第64話 雉は啼く

 十一月十五日。遣唐使は出帆の日を迎えた。


 空は順天で、海に吹きつける季節風も網代帆にまんまんたる推進力を送り込む。


 誰もが吉日であると疑わず、四つの縦列は海にむかって江上に白波を立てたが、半刻も経たない内に、第一船より碇を下ろすように伝令がとどいた。そのまた半刻ほどあと、事の次第が伝わってきた。


 清河卿と仲満がのっている第一船の鼻先を掠めるように一羽の雉が横切ったらしい。


 元来、迷信深い船乗りたちは、これを海難の予兆だとして、断乎として航行を中止するように要請した。


 ともすれば一蹴するべき迷信だが、海という魔界において、船乗りたちの機嫌を損ねるのは尤も注意すべき事柄である。清河卿の下知により、四船は江上で碇をおろし、翌朝を待って出発した。


 この間に一通、夜の波間をぬって封書が送られている。

 差出人は古麻呂で、勇猛な筆致で一文だけ、こう書かれていた。


『大納言のこと心配要らす。天は我に罰せりといえり』


 真備はこれを一読したあと、微塵に破り、海に撒いた。真備の胸中は複雑であった。頼もしいと思う半面、あらたな火種をみるようで、憂鬱であるし、なにより一大臣を弑することを他人に文する軽率さに、彼の携えた運命を見た気がした。


 ――事実、彼は無事帰国したが、藤原仲麻呂を排斥する橘奈良麻呂の乱に参画するが、事前に自らの過失で乱を露呈させ、獄中で杖下むちうちの中に亡くなる。


 真備が先の歴史を知る由もない。しかし怪力乱心を語らない彼の心に、雉の不吉な鳴き声がいつまで経っても消えなかった。


 真備の不安をよそに、出航から三日目まで、比較的穏やかな波と季節風によって、南島路を順調に進んでいたが、胸をなで下ろしたのもつかの間、夜になって冬の薄くたちこめる蒸発霧にまかれたとみるまに、真備の乗る第三船は僚船を見失い、四日目の払暁と霧が晴れると、水平線には一船として船影を見られなかった。


 真備の乗船する第三船は、深い紺碧の東シナ海の波間を、単独で航行しなければならなくなった。誰もが漂流を危ぶんだが、六日目の夜、無事に阿古奈波(あこなわ)(沖縄)に着いた。


 翌日、空を映したような遠浅の薄い水色の沖に、第一船と第二船が現れた。


 先行していたのは真備たちのほうだったのだ。清河卿や仲満、また古麻呂と無事を喜び合ったが、いくら待っても第四船は現れることはなかった。ここにあって、第四船は消息を断ったのである。「無事を祈るほかない」と、誰もが挨拶のように頻繁に口にしたが、どこか空々しさがあった。


 他人の心配に心を砕くには、阿古奈波島は遠すぎた。南島路はこれより多禰たね方面(大隅諸島)に進発、益救島やくしま(屋久島)を経て南九州に帰着する。現在の距離にして約八五〇キロ。ようやく折り返し地点に到着した程度である。海の機嫌もあるが、気まぐれな南風が強く吹けば、たちまち東シナ海に吹き戻されて、南西に漂流する。


 各船の船頭は気を緩めることなく、慎重に潮目を観察して、十二月五日の夕闇になって、ようやく明日の出発を決めた。島の岩礁に立って海を眺めていた真備のもとに仲満が尋ねてきたのは、まさにその決定を各船に通達した、その直後のことだった。


