百万の契約
青いピアノ
第1章 契約と秩序
第1話 契約の世界
五日前、僕は朝食に"死"を食べた。
苦みのある、乾いた契約書の一片——口に入れた瞬間、喉が焼け、視界の色が裏返った。
それで、正式に「契約者」になった。
十五歳で七百八件目だ。
窓の外では、灰色の空がまた一つ、都市を呑み込んでいた。爆風で雲が割れ、契約による秩序を失った区域が灰になった。
国民国家というシステムは、ほとんどが崩壊した。
法などというものは、もはや存在しない。
残された人々は、己の身を守るため、あるいは欲望を満たすため、血と硝煙の匂いが染み付いた契約を交わし続ける。
こうして、世界はなんとか回っている。
契約が、かろうじてそれを繋ぎ止めている。言葉ではなく、取引と駆け引きの生じる契約だけが。
この世界では、人によっては一生のうち、百万回契約を結ぶとも言われる。
まだ若い少年少女は大袈裟だと言う。
社会をよく知る大人は百万では足りないと言う。
それほどまでに契約が当たり前で、重視される。
重要度の低い契約は、同意の言葉や署名を一筆書くだけで完結することもあるが、重要な契約であれば魔法で身体に契約印が刻まれる。
契約印は印を刻んだ者が契約内容を忠実に守ることを保証する大事なものだ。
契約印のない者は、社会の一員としてみなされず、世界の周辺に追いやられることもある。
自分を認めてほしいと願う人々は、仮にそれが不公平な契約であっても、あるいは、仮にそれが死へと導くようなものであっても、契約を交わすことで自分たちの存在意義を見出すようにもなったのだ。
「おめでとう。あなたとの契約は成立した。契約管理番号は――CR-RG/2002-A」
男は微笑んで、僕の左手首に魔法の杖をかざした。
痛みはなかった。
ただ、時間の流れがねじれたような音がした。
その瞬間から、僕は僕だけのものじゃなくなった。
この世界のどこかで、まだ会ったことのない誰かの未来と、僕は結ばれた。
契約が完了すると、部屋の空気が変わった。
重力が、少しだけ重くなった気がした。たぶん、気のせいじゃない。契約とは、文字通り「重み」を持つのだと、誰かが言っていた。
「契約の有効期間は五年。本日より、椿、お前は契約管理官として
二階の高さからそう言った男の声は、機械的で、けれど妙に滑らかだった。
男の顔と手には、契約印が無数にあった。どれも古びていて、焼き印のように黒ずんでいる。彼がそれだけ多くの契約を履行し、生き延びたという証だ。
「質問は?」
「……特には」
僕がそう言うと、男はすぐに背を向けた。
僕を二階の高さから囲って見つめていた十人のベテラン契約管理官も静かにその場を去った。
左手首に、焼き付けられた感覚。
そっと袖をめくると、真新しい鎖状の契約印がうっすらと光っていた。
一人取り残された小さな部屋で、僕はつぶやいた。
「
魔力を契約印に流し込むと、大きな革製の契約書がぽんっと現れた。
『任務要約: 東の国の霞山町にて偽装契約の疑いあり。契約者たちを探し出し、監視の上、契約書の正当性を確認せよ。その後、現契約書継続又は破棄及び正規契約の必要性に関わる判断を本部へ仰げ。監視対象者――
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