あかり灯る
カサカサと乾いた感触が首元をくすぐっている。あかりは気だるさに顔を顰めながら、ゆっくり瞼を持ちあげた。視界が暗く、まだ夢の中なのかと思ったの束の間、目が慣れるにつれて視界に広がるのは、縦にも横にも大きな洞窟の天井で、自分はそこに横たわっているんだ、という事が頭の中に浸透してきた。身体の下に敷かれているカサカサするものは落ち葉の山だろうか。喉の奥で呻きながら身動ぎをすると、ひょいと目の前に
「よ、よかったぁー! あかり、よかったよー!」
「あかりさん!」
二匹に同時に飛びかかられ、あかりは起こしかけた身体をまた落ち葉の中に埋もれさせた。二匹の体温と重さに頬を緩めながらあかりは二匹を抱きしめる。
「朽葉、檜皮!」
「オレ達がいない間に急に倒れたっていうから、すっごい心配したんだぞ! 目を覚まさなかったらどうしようかって……!」
「無事でよかったぁ……」
「ごめんね、ありがとう」
「騒がしい童どもよの。さほど大事ではないと再三言ったであろ」
「うるさいなぁ!」
「心配かけてごめん。わたしは全然大丈夫だから」
「本当?」
「うん」
しがみつく二匹を宥めながらあかりはゆっくりと身体を起こした。どうやら広い洞窟の奥に寝かされていた様で、少し離れた壁の出っ張りに
「おー、起きたかあかり。急にぶっ倒れるから何かと思ったぜ」
橡の目が意味ありげにあかりを見つめていた。夢の内容も全て見透かされている様な居心地の悪さに、あかりは橡から目線を外す。
(……夢)
あの夢は、あかりの中に封じられていた記憶だ。あかりは確かに幼いころ、入ってはいけないとされていた蔵の中で古びた本を開いた。
あの本がきっと、祖母やそれよりずっと前から脈々と受け継がれてきたという記録なのだろう。それに触れた当時はまるでちんぷんかんぷんだったそれの内容も、今ならある程度理解できる。荒唐無稽なお伽噺の様な、しかし事実としてあった出来事。
「……」
祖母のあかりに対する態度が急変したのは、あの事件の直後からだった。祖母はあかりの事を嫌いになった訳でも、煩わしくなった訳でもなく、あかりを守るためにあえて冷たくあたることで、あかりを遠ざけようとしたのだ。
「……おばあちゃん」
あかりは俯いて顔を膝に埋めた。夢の内容に引きずられる様に、幼かったころの祖母との思い出が蘇ってくる。胸の奥に溢れて満ちるのは優しくて、暖かくて、明るい記憶。なんで忘れたままでいられたんだろう。
「ど、どうしたの?」
心配する響きを含んだ声に、あかりは無言で顔を横に振った。祖母の想いも知らずに、つれない態度を取った事に今更ながら後悔が押し寄せる。こんなに後悔しているのに、涙の一つも零れないのが無性に苛ただしかった。
「ねえ、本当に大丈夫?」
「ううん、違うの……」
せめて、最後に一言でもいいから話したかった。ありがとうとか、ごめんなさいとか、言わなくてはいけないことが山ほどあった筈なのに。
「あー、えっと、あ、あかりぃ……」
「やめよ、馬鹿」
「だってよぇ……」
「傷心中の者に無粋な真似をするでない」
周囲の声をどこか遠くに聞きながら、あかりは思い出に引っ張られていく心を無理矢理引き戻す。
どんなに後悔したって、祖母は還ってこない。ここで蹲って後悔を吐き出した所で、それは決して祖母に届きはしない。
――それなら、わたしに出来ることはなんだろう。
あかりは固く組んだ手を額に当てて深呼吸を二、三度繰り返し、心を落ち着かせる。
「あかりぃ」
「ごめん、もう大丈夫」
顔を上げて心配そうな二対の瞳に少し笑うと、あかりはもう一度橡に視線を向けた。首を傾けた橡が気遣う様にあかりを見返した。
「色々、思い出した。後を継いだのかは分からないんだけど、おばあちゃんの家に代々伝わってた記録を読んでたのは確か。それで、おばあちゃんが忘れなさいって言ってたのも思い出した」
「そっか。んで? なーんか言いたげな目してる様に見えんだけど」
