第四十九話 魔術オタクは腫れ物扱いされる

その日の夜、タルムーグ魔法学院の教授棟にある大会議室には珍しくも、学院に所属するすべての教授が参集していた。普段から学院の運営に関わっている真面目な教授は勿論、自分の研究が第一で毎回の如く教授会をサボっている変人まで、全員がこの会議室に揃っている。これは一種の椿事ちんじと言えた。


広々としたこの大会議室には、差し渡し五mを超える大きな円卓が据えられている。円卓の天板は信じ難いことに重厚な一枚板で、そこにはふしもひび割れも見当たらず、磨き上げられた表面を見事な木目が彩っていた。一体どれだけの数の巨木を切り倒し、材を厳選してこの分厚い天板に仕上げたのだろうか。学院の財力を如実に示している、見事な逸品だった。


そしてこの円卓には、十人の魔法使いが座していた。その内のある者は腕組みしたまま瞑目し、またある者は怜悧な光を湛えた瞳で周囲を睥睨し、さらにある者はもじゃもじゃの髪をしきりに掻きながら宙を見上げ、ある者に至っては頬杖を突いたまま生あくびをしていた。性別も年代も、着ているローブすらバラバラのこの魔法使い達が、実はこの学院で最も優秀な十人の教授達である。


大会議室はその円卓と十人の教授を収めても半分も埋まっておらず、空いているスペースには椅子が置かれ、そこにも魔法使い達が座っていた。円卓を遠巻きにするように思い思いの場所へ椅子を据え、議論の行く末を見守っているこの魔法使い達は、一般の教授達である。つまり教授職に就いてはいるが、円卓に座る資格がある程の力量は無いと判じられた者達だ。


公平性を重んじる学院では纏め役である主任教授を除けば、教授の間に上司や部下といった上下関係は無いというのが建前だ。しかしそれでは学院の運営に支障を来してしまうので、意思決定機関である教授会を効率的に機能させるためにも、一部の教授により強い発言権を持たせている。それが円卓に座る十名の教授であり、一部では「学院の十賢」なる異名で呼ばれていた。その誰もが得意とする分野に於いては、他と一線を画する実力と実績を認められている魔法使い達である。


尤もその筆頭たる主任教授の言を借りれば、「何が十賢か。全員揃いも揃って魔法が第一で、その他は二の次の変人どもよ。無論、この儂を含めてな」となるのだが。


では円卓に席が無い普通の教授達はどうなのかというと、実は何の権限もない単なるオブザーバーである。よって、一般の教授が教授会に参加しても、後に知らされることを少々早く知ることが出来るだけであり、それ故に出席率は高くない。しかしこの日は全員参加、普段会議室に置いてある椅子では足りずに、他の部屋から椅子を持ち寄って使用する事態となっていた。今日の夕方になって急遽招集された会議だというのに、この出席率は異常である。


しかしこの日教授会に掛けられた議題を考えれば、それはむしろ当然であったろう。今回アザド主任教授が教授会を招集したのは、「学院入学三ヶ月で第一階梯の呪文十二個全てを習得したサキ・アドニ・アルカライとルリア・シャロンの両名を、第二階梯魔法使いとして認めるかどうか」を話し合うためだったのだから。


「如何にアルカライ宗家の後継者に関する事とは言え、こうも特例扱いを続けるのは少々問題があるのではありませんかな?」


そう言って疑義を表明したのは、その円卓に着く教授の一人だ。中年から初老に差し掛かろうとしている痩せぎすの男性で、細いおもてに如何にも神経質そうな薄い笑みを浮かべている。名をアヴィシャイ・ネリ。魔法戦闘の専門家として知られており、学院の教授の中でも希少な第四階梯魔法使い。そしてアザドが王国軍を辞し主任教授として着任するまでは、その椅子に最も近いと噂されていた教授でもある。


数は多くないが自身の弟子とも言える魔法使いを数人育てており、モルデカイ派と並ぶ独立派閥を率いている。実力、実績、人望ともに、主任教授であるアザドに次ぐ立場にあると言えるだろう。


