人間の定義


『──遠い昔、人間が意識と共に与えられた言葉という吾々われわれの思索の唯一の武器は、依然として ながらの詐術を止めない。劣悪を指嗾しさしない如何なる崇高な言葉もなく、崇高を指嗾しない如何なる劣悪な言葉もない。…… 』

       

 小林秀雄著・「様々なる意匠」より


 私たちは普段、言葉を使ってコミュニケーションを取っている。相手のセリフからその意思を汲み、こちらも自分の考えを伝える。私たちはそうして共生している。

 無論、言葉以外にもコミュニケーションを取る方法はある。それは身振り手振りであったり、あるいは何気ない仕草、もしかしたら相手の雰囲気のようなものを感じ取ることさえできるかもしれない。

 いや、私がこうして筆を取ったのはそんなことが言いたかったからではない。悪い癖だ、他人と話す機会が少ないせいか、こうして口が勝手に回ってしまう。筆というべきか。

 さて、先日ふとしたきっかけで障害者施設で入所中の障害者の大量殺傷を行った男が話題となっていた。

 ここでその事件について詳細を話すことは憚られるので、もし諸君らの中にこのことを知らない者がいるならば各個人で調べてくれることを願う。

 当時はとても衝撃的な事件であったのにも関わらず、いつの間にか埃を被ったように忘れ去られていたそれを、私はこの機会に振り返ってみることにした。

 そしてその男が事件後、こんなことを言っているのが目に留まった。


「自分が殺したのは人間ではないから殺害行為の正当性を主張するつもりだ。……」


 すごいことを言うやつである。

 ここで彼は、障害者(意思疎通すらままならない重度な者に限り)は人間ではないと言い切ったわけだ。

 そしてこれは世間で賛否両論の論争を巻き起こした。まあそれもいつしかやんでしまったわけだが。一人の男が生涯を賭して訴えた主張も、所詮はこの程度かと思わされる。

 すまない、再び話が脱線したようだ。確かにそれも驚くべきことだが、私がここで取り上げたい内容ではない。

 私がここで考えたいのは、「人間の定義」という問題である。

 人間とは、一体いつから、そしてどこまでが人間なのだろう。私は頭を抱える。

 まずは、具体例から考えてみよう。

 例えば、堕胎というものがこの世界には存在する。心苦しいことだが、授かった命を無かったことにしてしまうその制度は、妊娠してから一定期間の間に行えば殺人には問われない。

 大変奇妙な話である。

 生物学上で考えれば、受精が行われたその瞬間から命は宿っており、たとえその身体を完全に形成できていなくとも、きちんと人間であるはずだ。

 これも、のだろうか。

 であれば、生粋の日本人である私が意思疎通をすることができない外国人を殺してしまってもいいのだろうか。いや、わかっている。これは暴論だ。なぜなら、例えば私はフランス人と意思疎通はできないが、フランス人同士で意思疎通をはかれるからだ。

 私だってそうだ。フランス人からすれば私は日本語という難解な言語を使う得体の知れないやつだろうが、そんな私も日本人となら意思疎通ができる。

 あるいは私がフランス語を勉強するなり、翻訳アプリなどを使えば、意思疎通など容易である。

 ……と、言い切れたなら話は簡単だったのだ。

 異なる言語を使う者同士での意思疎通は難しい。まして相手が発音もままならない子どもだったり、獣だったりすればなおさらだ。

 しかしよく考えてみれば、私たちは同じ言語を使う人々となら意思疎通ができているのであろうか。

 結論から言えば、決してそんなことはないはずだ。これは火を見るよりも明らかな、絶対的な結論である。

 SNSをみれば必ず誰かが言い争いをしているし、諸君らの中にも気に食わない人間の一人や二人はいるだろう。

 それらの事象を鑑みるに、どうやら相互理解というのは幻想らしい。

 いや、こんな風に濁した言い方をする必要はない。相互理解などこの世にないのだ。けれど私のこの意見ですら相容れないという人間もいるのだろう。かくいう私も、そんなのは幻想だと察しつつ、それでもどこか諦めきれずにいる。

 今日こんにちも争いは絶えず、立場によって正義は形を変える。


 ──ああ、誰も私のいうことを理解してくれない。これはおかしなことだ。私は正しいことを言っているというのに。この世界は間違っている。言葉が力を持たぬというなら、もう暴力に訴えるしかあるまい。これは正義の戦い、いわば聖戦なのだ……。


 もしそうなった場合、私たちはとうとう殺しあうしかなくなってしまうのかもしれない。いつかの大戦の時のように──。

 よもや言葉とはいったい何のために存在するのか。鳴き声とは一線を画す人類だけが持つこれは、我々がこの混沌たる世界を生き抜くための武器ではなかったか。

 それが今やそれ自体が混沌を生み出し、武器としては何の効力も発揮しなくなっている。話し合いとは虚構か。言葉とはただの記号に過ぎないのか。


 ──ああ、誰の言うことも私には理解できない。これはおかしなことだ。彼らは正しいことを言っているというのに。私はどこで間違えたのだろう。言葉が力を持たぬと言うのなら、何を言おうが言わまいが同じことに違いない。であれば、もう私は喋るまい……。


 理解を拒むことは寂しいことだが、理解されない苦しさに比べれば何倍もマシだ。だから口を噤む。これは言葉の詐術に対する最も簡単な防衛法である。

 けれどこれには限界がある。結局、歪みを矯正するためにいつかは攻撃に打って出るしかなくなるのだ。そもそも、その防衛法自体が一種の意思表明になってしまっているとも言える。

 残念なことかもしれないが、世にも奇妙な二足歩行動物の人間として生まれてしまった以上、どうやらコミュニケーションというものは避けて通れないものであるらしい。

 それつまり、自分自身が意思疎通をしようと思っていようがいまいが、人間である以上意思疎通をしてしまっているということなのかもしれない。そしてそれは逆説的に、意思疎通をしているから人間であると言えるのかもしれない。

 すなわち、殺人者である彼の言葉は正しいということか。

 そんわけはないだろう。長くはなったが、これが私の言いたいことだ。意思疎通ができるというのは相互理解するということとイコールではない。つまり相手が何を言っているのか理解できないからといって、その相手がコミュニケーション能力を持たない獣であるとするのは暴論なのである。

 現に私は件の彼の言っていることはちっとも理解できないが、彼を獣だと思ったことはない。

 言葉はときに私たちを惑わし、嘲笑い、翻弄する。相互理解など幻想に過ぎず、全員が全員と手を取り合うことはできない。

 それでも言葉を、コミュニケーションを放棄していいことにはならないのである。

 言っても無駄だとわかっていても言わねばなるまいし、聞いたってわからないと知っていても聞かねばならないのだ。手を取り合えなくても、手を伸ばし続けなければならない。それは断じて徒労ではない。

 つまり『人間の定義』とは、常に相手を理解しようとし続けること、いわば『思いやりを持つ』ということなのではないだろうか。

 諸君らにもたとえここで私が何を言っているのか理解できずとも、理解しようとし続ける『思いやり』を持っていてほしいと願うばかりである。

『思いやり』を失った人間が何になるか──。それは諸君らの想像に任せて、これで文末とさせていただく。

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