4
午後になると雨風がいっそう強まった。窓ガラスが割れてしまうのではないかと心配になるが、そんなことは現実には起こらない。
ショウは三〇三号室へ行き、サクラを訪ねた。
「サクラ、いるか? ショウだ」
扉を開ける前に声をかけると、中から足音がした。
「どうぞ、入ってください」
すぐに扉を開けて中へ入るショウだが、何故かサクラは玄関を上がったところに立っていた。
「もう一度話を――」
「わあ、髪の毛切ったんですね!」
と、彼女に
「あ、いや」
「もうちょっと前髪、切ればよかったのに」
「これでもけっこう妥協したつもりなんだが……」
「まだ目が隠れてるじゃないですか。後ろの髪も長いですね」
どうやら部屋の中には入れてくれないらしい。玄関で立ち話を余儀なくされ、内心苦い思いになった。
「ああ、長いのが普通になってたからな。急に短くなると落ち着かないから、襟足だけ長めにしてもらった」
「そうだったんですね。髭も剃りましたよね?」
「ああ、ナギが綺麗に剃ってくれた」
「その方がいいですね。似合ってます」
話題が一段落したのを察しあらためて問う。
「それで、もう一度話を聞かせてもらいたいんだが」
サクラはにこりと微笑んだ。
「わたしから話すことはもうありませんよ」
「……話したくないのか?」
彼女は首を横へ振った。
「話すことはもう無いんです」
どうやら話したくないのではなく、話せない事情がありそうだ。ショウは彼女の背後に何か不穏なものを感じ取ったが、詮索は無駄だと判断した。
「分かった、すまない」
「いえ、こちらこそすみません」
すぐに背を向けようとしたが、ショウは靴箱の上に救急箱があることに気が付いた。
「救急箱?」
思わず怪訝になって口に出してしまうと、サクラが答える。
「せめてもの罪滅ぼしです。わたし、他の人たちみたいに好きなことや特技があるわけでは無いので」
「そうなのか? いや、お前が言うんだからそうなのかもな」
腑に落ちないショウだったが、ふと箱の中身が気になった。
「これ、中を見せてもらってもいいか?」
「え?」
不思議そうに目を丸くするサクラへショウは言う。
「もうずっと昔のことだけどさ、オレ、医者になりたかったんだ」
「ああ、興味があるんですね」
「うん。これからこのマンションで暮らしていくためにも、把握できるものは把握しておきたい」
「分かりました」
サクラは玄関へ下りると救急箱を手に取った。
「どうぞ、座ってお話しましょう」
と、玄関マットの上へ腰を下ろした。
間に救急箱を挟んで、ショウは隣へ座る。サクラが蓋を開けて中を見せた。
「もう使用期限は過ぎちゃってるんですけど、アルコール消毒液とガーゼや包帯など、応急処置はできるようになってます」
「絆創膏にテーピングもあるのか。わりとそろってるじゃないか」
救急箱には思っていたよりも中身が入っていた。
「湿布は二枚しかありませんけどね。元々、このお部屋に残されていたものなので」
「ああ、そうか。それでも怪我の処置ができるのはいいことだ」
と、ショウは言ってからサクラへたずねた。
「それでさっきの話なんだが……」
「ごめんなさい、その手には乗りませんよ」
サクラがにこりと笑いながら救急箱の蓋を閉めた。穏やかで優しい彼女だが、意外と芯が強いらしい。
それでもどうにかして情報を引き出したい。無関係な雑談でも、先ほどの話を解読する糸口になるかもしれないのだ。
救急箱を靴箱へ戻す彼女を見上げ、ショウは言った。
「お前、キリと仲が良かったんだよな? 彼女の部屋から何か無くなったものがないか、見てもらえないか?」
振り返ったサクラはきょとんとしていたが「それくらいなら……」と、承諾してくれた。
キリの部屋へ向かうため、時計回りに廊下を進んで行くと向かいから人が歩いて来るのが見えた。
サクラはすぐに端へ寄ってすれ違えるようにと気を遣う。やって来た人物はハルトだった。
「ありがとう」
「いえ」
と、二人が短い会話を交わし、ハルトは彼女の後ろにいたショウをちらりと見てから、すぐそこの三〇六号室へ入って行った。目指す三〇七号室は彼の来た方向にあるため、サクラは道を譲って邪魔にならないようにしたのだ。