アヴィシャイの発言に円卓に座る他の九名は表情を動かさなかったが、外野・・はそうでもなかった。彼等彼女等の幾人かは頷いたり笑みを浮かべたりして賛意を表明し、また幾人かは顔をしかめたり或いは首を振るなどして反感を露わにしていた。言うまでも無く、アヴィシャイに反発しているのはアルカライ派に属する教授であり、そうでないのは非アルカライ派の教授達だ。


アルカライ派は、ハノーク王国に存在する全魔法使いの過半数を占めている。しかしそれは半数近くの魔法使いがアルカライ派に属していないということでもあり、多くの場面でアルカライ派対その他の派閥連合という構図が現れることとなっている。王室魔法顧問であるレヴィの悩みの種であり、この対立構造は国政にも影響を及ぼしかねない程だ。


「そもそも今回の両名については、以前より他の学生達と一緒の授業を受けずに呪文実験室でほぼ自習のように実習を行っていたとか。さらには放課後の実験室使用許可まで受け、挙げ句にはその実験室を破壊してしまったというではないですか。いささか無軌道に過ぎますし、それを許していた教授の方々にも多少の問題があると言わざるを得ませんな」


アヴィシャイはそう続けるが、彼自身はそんなことを毛ほども思ってはいない。魔法使いにとって何よりも大事なのは自分の研究・研鑽であり、自身が少しでも高い階梯に至るための努力である。その観点からすれば、サキとルリアの二人は余りに周囲から抜きん出ているため、自分達だけで学習に取り組もうと考えるのは自然なことと言えた。


これはこの場に参加している他の教授達にとっても、多かれ少なかれ共感できる話である。アヴィシャイがことさら二人の非協調性をあげつらい、既に修復作業が始まっている実験室の件まで蒸し返したのは、単にアルカライ派を非難するために都合の良いお題目だからに過ぎなかった。


「そんなことよりも、その子達は本当にあの破壊を引き起こしたの?そっちの方が、よっぽど気になるんだけど」


そんなふうに議題に関係ありそうで実はほとんど関係ない問いを投げ掛けたのは、バティア・ギタイ教授。まだ二十代半ばという若年ながら、十賢の席を勝ち取った女性だ。銀に近いプラチナブロンドをベリーショートにしており、整った容貌と冷たく輝く切れ長の目も相まって怜悧な印象を与えている。


第三階梯だが、次に第四階梯に登る魔法使いは彼女になるだろうという声も多い。魔法理論、特に攻撃呪文の性質についての研究を専門としており、上級生の間ではバティアの授業は大変な人気がある。そんな彼女はどこの派閥にも属しておらず、アルカライ派と非アルカライ派の両方から等しく距離を取っていると噂されていた。


「それ、そんなに大事?サキ君が『僕がやりました』って言って、アルカライ家が弁償するって言ってるんだから、彼がやったでいいでしょ」


円卓に頬杖を突いたまま、バティアの言に真っ向から反対意見を述べるのはアヤラ・ツヴィカ司書長。いつものように眠たげな目をしながら、誰を見るということもなく視線を宙に彷徨わせている。自由参加とは言え一応学院の公的な集まりである教授会において、その振る舞いは到底相応ふさわしいとは言えない態度であるが、これが彼女の常であるため他の教授達ももはや何も言わなくなっている。


アヤラは図書館で司書に従事する魔法使い達を纏める立場にあるが、彼女自身第三階梯の魔法使いであり教授位も有している。教授会への参加率は高いとは言えず、出席してもこのような態度であるためそれを快く思わない教授も多い。しかし学院長が大図書館の四階を根城にしている関係上、彼の私的な秘書もしくは側用人のような立ち位置を占めているため、その発言には一定の重みがある。


「あら?本の読み過ぎで目だけじゃなくて頭も悪くなったのかしら?貴女あなたは見ていないのかも知れないけど、呪文実験室をあれほど破壊するなんて教授でも出来るかどうか怪しいわ。それを第一階梯の呪文しか使えない子供二人がやったと言われて、はいそうですかと頷いていたらそれは知性の敗北よ。教授どころか、魔法使いとしての適性も疑わしいでしょうね」


