ」


 頭が真っ白になる。


 ──気持ち?


 気持ち。気持ち。自分の気持ち。……気持ちって、なに?

 

 今まで一度も、気持ちを聞かれたことがない。それだけじゃない。なにを考え、なにを思い、なにをしたいのか。誰一人、聞いてこなかった。

 学校に行かずに弟たちの面倒を見ることも、農作業を手伝いながら家の掃除や料理や洗濯をすることも、料亭に働きに出ることも、すべて両親が決めた。

 着物も下着も全部お下がりで、それらが文香の好みに合っているかどうか、母親もお下がりをくれる料亭の女性たちも、聞かない。

 なにも決めず、なにも選んでこなかった。

 人が言うことに頷き、与えるものを受け取ってきた。大人たちの命令に従うのを当たり前に思って、従順に生きてきた。


 それなのに、今。気持ちを聞かれている。

 求められている返事が「はい」「いいえ」ではないことに、混乱する。

 心臓が嫌な音を立てる。呼吸が浅くなる。指先が冷たくなる。頭がぼーっとする。込み上げてきた涙で、視界が霞む。

 どうしたらいいのか、わからない。気持ちも言葉も見つからない。


 自分では決められない。天に決めてほしい。命令してほしい。

 そう言おうと思い、彷徨わせていた視線を再び天に向けた。


「あなたが……」


 あなたが決めてください──そう、言おうとした。けれど、言葉が途中で止まってしまった。


 ──身代わりの花嫁にならなくていい。いますぐに家に帰す。


 そう、言われたら?

 脳裏に浮かんだ可能性が恐れとなって、心に波風を立てる。

 涙腺上で踏ん張っていた雫が、ぽろっと落ち、頬を滑り落ちていく。


 ……嫌だ。帰りたくない。あともう少しだけ、この優しい世界に身を置いていたい。


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