「そういや、アトリエって言ってたような」
ショウがナギから聞いた情報を思い出しながらつぶやくと、サクラはどこか自慢気に答えた。
「そうなんです。ハルトさんは芸術家なんですよ」
こんな時代に芸術家とはお気楽なものだ。どうせ暇つぶしに適当な絵でも描いているのだろうとショウは思った。
三〇七号室へ入り、サクラは自分のランタンでリビングを照らした。後ろからショウもランタンを掲げつつ言う。
「どんな些細なことでもいい。無くなったもの、変わってることがあれば知らせてほしい」
「分かりました」
返事をした直後だった。テーブルの上を見たサクラが首をかしげた。
「あれ?」
すぐに寝室へ行き、棚の引き出しをいくつか確認してからショウの元へ戻って来る。
「無くなってます。キリさんのスマートフォンと多機能発電機です」
「本当か?」
「はい。いつもならテーブルの上、この辺りに置いてあったんです」
示された場所を見ると、プラスチック製の籠があった。中に入っているのはスマートフォンの充電器と思しきケーブルのみだ。
「たまに引き出しにしまわれてることもあったんですが、そっちにも入ってなくて」
サクラの声がか細くなり、ショウはできるだけ優しくたずねる。
「スマホはどういうやつだ? 色は?」
「赤色です。少しくすんだ感じのもので、キリさんによく似合ってました」
「発電機の方は?」
「えっと、ラジオが付いてて、手回しで発電できて、ライトにもなるものでした。少し大きくて、色は黒です」
「なるほど。ありがとう、サクラ」
「はい……」
彼女はよほど気にかかることがあるのか、だんだんと表情が暗くなっていくようだ。
「他に変わったところはあるか?」
「いえ、無いと思います」
「そうか。じゃあ、えーと」
他に引き出せそうな情報がないか考えていると、彼女がさっと背を向けた。
「もう用は済みましたよね、わたしはこれで戻ります」
ショウの返事を待たずしてサクラは玄関へ行ってしまった。
どうにも様子が変な彼女だが、これ以上しつこくしても聞き出せるとは思えない。仕方なくショウも自分の部屋へ戻ることにした。
一人で昼食を食べたのはいいが、気持ちがそわそわしてしまって落ち着かなかった。
他にも調べられそうなことがないかと思って廊下へ出ると、タケフミと出くわした。
「お、髪切ったのか」
「ああ、ナギが切ってくれた」
「よかったな。それで?」
と、たずねる彼は二〇四号室の前にいる。少々困惑しつつもショウは正直に言った。
「食料について見ておこうかと思ってた」
「それならいいタイミングだったな。俺も用があったんだ、付いてこい」
タケフミがそう言って扉を開け、ショウは後に続いて中へ入った。
「うわ」
玄関には食料の並んだ棚があった。かつて店で並んでいた商品のように、種類ごとに分けて置かれている。
「すごい量だろ? 初めて見るやつはみんな驚く」
「そりゃあ、だって、こんなに食料があるなんて夢みたいだ」
ショウの感想にタケフミはふっと笑い、棚の横にかけていた在庫管理表へランタンを近付けた。
「ちゃんと数を数えて在庫管理をしているんだ。勝手に持ち出されたらすぐに分かるぞ」
「なるほど、きっちりしてんだな」
リーダーとしてやることはきちんとやっているようだ。頼れるのは腕っぷしだけではないらしい。
よく見ると端の方に盗まれた食料の記述もあった。
「盗まれた分まで書き留めてるのか?」
「当然だ。何がいくつ盗まれたのか、記録しておいた方がいいだろう」
「ふーん」
どうせ戻ってくることはないのだから、書いても意味が無いとショウは思う。しかし、タケフミには神経質なところがあるのかもしれない。
「奥にもたくさんあるが、見たいか?」
「ああ、見せてもらえるなら」
「来い」
タケフミが室内へ上がり、リビングダイニングへと進む。薄暗い中でも他の部屋と明らかに違うのが分かり、ショウはまた驚きの声を上げてしまった。
「嘘だろ、こんなに……全部、食料なのか?」
「ああ。周辺の街をくまなく探してかき集めた」
通路を残して、部屋の中がすべて段ボールで埋まっていた。こちらも種類ごとに置かれており、未開封のものさえある。
「すげぇ……」