バティアが容貌そのままの冷たい声で言い返すが、何とアヤラは生あくびを一つ噛み殺すことで返答とした。アヤラとバティア、二人は同じ第三階梯で年齢も近く加えて同性と、多くの共通点を持っている。仲が良くても不思議ではないように思えるが、しかし実際は見ての通りの犬猿の仲として知られている。学生時代から事あるごとに張り合い続け、両者教授となった現在も何かにつけて衝突している有り様だ。


「あ~、ギタイ教授は三年生を主に担当しておられますからね。あの二人については詳しくご存じないでしょう?」


険悪な二人の間に割って入るように発言したのは、もじゃもじゃ髪がトレードマークのレハバム・ハザ教授だ。彼はいつものように癖の強い赤毛を手で掻きながら、ばやくように話す。


「まあ、サキ君とルリアさんだったら、何をやらかしてもおかしくないですね。それも、我々教授職の身では思いつかないような方法によって」


レハバムの発言が周囲に沁み渡ると、大会議室の中がしんと静かになった。おそらく、この場にいる教授達の多くがそれを知りたいに違いない。「一体どうすれば、あの様な威力を第一階梯呪文で出せるのだ?」ということを。


その場の誰もが口をつぐみ互いの顔色を窺う中、アヴィシャイが肩をすくめながら再び口を開く。その言葉は大会議室に集ったすべての教授の心中を代弁しているかのようだった。


「とまあ、ハザ教授はこのように仰っているわけですが、実際のところはどうなのでしょう?主任。貴方はくだんの両名から、あの夜に起きたことを聞き取ったはずです。一体何があって呪文実験室が破壊されることとなったのか、一つお聞かせ願えませんかな?」


教授達の視線が一斉に、大会議室の壁に掛けられた学院の紋章――二頭の竜に左右から支えられている盾――を背に円卓に座る、アハブ・アザドに向けられる。先程から腕組みをしたままじっと他の教授の発言に耳を傾けていたアザド主任教授は、軽く咳払いをすると重々しく語り出した。


「問題の日の夜に何があったかは、あの二人の独自の研究に関わる話でもあるので此処では話せん。お主達も魔法使いの端くれである以上は、他人の研究を盗もうとすることの愚かさは知っていよう。行き着くところは殺し合いじゃからな」


要するに、これ以上探るようであれば只では済まなくなるということだ。


「話を戻すぞ。本日サキ・アドニ・アルカライ、ルリア・シャロン、ロシェ・ラメド、イサク・ベギン、エリシェ・アドニ・シャミールの五名の一年生が、新たな呪文を習得した。このうちエリシェは三つ目、ロシェとイサクは四つ目の呪文を得たことになる。例年の一年生と比べても、かなり早い方じゃな。だが、残りの二人」


ここで彼はぐっと溜め、厳しい表情を作りながら再び口を開いた。


「サキとルリア、この二名は本日十二個目の呪文を習得した。すなわち第一階梯の呪文全てを修め、第二階梯へ登る資格を得たことになる。儂は二人の第二階梯昇格を学院で正式に認め、同時に卒業させるべきと考える。皆の意見を聞こう」


アザドの発言に、大会議室には一斉にざわめきが満ちた。円卓に座るアザド以外の十賢は黙したままだが、周囲に座す他の教授達は口々に呟き、あるいは隣の者と言葉を交わす。


「流石はサキ様とルリア様……」


「信じられん。在学中に第二階梯に登る学生は稀に居るが、一年生で第二階梯、しかも七歳だと?!」


「本当なのかしら。教授会で検分した方が良くない?」


「だがそれで、目の前で十二種の呪文全てを唱えられたらどうする?学院が公式に第二階梯を認めざるを得んぞ?」


「主任がわざわざ教授会を招集したということは、嘘や偽りではあるまい。さっさと認めた方が良いと思うがな」


「それにしても有り得ん。アルカライ派は何か、とてつもない秘密を隠しているのではないか?こんな常識外れの業績を、それも個人ではなく二人同時に達成するなど、才能だけで説明できるものか!」


「そう思うなら調べてみろよ。命が惜しく無ければな」


そこら中で漏れ聞こえる、あるいは交わされる言葉はいつまでも続くかとも思えたが、円卓から咳払いの音が聞こえてきたことで水面の波紋が消えるように鎮まった。咳払いをした当人、アヴィシャイ・ネリ教授が十分に注目を惹きつけてから発言する。