「ちゃんとお葬式に出たいから、明日の朝までには家に帰りたい。あと……出来るなら、おばあちゃんの汚名を晴らしたい。いや、騙す様にしてたのは本当なんだろうけど、でも、おばあちゃんが悪く言われるのは……あまり気分が良くない」
「最初のは簡単だな。もう真神も小葵もお前に対する興味は殆どない。このまま帰っちまえばいいだけの話だ。だけど、次のは難しいぞ。あの泉の問題に決着をつけなきゃいけねぇ。下手こけば恨みを買うし、もしかしたらこの霧館の生き物全部の命に関わるかもしれない」
「……わたしにできる事があるならそれを全部やる。それで解決できるなら解決したいし、できなくても、やれることは全部やらないと、合わせる顔が無いと思う」
だから、とあかりは続ける。
「手伝ってください、お願いします」
橡と蘇芳、それと朽葉と檜皮に向かって深々と頭を下げた。彼ら、特に朽葉と檜皮にはずっと助けられてきた。でもそれは、巻き込まれた被害者として、ただ流されるまま助けられていただけだった。だから今度はちゃんと自分の意思で、彼らに助けを求めなくてはいけないと思った。
「そりゃ――」
「頭を上げられよ。灯子様には吾等も恩がある。喜んでそなたの力になろうぞ」
「あ、蘇芳てめぇ! そこは俺がかっこよく『言われるまでもねぇ』ってきめるとこだろが!」
「知らぬわ。お主ばかりが良い顔をするのは気に食わぬでの」
橡の言葉を蘇芳が遮り、噛みついた橡を軽くあしらいながら蘇芳が柔らかく笑う。
「今一度確認するが、今のそなたは正式に灯子の後を継いではおらず、また後継を指名せず灯子様がお隠れになった以上、そなたは決して灯子様の後継にはなりえない。しかし、ここでこの問題に関われば、傍からは灯子様の後継と見なされるやもしれぬ。それでもよいのか?」
「……うん」
「ならばよい。しかし、何処から手をつけたものかのう。一番良いのはあの横暴な真神共が居なくなることであると思うが」
「あのな蘇芳、そんな簡単な話じゃねーだろ」
「その程度分かっておるわ。冗談も通じぬのかお主は」
「あの、えっと」
遠慮がちな声の方を振り向くと、檜皮が困った様な顔で前脚を上げている。
「なんじゃ」
「ぼく達天狗様の所に知恵をお借りに行ったんだけど、天狗様に言わせればこの山は少しおかしいって」
「なんだァ、そりゃ。もっと詳しく話してくれや」
檜皮は首を傾げながらちょこちょこと居住まいを正す。
「天狗様曰く、この山にそんな清水の湧きだす様な水脈は無い筈だ。それに、真神と蛇神の二柱が山を治めているっていうのも珍しい話って」
「珍しい、の?」
「まぁ言われてみりゃあんま聞かねぇな。格の高い神が治める山に獣神が集う様なのはまあ聞くが、言われてみりゃここは確かにちっと妙だな」
あかりの疑問に答えたのは橡で、こちらも首を傾げながら視線を天井あたりに彷徨わせる。
「あのね、天狗様は泉の元を探してみろって言ってた」
「泉の元?」
「あー……、本当に水脈が無ぇってんなら確かにそれは鍵になりそうだ」
「もう一度戻ってみるか? 何か手掛かりとなるものが見つかるやもしれぬ」
「うん、とりあえずもう一回泉に行ってみよう」
あかりは立ち上がって洞窟の外に出た。まだ夜闇は黒々と濃く、木々の隙間から散りばめられた星がまたたく。今住んでいる家の近くでは、街の光が邪魔をして此処まで星が綺麗に見える事はないんだろうな、と、ふとそう思った。
「あっちだな。行くぞ」
「うん」
橡の示す方向に進もうとすると服の裾をくいくいと引っ張られる感触がする。振り向くと、
「あのね、オレ達もあかりの事言われなくたって手伝うつもりだったから。あいつらがうるさくてさっきちゃんと言えなかったけど……」
拗ねた様な声の朽葉と、あかりを見上げて強く頷く檜皮に、あかりは思わず頬を綻ばせて、ありがとう、と小さく言った。
あかり達が泉の元に到着すると、既に真神と蛇神の大群は引き上げており、数頭の狼と数人の稚児とが、一定の距離を保ちながら睨みあっていた。
