第5話 ダーク・サイド・オブ・ザ・ムーン(3)
月の重力は地球の6分の1だ。
居住ドームの地下には金属等の磁性体が埋め込まれている。そこに暮らす人々の靴裏には磁石が埋め込まれており、普段歩く時には跳びはねたりすることは無い。足だけが下に引っ張られるようで最初は妙な感じがするが、すぐに慣れる。慣れないのは自分自身以外のモノだ。皿やトレイ等は同じように磁石か重石が仕込んであるが、全てのモノがそういう訳ではない。ボールを投げればどこまでも飛んでいくし、飲み物は蓋が無ければ、うっかりするとこぼしてしまう。一番困ったのは小便をする時だった。月では皆、基本座ってするのだが、一応小便器もあったりするので、慣れるまでは少し時間が掛かった。それ以外は慣れればむしろ便利と言えた。
俺の履いているブーツはトレイニー・ソルジャー用の特別仕様で、靴底の磁力を調整することが出来た。俺は磁力をオフにして、モールの出口に向かって、それこそ文字通り跳ぶように駆けた。そして、さっきウィルの居た階段のところに辿り着くと一気に階段を飛び降りた。だがウィルの向かった方向を見ると、彼の姿は既に無かった。俺はそちらの方向に向けて跳ねて行った。周りの通行人が俺のことを驚いた顔で見ているが、気にしている場合では無かった。3m程跳ねて、角の建物のベランダの柵を掴む。そこからウィルの姿が見えないか探した。更に跳躍して、向かいの建物の屋根に乗った。
居た。
ウィルは道を曲がった先の十字路の手前で、一人の男と立ち話をしていた。相手の男はボサボサの髪を緑色に染め、金色の髭を生やし、赤いジャケットを着た派手ないでたちだった。ウィルは白いジャケットに黒いパンツを履いている。俺は目立たないように地面に降り立ち、ブーツの磁力を通常に戻した。二人にゆっくりと近づく。すると二人は立ち話を終えて赤いジャケットの男はこちらに歩いて来た。ウィルは角を右に曲がって行った。赤いジャケットの男とすれ違ったが、男はこちらを全く見もしなかった。俺は念のためそいつの風貌を頭に叩き込んでおいて、ウィルの後を追った。
角を曲がるとウィルは100m程先を歩いていた。俺は気づかれないように距離を取って尾行を続けた。しばらく歩くと、ウィルは道を曲がって、路地の方に入って行った。俺は駆け足で路地の角まで行って路地の方を覗いた。ウィルは劇場のような造りの建物の入り口に入って行くところだった。
紙飛行機が舞っている。
月では重力の低さを利用して、このように紙飛行機にしてビラを撒くのが流行っていた。その一つを掴んで開いて見る。
「キャバレー フロム・ダスク・ティル・ドーン ノスタルジックな音楽と共に、貴方に快楽のひとときを」
何てダサいキャッチコピーなのだろう。どうやらウィルが入って行ったのが、その「キャバレー フロム・ダスク・ティル・ドーン」のようだ。だがまだ時間が早いので営業はしていないようだ。看板も暗いままでかろうじて店の名前が判別出来る程度だった。俺は目立たないように少し離れたビルの壁にもたれかかって、そのキャバレーの入り口を見張る事にした。フード付きのジャケットを着て来たのは正解だった。俺はフードを頭にかけ、必要とは思わなかったが競技用のサングラスを掛けて、ウィルが出て来るのを待った。
人口的に作られた日差しは急激に傾いて行き、行きかう人々の長い影が路上を交差する。オレンジ色に染まった街は次第に紫色の翳に支配されて行った。
それと共にキャバレーの看板が輝きを増し、ホログラムの広告映像が美しく艶めかしい女性の姿を映し出し始めた。だが、ウィルは中から出て来ることは無かった。
ひょっとしたら裏口があったのかも知れない。と俺は少し心配になったが、それ以上に確信があった。ウィルはここで働いているに違いない、と。
そしてホログラムの映像を見て、その確信はより強固なものになった。
映し出されていたのはキャスと、もう一人の女の子も名前は忘れたが、俺らが一緒に育った仲間の一人だった。二人とも以前よりはずっと大人びて、そして美しくなっていた。二人はこちらに微笑みかけ、そして闇の中に溶け込んで行った。
俺は暗闇の中で暫く佇んでいた。まだ時間が早いような気がする。だが、そうする内に二人、三人と、そして更に多くの客が店に入って行くのが見えた。こういう店には入ったことが無い。恐らく禁止されている店というのはこういう種類の店の事を言うのだろう。俺は何分間か、30分くらいか、あるいはもっと長い間だったかも知れない。躊躇していたが、監視ロボットも付いて来ていないのだからと自分自身に言い聞かせ、意を決してキャバレーの入り口に向かった。
入り口にいた体格の良い男に何か聞かれるかと思ったが、何も言われず、あっけない程簡単に入店出来た。クロークを抜けると狭いホールがあり、その先は左右に向かって緩やかに曲がった廊下が伸びている。少し行った先に大きな扉が空いており、中から音楽が流れ出て来た。扉を抜けるとそこは非常に大きなホールになっていた。正面に大きなステージがあり、左右にも小さなステージがそれぞれ二つずつ。客の入りはまだ7割くらいだろうか。それでもさざめくような人の声、あちこちで飲み物を持ったボーイが動いている。天井の中央近くににはシャンデリアが浮いていた。俺は気おくれしながらも一番手前の端の方の席に着いた。
ボーイが注文を取りに来る。
俺はドラッグ抜きの飲料があるかどうか訊いた。ボーイは妙な顔をしたが、クラレットという昔のワインの呼び名を付けた飲料を進めて来たので、それを注文することにした。
客はまだどんどんやって来るようだ。出来るだけ目立ちたくないので、その方がありがたい。
流れていた比較的静かな音楽が止まり。照明が暗くなった。そして突然大音響でアップテンポの音楽が始まり、正面のステージから肌も露わな衣装を纏った女たちが踊りながら登場して来た。
俺はステージを食い入るように見つめた。だが、離れていることもあり、キャスがいるのか、もう一人の女の子はどうか見分けることが出来なかった。女たちの内の何人かは左右のステージに移動して踊り続けている。違う。こちら側に一番近いところで踊っているのはキャスでももう一人でも無い。
今、古びた宇宙港であなたを待ちながら @Usankusaiossan
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