「慣例では、在学中に第二階梯に達した学生が居てもその時点で昇格はさせず、三年の卒業試験の終了とともに第二階梯に認定していたはず。この両名もそれと同様に扱って問題ないと思いますが、如何ですかな?」


彼の発言に、一般の教授達だけでなく円卓に座る十賢のうち数人が我が意を得たりと頷いた。その中にはバティアやアヤラも含まれている。


学院を卒業させるということは、一人前の魔法使いとして学院が認め後は独立独歩を促すということだ。ある者は七歳で学院から送り出すのは酷であると考え、またある者はこれ以上アルカライ派に名声を得させるのは得策でないと考えるなど、同意を示した教授達の心中も一通りでは無かった。中には「この二人絶対普通じゃないわ。何としてもその秘密を知りたいわね」とか「サキ君とルリアちゃんが学院に居た方が、絶対面白いじゃん」など、極めて個人的な理由の者も居たようだが。


「まあでも、慣例を口にするなら特例にも触れておかねば片手落ちですよね」


レハバムが相変わらず頭を掻きながら、穏やかに異議を唱える。


「過去に一人だけ、三年生になるのを待たずに第二階梯に登った者が居たはずです。ウチの師匠のことですが」


彼のその言葉に、アルカライ派に属する教授達が強く頷く。レハバム・ハザとアハブ・アザドの師匠と言えば、誰知らぬ者のない史上最強の魔法使い、エステル・アドニ・アルカライのことだ。彼女は二年生に上がると程なくして第一階梯の呪文を全て修め、結局二年生の半ばで第二階梯魔法使いと学院から認められている。


「それって噂じゃ、戦争が近かったから王家の意向が働いたって話じゃない?今回そんな横槍はないんでしょう?」


「そんな噂を真面目に受け取るより、前例がちゃんとあるっていう事実に目を向けたほうがいいと思うけどなあ」


「あら?大図書館にまつわる怪しい噂話を真剣に調べていた貴女に、そんなこと言う資格があるのかしら?」


「残念でした!その内の少なくとも一つは、最近本当だったと明らかになったんだよねー」


バティアが意見を述べ、アヤラがまぜっ返し、そして二人でいがみ合う。いつもの光景だが、今回はアヤラが最後になかなかに聞き捨てならないことを口にしていた。場の空気が怪しくなって来たことを察し、アザドが「実はな」と声を張り上げる。


「アルカライ宗家の意向は、このまま二人を三年間学院で学ばせてほしいとのことだ。二人を第二階梯と認めて今すぐ卒業させようというのは、正直なところ儂個人の発案よ。その方が、学院にとって益になると思うてな」


今度こそ、大会議室内は完全に静まり返った。アザド主任教授の発言が、余りにも予想外だったからだ。


多くの教授が、今回の議題はアルカライ派が求めて教授会に上げたと考えていた。余りに若く、そして早い第二階梯魔法使いの誕生は、派閥の声望を高め構成員の士気向上に繋がるからだ。しかし第七階梯魔法使いエステル、王室魔法顧問レヴィといったアルカライ派の首脳たちの要望は全くの逆で、サキとルリアの両名をこれまで通り一学生として扱ってほしいというものだった。これには混乱する教授が多数居たのも無理からぬことだ。


完全に発言が途絶えたことを見て取り、アザドが静かに告げた。


「では、決を取る。サキ・アドニ・アルカライ、ルリア・シャロンの両名を第二階梯と認め、学院を卒業させる案に賛成の者は挙手を」


そして、議決は為された。賛成二、反対八。サキとルリアを今すぐ卒業させようというアザド主任教授の発議は、大差で棄却されたのだった。




教授会は解散となり、参加者は三々五々と退室していく。その顔は皆一様に、釈然としないという色を浮かべている。特にそれは、非アルカライ派閥の教授達に顕著だった。


何故アルカライ宗家は、両名を今すぐ第二階梯に上げなくても良いと考えたのか。主任教授が言った、今すぐ卒業させた方が学院にとっては得策であるとはどういう意味なのか。それが分からず、本来支持していた意見が通ったのに素直に喜べないのだ。