「何用か」
「……この泉を調べに来ました」
「貴様の様なただの小娘にもう用は無い。さっさとこの場を去れ! 我等の牙が届かぬうちに」
双方から向けられる視線は冷え冷えとしていて、あかりは言葉を詰まらせた。けれど、ここで引く訳にはいかない。拳を固く握り、あかりは口を開く。
「この泉には何か秘密があるらしいんです。だから、それを調べれば何か、この問題を解決する手がかりが見つかるかも――」
「くどいぞ! 何の力も無いただの人間ごときに頼らねばならぬほど我等真神は落ちぶれておらぬ。大体、灯子の後継者でもない、力の使い方も知らない、こちらの事を何も知らない貴様に、何が出来るというのだ」
「な、何が出来るかはやってみないと分からないです」
クスクスと意地の悪い響きを纏った笑いが聞こえた。小葵の卷属達の方からだ。
「大した自信じゃの」
「自分にも何か出来ると思いこんでおる様じゃ。ただの小娘の分際で」
「なんの、面白いではないか」
「己の分というものを知らぬらしい」
その悪意ある囁きは、聞こえぬよう潜められているようで、明らかにあかりに聞かせる為に発せられている。腸が煮えくりかえるのを押さえながらあかりは稚児達を睨みつけた。稚児達は大げさに目を見開いて、袖で口元を覆い隠す。
「おお、怖や怖や」
「何をしている、さっさと消えろ!」
「好きにさせてやれば良いではないか。どうせ大したことなど成せはせぬよ」
「何を言うか、もし万が一の事があればただでは済まぬぞ!」
「その時はこの者に責めを負わせればよいだけの話」
応酬の内容は甚だ腹の立つものだが、とりあえず泉を調べられる方向に話は傾いているようだ。小さく唸り声をあげる朽葉を窘めながら、あかりは成り行きを見守った。
「蘇芳」
小葵の眷属である稚児の一人が、蘇芳を見据えて冷たい声音で語りかける。
「貴き小葵様の眷属でありながら、何故貴様はそこな小娘に肩入れする。元より人の下などに居た卑しい身であるそなたの才を見初め、眷属に取り立ててくださった小葵様への恩を忘れたか」
蘇芳はきゅうと目を細め、
「小葵様の事を想えばこそ、あかり様に力を貸すのじゃ! この泉は吾等の生命の源、けして狼共になぞ渡すわけにはいかぬ。だがこうして睨み合い、争うのもまた不毛であろう。人の身でありながら幽世にその名を知らしめ、類い希なる才腕を振るった灯子様の血族であれば、何か良い解決方法を思いついてくれるやもと思うたのじゃ」
蘇芳の言葉に稚児達は顔を見合わせ、口元を大袈裟に着物の袖で覆い目元に嫌な笑みを浮かべた。
「やはり鉢仔は人に甘いのぅ」
「捨てられてなお、昔が忘れられぬか」
「憐れよのぅ」
稚児達はクスクスと密やかな笑い声をさざめかせる。蘇芳は何か言いたげに口を開いたが、結局何も言い返すこと無く口を閉じて視線を落とした。
「……ねえ、ハチゴって?」
あかりは隣に座る檜皮に囁いた。あの言い振りからして決して良い意味合いの言葉ではないのは理解出来るが、どういう意味かまではよく分からなかった。困ったように首を傾げた檜皮が口を開く前に、
「人に飼われていた魚の事じゃ」
いつの間にか隣に来ていた蘇芳が溜息交じりに答える。
「わっ」
「吾は小葵様に救われる前は人に飼われた金魚であったのよ。金魚鉢に居た故、鉢仔じゃ」
それだけ言って蘇芳はすうと後ろに下がり腕組みをして目を閉じた。稚児達はまだ嫌な笑いを交えながら何事かを囁きあっている。
「……ついでに言やぁ蔑称な。あんま突っついたるなよ。蘇芳はあれで苦労金魚なんだ」
バサバサと肩に止まった橡が低い声で小さく言った。蔑称、という穏やかでは無い言葉に驚いて思わず振り向くと、蘇芳は片目を開け、また大きな溜息をついた。
「余計なことを言うでないぞ、橡。あかり様に要らぬ気を遣わせることは無いであろ」
「でもよぉ」
「確かに言われて良い気分のする言葉ではないが、一々立腹するほどのものでもなかろ。第一あのような何百年と使い古され手垢のついた
