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がたごとと揺れる電車やボックス席はよく見慣れたものなのに、隣にアーサーがいるだけでどことなく落ち着かない。
車窓からの景色をアーサー越しに眺めている……と見せかけてアーサーを観察しようと思っていた美寿々だが、その目論見は早々に諦めることとなった。今までに触れたことのない造形美を前に、落ち着いて凝視などできるはずがない。第一、じろじろ見ているのがアーサー本人に知られてしまったら恥ずかしいどころの騒ぎではないし、勇気は先程で使い切ってしまった。そのため、乗換まではうつむいたままやり過ごすことにした。自分の意思でそうした、というよりは、そうする他なかった、と表現する方が正しい。
(わたし……本当に家出しちゃった……)
アーサーのことをひとまず忘れようとしたのは良いものの、今度は家出を実行してしまった現実が美寿々の肩に重くのしかかってきた。
罪悪感がない訳ではない。むしろ大いにある。
家族に黙って家を出た上に、帰る算段もろくにないまま京都へ向かおうとしている。知った顔はひとつもなく、もしもまことしやかに語られる終末論が実現せずに終わったのなら、お先真っ暗な逃避行。京都に着いて、アーサーと別れることになったら、今度こそ美寿々はひとりぼっちだ。
すうと、心臓の辺りが急に冷える。どうしよう、どうしよう、今から電車を降りる? 米原で引き返したら、まだ日常に戻れるかもしれない……。
「──ミスズ?」
「わあ⁉」
視界に入り込んできたのは、夢かと思う程に端正な顔立ち。不思議そうな顔をして、アーサーがこちらの顔を覗き込んでいた。
反射的に大きな声を出してしまい、美寿々はまず赤面した。前の座席の背もたれを盾にしようと身を縮めながら、一度深呼吸をしてアーサーの方を向く。
「ななな、何?」
「すまない、驚かせるつもりはなかったんだ。ただ、もうすぐ終着駅らしいから、降りる支度をしなければと思って」
「あ……もうそこまで行ったんだ」
美寿々の反応に呼応するかのように、社内にはアナウンスが流れる。次は米原、終点です──京都へ行くには乗り換えなければならない。
どうする? 脳裏に自らの声が反響する。引き返すなら今だ。今なら、家族にも心配をかけずに済む。
一度唾を飲み込んで、美寿々は改めてアーサーを見た。先程から挙動不審な態度ばかり取っているからだろう、彼は今でも訝しげな眼差しで、しかし美寿々を否定する色は湛えずに真っ向から視線をぶつけてくる。
「ね……ねえ、アーサー。アーサーはどうして、京都まで行くの?」
何でもない──流れを割ることも、取って付けた風もない、極めて自然な質問だ。その質問を絞り出すまで、美寿々の中を駆け巡った逡巡は言うまでもない。
ぱちくりと、紫水晶の双眸を瞬かせてから──アーサーはすっと表情を引き締めた。それは美寿々の発言に気を悪くしたというよりも、大事な話をするために改まった、と表現すべき変化であった。
「俺……いや、私にはすべきことがある。与えられた使命という訳ではないが……どうしてもやりたいことがあるんだ。笑わないで聞いてくれるか?」
「笑わないよ。約束する」
「ありがとう。──私は、終末論にかこつけて人の滅びを誘い込もうとしている者を止めるため、キョウトに向かっている」
「えっ……」
今度は美寿々が目を丸くする番だった。いくら小学生の美寿々といえども、アーサーの放った答えが荒唐無稽なことくらいは理解できる。
今、アーサーは至極真面目くさった顔で──だいぶまとめた表現にはなるが──世間で語られる人類滅亡を止めるのだと言った。ふざけた風など微塵もなく、真剣そのものといった口振りで。
もしも周囲の人間がアーサーと同じことを口にしたら、美寿々は笑って流していたと思う。馬鹿なこと言わないで、と、端から信じることもなく。
実際、アーサーの答えは現実味に欠けていた。そもそも人類滅亡が本当に起こることなのかすら美寿々には見当もつかないし、それをたった一人で止めるだなんて夢物語も良いところだ。主人公を気取るにしたって、もう少しいい方法がある気がする。
それでも、美寿々がアーサーの言葉を否定できないのは──真摯な目をした、嘘みたいに英雄的で主人公に相応しい彼ならもしかしたらという根拠のない確信が、美寿々の心に浮かび上がった疑問を一息に消し飛ばしたが故であった。
よくわからないが、アーサーだったら人類滅亡に立ち向かっても、そのために単身京都へ向かうようなことがあってもいい。そもそも彼は、美寿々の見えないところから駅のホームに落ちてきたのだ。あれが一体なんだったのか、美寿々は想像するしかできないが、今ここにアーサーがいるのだから細かいことは気にしないでいこうと思う。
それに──決まり切ったことではないが、断言できる。アーサーは非日常を連れてきた。彼から離れれば、途方もない冒険を手放すことになる。
「──お二人とも、米原に到着致しましたよ。京都に向かわれるなら、速やかに降りて乗り換えなければ」
アーサーに付いていく決意が固まったところで、横合いから声をかけられた。車掌──かとも思ったが、それにしては声色が若すぎる。あまり効果はないと知りながらも、美寿々はアーサーの姿を庇うように身を乗り出した。
一人の少年が、ボックス席を覗き込んでいる。年齢はアーサーと同じくらいか、幾分か下だろうか。褐色の肌と、そこだけ全ての色彩を抜き取ったような真っ白の髪の毛がよく目立つ。金縁の丸眼鏡を指先で押し上げる仕草は理知的だが、どことなく胡乱だ。
アーサーもまた、この少年に不信感を抱いたのだろうか。美寿々が背中越しに警戒を感じ取っていると、少年はわかりやすく苦笑しながら肩を竦めた。
「さて、困りました。怪しい者ではありません……と申し上げたところで、信じていただけそうにはありませんね」
困った、などと言いつつも、少年は実際に困惑しているようには見えない。むしろこの状況を事前に予測していたかのような落ち着きぶりであった。
「ひとまず、移動はしませんか? あなた方の行き先が変わっていないのなら、ここで立ち止まっている暇はないはずです。お家に帰られる場合は、引き留めませんがね」
「……随分と勝手知ったるような発言だな」
「ええ、だって僕の目的はあなた方と似たようなものですから。何をしに向かわれるのか、言われずともわかりますよ」
険しさを帯びたアーサーの問いかけにも臆することなく、少年はさらりと応えてみせる。レンズの奥で細まった目元が三日月のようだ。
ますます胡散臭さを増してきた少年だが、彼の言うことは特別おかしくもない。事実、ここで乗り換えなければ大垣方面に逆戻りだ。
どうする、とでも言いたげなアーサーの視線に、美寿々はひとつうなずくことで返答とする。ここで引き返すのは、やはり損だ。最後の最後に見る景色があるとするならば、変わり映えのない日常であって欲しくはない。
「決まりですね。それでは参りましょう──せっかく同じ舟に乗り合わせるのです。せめて道中は仲良くいきましょう」
「舟っていうか、電車だけど」
「言葉の綾です。気にしないように」
こちらの選択をすっかり見破っているらしい少年は、満足した様子で先を行く。美寿々とアーサーは顔を見合わせ、仕方がないかと目線のみで会話してからその背中を追いかけた。
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