円卓に座る学院の十賢は一般の教授達が退室するまで着座したままだったが、自分達だけとなると一人、また一人と席を立っていった。アヤラ・ツヴィカ司書長は一つ大きく伸びをして、思わず漏れたあくびを隠しもせずに。バティア・ギタイ教授はハザ教授に近づき、耳元で「今度、その子達を紹介してよ」と囁いて。


そしてアヴィシャイ・ネリ教授は椅子から立ち上がり、未だ座ったままの二名の教授をじっと見つめた。二人が瞑目したまま動こうとしないのを見て取ると、やがて微かにかぶりを振り、無言で会議室を後にする。


最後に残った二名、アハブ・アザド主任教授とレハバム・ハザ教授はしばらく黙って座っていたが、やがてアザドが大きな溜息とともに吐き出すように言った。


「あやつらを学院から放り出す策は、失敗か。ま、分かっていたことではあるがな」


「最初から通すつもりなんか無かったでしょう。何でこんな会議を招集したんです?」


レハバムの問いに、アザドは「はっ」と鼻で笑ってから答える。


「師匠やレヴィは、あれらを学院に預けておいた方が安心なのだろうが、実際苦労するのは儂等じゃからな?それに学院の教授としてはあの二人、特にサキがもたらすであろう変化は、良いことばかりとは思えん。多くの学生や教授がそれを理解できず、置いていかれることになろう。儂はそれを危惧しておるのよ」


「そういうことですか。しかし彼等を学院の外に出したら、それこそ親の目の届かぬところで何をするか分かりませんよ?下手をすると、王国中をひっくり返すような騒ぎを起こしかねないんじゃないかなあ。それよりは、主任や僕が庇ってあげられる学院に居た方がいいと思いますけどね」


年の離れた兄弟子に対してそう言い返したレハバムの目が、「諦めましょうよ先輩」と語っていた。それを正確に見て取ったアザドは、嫌そうな顔を隠しもせずに言い捨てる。


「まあ良かろう、儂もやるだけのことはやった。後は野となれ山となれ、よ。今日反対した教授達も、その時になって慌てなければ良いがな。来年あたり、第三階梯になった八歳の学生に魔法を教えろと言われて、困り果てる連中の顔が目に浮かぶわい」


「上級生が抜かされるのはともかく、教授が追い抜かれたら立つ瀬がありませんね。でも僕は来年なんか待たずに、もっと早く騒動を起こしそうな気がするなあ」


そして二人は顔を見合わせ、同時に大きな溜息をついた。それが合図のように揃って席を立つと、そのまま大会議室を後にする。


「そう言えば学外活動の件、学院長の許可が下りましたよ。急いで今から準備しないといけませんね」


「通ったか。昨年までとは違って予算をかなり使うとは言え、これからの学院には必要なことじゃからな。またアビシャイあたりが慣例、慣例と騒ぐのであろうが」


盛大にぼやきながら、しかし二人は大会議室の扉を開けて廊下に出た途端ぴたりと口をつぐみ、無言で宿舎へと立ち去って行く。もしこの場にサキが居たら、まるで二人の背中を注視するように廊下で揺らめいている微かな魔力の輝きに気づいただろう。その“見えざる従者アンシーン・サーヴァント”は完全な無音でアザドとレハバムの背後を追跡していたが、二人が一切口を開かぬまま自室に消えるのを見届けると、溶けるように宙に消えたのだった。




教授用宿舎の自室で、アビシャイ・ネリ教授は“見えざる従者”の呪文を解いて椅子から立ち上がった。そのまま壁の棚に向かって中から葡萄酒の瓶と盃を取り出すと、再び籐製ラタンの上品な椅子に腰掛ける。サイドボードに置いた盃の半ばまで葡萄酒を注ぐと、無言のまま一口含んだ。


第三階梯呪文“見えざる従者”は、大気の精霊に連なる不可視の存在を呼び出して使役する魔法。非力なため主に伝令メッセンジャーとして利用されることが多いが、見えない上に音を立てず移動できるのでスパイにも向いている。術者とは“伝言センディング”に似た遠話で会話できるほか、術者の声音を真似て他者に話しかけることも出来るため、幅広い使い方が出来る呪文だ。


