天狗の宿屋〜身代わりの花嫁は愛を乞う〜

遊井そわ香

第一章 恩返しは身代わりの花嫁

第1話 狐の笑い声

「お腹が空いた……」


 文香ふみかはお腹に手を当てた。すると、空腹を訴える音とともに振動が手のひらに伝わってきた。


「急いで帰ろう。晩ご飯抜きにされたら、悲しいもの」


 冬の訪れを告げる風に、文香は体をブルっと震わせた。着物の襟合わせの上に手を置き、風が胸元を冷やそうとするのを防ぐ。

 十一月は日が暮れるのが早い。太陽は山の向こうに姿を消し、青かった空は赤紫色へと変わった。

 早足で歩きながら、空を眺める。

 不思議な色合いをした赤紫色の夕空と、こちらに迫ってくるように伸びている雲。


 文香の祖母は言っていた。


「逢魔が時は、大きな災いが起こりやすいと言われておる。それだけじゃなし。人間ではない者が歩いているから、気をつけんしゃい」


 文香は周囲を見回した。田んぼにも畑にも、人の姿はない。人家は田んぼの向こうに点在しているが……家の中に人はいるのだろうか?


 ──もしかしたら、この世界にいるのは、自分一人。他の人は消えてしまったのでは?


 豊かな想像力が悪いほうに働いてしまい、文香は無理矢理に笑った。


「そんなわけない。早く帰ろう」


 言葉も心も先を急いでいるのに、鼻緒が切れてしまいそうな草履が走ることを許さない。

 文香は鼻緒が切れないことを祈りながら、怯えてしまった心を励ますように言い聞かせる。


「大丈夫、いつもの道だもの。変なことを考えている暇があったら、足を動かす。早く帰らないと、奥様に叱られてしまう」


 遠野とおの文香ふみかは、料亭で女中として働いている。年が一番若いため、雑用を押しつけられることが多い。

 今日は女将の神経痛の薬を買いに、隣村までお使いに行った。贔屓にしている医者は薬の調合がうまいものの、老人特有と言うべきか、昔話を好む。

 文香は、その話は聞き飽きました、とは言えずに、辛抱強く聞いた。しかしそのせいで、医者の家を出るのが遅くなってしまった。

 金乃こんの料亭の女将である志津子は、気が短い。さらには、癇癪持ち。使用人の晩ご飯を抜くことも、手を上げることも、彼女にとっては良心が痛むことではない。


 文香は稲が刈り取られた田んぼの間の道を抜け、森へと入った。

 冷たい夕風が木々を揺らして、不気味な音を響かせる。さらには、狐の鳴き声が気味の悪さに拍車をかける。


 文香は周囲に目を向けず、なにも聞こえないふりをして、一心不乱に歩く。おかげで、体が温まった。

 この分だと暗くなる前に帰れそうだと、気を緩ませた瞬間。

 ぶちっと、鼻緒が切れた。

 文香は前につんのめり、膝と手のひらを地面についた。


「痛いっ!」


 擦ってしまった手のひら。しかし、血が滲んでいる手のひらよりも、痛みの激しい場所がある。

 右足の足袋を脱ぐ。親指と人差し指の間を見ると、皮膚がべろっとめくれている。鼻緒が切れそうだと、力を入れて歩いてしまったせいだ。

 文香はため息をこぼすと、右足の草履を手に持った。履き古した足袋で、凸凹の道を歩く。


 金乃料亭から隣村の医者への往復には、慣れている。どのくらい歩けば森を抜けるか、わかっている。

 それなのに、歩いても歩いても森を抜けられない。しまいには、どこを歩いているのかもわからなくなってしまった。

 狐の鳴き声が、森にこだまする。


「こぉーん、こぉーん、ぎゃはははは!」


 笑っているかのような鳴き声に、文香は身を震わせた。

 何気なく空を仰ぐと、森の上に広がっているのは、不思議な色合いをした赤紫色の空。


「空の色が変わっていない……」


 ゾワッとした恐怖が背中を這い、鳥肌が立つ。


「うふふふふ。迷い込んだことに、ようやく気がついたみたい」

「鈍い子ね」

「どうする?」

「そうねぇ……。お化けを出して、驚かせちゃう?」


 どこからか聞こえてくる話し声は、無邪気で幼い。小さな女の子たちが喋っているかのよう。だが、話の内容は物騒だ。

 

 文香は両肩を抱いた。目だけを動かして、周囲を窺う。

 お化けを出すと聞いたせいで、木の幹にあいた穴がお化けの顔に見えてくるし、風にざわざわと揺れる茂みの向こうにはお化けがいるのではないかと想像してしまう。


「ど、どうしよう。に、逃げなきゃ……」


 両肩を抱いている手が小刻みに震え、歯がガタガタと鳴る。

 文香は無我夢中で走った。左足は草履を履いているが、右足は足袋。体の均衡が崩れたせいで、目の前の世界も左右にぶれる。


「こぉーん、こぉーん、ぎゃははははははは!」


 狐の笑い声が大きくなる。走っているのに、狐の声が遠ざからない。

 明らかにおかしい。もしかして、異界に足を踏み入れてしまった?

 文香は気が動転していたため、地上に張り出している木の根に気づけなかった。右足が引っかかり、勢いのままに転ぶ。


 狐の笑い声が止んだ。


「あ、転んじゃった」

「可哀想」

「うちらのせいじゃない! 人間が森を壊すせいで、仲間の住処が減っているんだから。いい気味!」

「そうそう! うちらを敵に回すと怖いってことを知らせないとね」

「でも、やっぱり可哀想。この子、小さいよ」

「小さくたって、そのうち大きくなる! そしたら、この子だって森を壊すに決まっている!」


 文香は両腕を突っぱねて上半身を起こすと、俯いたまま、謝罪した。


「すみません。あなたたちの住む森を壊して、すみません」


 木の幹の後ろに隠れていた女の子たちは、顔を見合わせた。


「謝ってきた」

「こんな人間、初めて。どうする?」

「どうするって……」



 





 

 

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