「何を眺めている」


「唐だ。我々が来た道を」


 真備は島の岩礁の上で深藍色の沖を眺めていた。彼のほかにも、多くの乗船者が挙って陸にあがって、願掛けのように硬い地面を何度も踏みしめていた。


「よく阿古奈波まで着いたものだな」


 世界地図を広げて、上海から沖縄、そして鹿児島に線をひけば、彼等の航路はアルファベットのVを描く。航路というより漂流経路というべきで、とことん命がけであった。


 仲満は隣りに立った。岩礁によせる波が、ふたりの足を濡らした。


 二人は示し合わせたように夜を覗いていた。満々たる月は天地を蒼く照らし、刻一刻と宵闇の染まっていく波間には、牛の乳を垂らしたような天の河が帯のように漂っている。


「天の原」仲満は詩情に誘われる儘、題材となる月を歌に落とし込んでいく。「ふりされみれば 春日なる三笠の山に出でし月かも」


「・・・・・・よい歌だ。昔と変わらず、お前の読む歌はいい」


「そうか」仲満は先程から月を題に詩想を尽くしていたのか、ようやく納得が言ったらしく、噛み締めるように言う。「ならば傔人には、この歌を餞別として持って帰らせよう」


「餞別?」


「真備よ、俺と共に唐に戻らないか」


 死人のような顔の真備が、ぎょっと目を見開いた。


「戻るだと?」


「ここから風にのれば、おそらく安南(ベトナム)に漂着するだろう。安南には唐の六都護府がある。それから再び長安に戻るのだ」


「莫迦を申すな。死ぬつもりか」


「それはお前のほうだ。日本に戻ったとて、帝すら見捨てたその命、僻地で老いさらばえ、うれぶれて死ぬだけだ。俺はそれを友として見過ごす訳にはいかない」


 返す言葉もなかった。真備は今、海難による壮絶な死か、帰国して暗然と死を待つか、その二択しかない。そこへきて仲満が第三の選択肢を提示したのである。


「・・・・・・なぜ、今なのだ。揚州で引き返すことも出来ただろう」


「それでは日本にも唐にも申し訳が立たん。俺はいまや遣唐使の一員なのだ。だから漂流する。第一船は漂流して再び唐にもどることとした」

 

 仲満は波間の先を指さした。そこでは忙しなく積荷の詰め替えが行われていた。おそらく第一船に詰め込まれた国信物を他の船に分散しているのだろう。


「しかし第一船で戻るとして、清河卿をどう説得した」


「卿は賛同してくださった。それだけではない。彼も共に唐に行く」


「なんだと!?」


 真備は耳を疑った。清河卿は藤原氏にとって支配権を盤石にするための重要な布石だ。まして無事にたどり着けさえすれば、彼は太政官の地位を与えられる身分。それを棒に振ってまで異国の地に戻るというのだ。


「すべてお前の御陰だ、真備」仲満はいう。「彼にとってお前という人間は、自分が如何に無償の恩恵に浴している人間であるかを思い知らせるだけでなく、自分の血筋に対する明確な嫌悪を引き起こさせたのだよ。氏族の繁栄のために、能吏を蹴落とす。唐の腐敗した政治を垣間見た青年にとって、それは自らの藤原氏の鏡映しだった。そして更なる決定打としてのお前の暗殺事件よ。高潔なる彼は自分の氏族に怒りと憂い、そして哀しみを抱き、その血筋を断ち切りたいと思うほどまで生長させた。


 ――彼は、真備、お前の勇姿を目の当たりにして、始めて個として生まれ変わろうとしている。その羽化の枝として、揺籃の日本ではなく、異境の唐を選んだのだ」


「お前はそれを肯定したのか、仲満」真備は同胞を睨みつけた。「若人がその場の熱情で道を過つ様を」


「むろん。無鉄砲な大志ながら、天晴れと思わんか」


「無益な苦境に身を投じようとする若者を前にして、止めるのが我々の責務ぞ!」


「なにをいう」仲満は呵々大笑した。「遣唐使というのは、まさにその無謀者の集まりではないか。ましてや異国に焦がれ、志だけを糧に唐に渡った俺とお前に」


 それから仲満は急に顔を引き締め、切なげな声でいう。


「真備、俺も彼と同じだ。異国の皇帝に近侍したといえば聞こえはいいが、お前のように広範な知識を得た訳でなく、出来ることと言えば、天皇の日々の慰みに唐の暮らしぶりを語ることだけだ。たがいに日本に帰る利益はない。しかし唐ならばどうだ。我々には唐の官位もあり、高力士や安禄山、そして楊貴妃との繋がりもある。若き日に取りこぼした志を改めて掲げることもできる!」


 持論から蒸留した酒で、彼はしたたかに酔っていた。身振り手振りを加えて、野望を明かす様は、在りし日の面影を残しているが、しかし老いというものが、その味わいにえぐみをあたえている。


 彼としても絶対的な希望を抱いているわけじゃない。それだけに、むしろ老いゆく命を赫々と燃やそうとする気概が、火花のように鮮烈に映った。


「禍福は糾える縄に似ている。あの雉は必ずしも不吉の象徴ではないのだ。お前も来い、真備。世直しをしよう。唐を相手取って、もうひと立ち回りだ」


 真備は仲満の広げた掌をじっと見ていた。


 白々として、澄んだ唐墨の蒼い香気を放つようだ。焦がれた唐。青春を捧げた唐。どれだけ日本で冠位を得ようと、彼の魂はやはり長安の雑踏にあった。だからこそ、その手を掴むのに躊躇いはない。


 ただ一点、この一点だけを残して――。


「雉は哀切に哭くそうだ」


「なに?」


「九州に渡ってからというもの、防人の歌をよく聴いた。歌の情景には頻繁に雉が鳴く。親子の情や恋人の情を詠うのに、あの物悲しく、呼び立てる声が、その心と共鳴するのであろうな」


「それがどうした」


「お前にはそうは聞こえまい。決して」


「なにが言いたい」


「お前の世直しは、親を求めて泣く雉を無情にも射殺すことか?」


 すうっと仲満の瞳に冷たさがまじる。

 同じ日本人の瞳ながら、その見ている世界は全く異なる。


「仲満、お前であろう。

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