今回アビシャイはアルカライ派の思惑を探るために“見えざる従者”を放ったが、これはかなり危険な行為だった。腕利きの魔法使いだらけの魔窟、タルムーグ魔法学院の教授棟でこんな呪文を使用して他の教授を探っていることが明るみに出たら、少々まずいことになるのは必至である。一般人には全く感知できない“見えざる従者”でも、練達の魔法使いになら看破する方法はいくらでもある。


勿論練達の術者の一人であるアビシャイは、そんなことは百も承知である。彼も詳細を知らない強力な魔法で防御と防諜が施されている大会議室や、各々がその趣向を凝らして守りを固めている教授の自室には、“見えざる従者”は近寄らせない。人気の絶えた廊下でアザドとレハバムの会話を盗み聞き出来れば御の字、くらいのつもりで仕掛けてみたのだ。残念ながら、得るものは無かったが。


酒杯を傾けながら、アビシャイは無言で思考を巡らせる。今年入学した一年生にアルカライ直系の者がおり、凄まじい才能を見せているということは当然早くから把握していた。その時はアルカライ派は次代も安泰かと少々羨ましく思った程度だったが、暫くしてこの二人の学生は俄然彼の興味を強烈に惹くこととなる。


転機は、エステル・アドニ・アルカライの第七階梯到達だ。彼女が王国史上最高だった第六階梯に登ったのは、今から三十年近く昔のことである。それほど長い間エステルは第七に上がれずにいたのだが、二月ふたつきほど前にとうとう、というべきか唐突にと言うべきか、空前絶後の第七階梯に上り詰めたのだ。そして時を同じくして、サキとルリアの二人の学生が異常なまでの速度で呪文を習得しつつあった。


これはもう、何かあるに決まっているだろう。エステルの長年の努力が、遂に報われただけ。たまたまこの時代に生まれたアルカライの後継者達が、異常とも言うべき才能に恵まれただけ。どちらかだけならそう考えることも出来ようが、それが同時に起こってしまえば偶然と考える方が愚かしい。


アビシャイは自身の半生を振り返る。彼が第四階梯に到達したのは三十代の半ば、それから十年以上も自身の魔法には進展がない。彼が知る限り、ほぼ全ての魔法使いは個人差はあるが三十代、早い者では二十代の終わりに伸び悩み始め、やがて新しい呪文を習得することは完全になくなり、その生涯を終える。アビシャイ自身もその停滞期に入っており、彼はもう残りの人生でこれ以上の魔法の上達は無いだろうと諦めていた。


しかし此処に、新たな可能性が見出された。アルカライ派、少なくともアルカライ宗家は何か革新的な技術なり、秘訣なりを手に入れている。エステルを第七階梯に押し上げ、二人の一年生が入学三ヶ月で全学年の学生を追い抜くことを可能にするような、信じ難い何か。それを知ることが出来れば、永年の悲願だった第五階梯に手が届くかも知れない。


アビシャイ以外にも、同じことを考えた魔法使いは多数居たようだ。エステルを訪ねて「秘密を教えて下さい」などと口にするのは恐ろしくて出来ないが、学院の学生なら何とかなるのではないかと考えたのだろう。一時期、王国中から名の知れた魔法使いが学院を訪問し、サキとルリアに面会しようと押し寄せて来た。そんなもの、知りたいのはこちらだって同じである。学生の勉学の妨げとなるという建前でその殆どを断ったが、申し出に対応するだけで学院の運営が麻痺しかけたほどだ。


では学院の教授である自分ならどうか。教授と学生という立場の違いこそあれど、同じ場所で起居しているのだから接触は容易なはずである。しかしアルカライ派の教授達が二人をがっちり抱え込んでいて、他の教授達を寄せ付けないようにしているのが現状だ。特に主任教授であるアハブ・アザド、アビシャイと同じく十賢に名を連ねるレハバム・ハザの両名が付きっきりで守っており、非常に手が出しづらい。


「それでも、諦めるわけにはいきませんね」


飲み干した盃をサイドボードにそっと置いたアヴィシャイは、そう言うと自室を照らす魔法の明かりを脳裏で命じて消したのだった。

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