思わず手を出しそうになってショウは耐えた。あまりここに長居していたら、かつての悪癖が出てしまいそうだ。
幸いなことにタケフミが後ろを振り返ることはなかった。奥の部屋の扉を開けて言う。
「こっちの部屋にもあるし、そっちも同様だ」
二つある洋室のいずれにも段ボールが積まれていた。
「これ、あとどれくらい食べていけるんだ?」
「一年か二年くらいはいけるだろうな」
「二年……」
ここにいる限り、二年もの未来が保証されている。ずっと旅をしていたショウにとって、本当に天国のようだった。
「お前、マスターキー持ってるんだろ? この部屋に鍵かけなくていいのか?」
「それは俺も悩んだよ。けど、ここにある食料だって盗んだようなものなんだ。そこまで厳重に管理するものでもない」
「ああ、そういうことか」
マンションに元々あったものとは考えにくく、よそから持ってきたと言われると納得できた。
「ほとんどは南東の方にあった公民館で見つけたものだ。地下にシェルターがあってな、そこに放置されていた非常食を何日もかけて運んだんだ。信じられないだろうが、この辺りもずいぶん派手に荒らされてたからな」
と、タケフミが表情を険しくさせる。
「どこかの悪いやつらに街が破壊されて、住んでた人たちは殺されたか、逃げて行ったか……。せっかくの地下シェルターには使われた形跡がなくて、悪いやつらに見つかることもなかったんだ。俺たちは幸運だった」
「オレもその幸運にあずかれた、ってわけか」
「そうなるな。本当にこの悪天候で、よく生きてたどり着いたもんだ」
と、タケフミが感心と呆れの混ざったような顔でこちらを見下ろした。
自分より十センチ以上も大きな相手だと思うと、体が無意識に恐怖を覚えてしまう。しかしショウは気を強くして返した。
「まだ死ぬわけにはいかないからな」
「ほう、死にたくないのか」
「ああ、オレは生きたい。生きてやりたいことがある」
「立派だな」
彼は皮肉まじりに言い、ショウは不思議に思う。
「お前だって、生きるためにここで暮らし始めたんじゃないのか?」
「いや、身を隠す場所が欲しかっただけだ。別に積極的に生きたいと思ってたわけじゃない」
気になる発言だった。詮索しようかどうか迷っていると、タケフミが先に教えてくれた。
「あの時はハルトを連れて逃げるしかなかったんだ。一緒にいるためには他に誰もいない場所がよかった。ただそれだけのことだ」
「なるほど」
彼らがここへ来るまでに何かしらのドラマがあったようだ。今はその情報だけで十分だと思えた。
「それで、お前は倉庫で何を?」
「話してやってもいいが……口は堅い方か?」
「内容によるが、ぶっちゃけ他人の秘密とかどうでもいい」
「……分かった」
タケフミは右手の部屋へ進んで行くと、何かを手に戻ってきた。
「念のため、
彼が持って来たのは紙パックの野菜ジュースだ。差し出されたショウはたずねる。
「まさかこれ、お前だけ飲んでたのか?」
「ああ、非常食だけでは栄養が偏る。栄養が偏ったら筋肉が維持できない」
「道理でいい体してやがるぜ……」
満足な食事が取れず痩せた人間ばかりの中で、タケフミだけが足りない栄養をちゃっかり補給していたらしい。管理者が横領するのはよくある話だが、彼も例に漏れず人並みに悪いことをしていた。
ショウはにこりと笑いつつそれを受け取った。
「分かった、もらっておく」
「言っておくが、他のやつにはしゃべるなよ」
「ちなみにハルトにも内緒か?」
「いや、あいつは知ってる」
「そうか。じゃあ、オレはもう戻る」
と、背を向けてから気が付いた。
「これ、手に持ったままだと誰かに見られるんじゃないか?」
「すぐ隣だろ、服の中にでも隠せ」
「うーん、鞄があればよかったんだけどな」
ショウのつぶやきにタケフミが言う。
「順序が逆だが、マヒロならそういうのたくさん持ってるから、欲しければ行くといい」
「おう、そうか。ありがとう」
自分の鞄はくたびれてボロボロになっているため、新しくもらえるならそれがいい。
廊下に誰もいないことを祈りつつ、ショウは野菜ジュースを手にしたまま玄関へ向かった。
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