呆れた口調で言い、蘇芳はフンと鼻を鳴らした。
「あ、あの」
あかりの声に蘇芳が首を傾げ怪訝そうな表情を作る。
「ごめん、嫌なことを聞いて……」
蘇芳は僅かに目を見開き、口元を柔らかく綻ばせた。
「あかり様は優しいお方じゃのう。吾なんぞに心を配ってくださるとは。やはり灯子様のお孫様であるのだなぁ」
「おばあちゃん?」
「ふふ、こうしてまじまじ見ればやはり目元などは灯子様によう似ておる。懐かしいのぅ」
「似てるか? 灯子はもっとキツーくて可愛げの無い目ぇしてたぜ」
「お主の審美眼が曇りきっておるからそう見えたのであろ」
なんだと、とあかりの肩から橡が羽ばたき蘇芳の所に飛んでゆく。硬い羽根に頬を叩かれたあかりは顰めっ面をしながら肩を手でパンパンと強くはたいた。
「……オレ、あのヒラヒラしたやつら嫌い。性格悪いんだもん」
橡のいなくなった肩にひょいと前脚と顎を乗っけた朽葉が低い声で言った。どうやって地面から肩に頭を、と手を背中側に回せばふわっとした雲の感触が指に触った。どうやら家の中に入る時も使っていた觔斗雲のような雲をまた出しているらしい。
「わたしも嫌い」
同調すると朽葉はなー、と不機嫌そうな声で言う。
「ほんと、嫌な性格してるよね」
反対側の肩から顔を突き出した檜皮が憤慨したように言い、上目遣いにあかりを見上げる。
「でも、あかりさん、どうする? このままじゃ入れないよ……」
「うん……」
あかりは苦々しい思いで稚児と狼とに交互に視線を滑らせる。先程交わされていた会話からもしや入れるかも、とも思ったがそれもどうやら望み薄らしい。力尽くで突破するか、と思ったが、相手の頭数はあかり達よりも圧倒的に多い。また力に任せたところで誰かを取り逃がせば間違いなく小葵か青鈍か、彼らの親玉がやってくることだろう。どうしたものか、と首を傾げたところで、そもそも泉の周囲に視線を巡らせても入り口らしきものが見当たらないことに気がついた。
「そもそも泉の元ってどうやって入るの? 入り口、見当たらないけど」
聞くと、檜皮はフンフンと鼻を動かしてうーんと首を捻る。
「結界がね、あるのは分かる。けど、見えないや……。水っぽい匂いだからあの小葵っていう蛇が張ったのかなぁ」
「結界?」
聞き返すと檜皮は頷き、
「多分ね、泉の下に霊的な空間があるんだと思う。そこへの入り口を結界が塞いでるみたいなんだ。……ねえ、朽葉、匂い分かる?」
檜皮に問い掛けられた朽葉は、んー、と難しそうな声で返事をしながら鼻を動かし、
「言われてみれば結界あるけど、なんか、匂いがすっごい弱いよ。あと確かに水っぽいし蛇っぽいけどあの小葵って蛇じゃない気がする。あいつはもっと性格悪い匂いだもん」
「性格悪い匂いって」
あかりが思わず吹き出すと檜皮は真面目な声音で、
「朽葉が違うって言うなら多分違うんだよ。朽葉は野生のカンが優れてるから」
喋るとは言え同じく野生の狸である檜皮が『野生のカン』なんて言うことに妙な面白みを感じながら、あかりは曖昧に頷く。
「おや、そんな幼く未熟ながら結界に気がつくとは、随分と聡いのぅ。橡もこの童らを見習うとよいぞ」
「俺は、ほにゅーるいと違って鼻は効かねーの!」
「お主は特に鈍いじゃろ」
あかりは首を傾げながら匂いを嗅ごうと試みたが、特に何も感じない。強いて言うなら両隣から頭を突き出している朽葉と檜皮の少し埃っぽい匂いがするくらいだ。
「うーん、わたしには分かんないや……」
「そりゃしょうがないって! 普通のにおいとは少し違うもん」
「ぼく達も分かるようになるまで時間かかったもんね」
「そうそう、天狗様のかくれんぼ、何度もやらされて、おやつ抜きにされて!」
「そういうものなの?」
「そーいうもん。でも、あかりならもしかしたらすぐ分かるようになったりするかも!」
「灯子さんの孫だもんねぇ」
「本当?」
鼻がやたら効くようになったら日常生活ちょっと大変そうだなぁ、などととりとめのないことを考えながら、あかりは振り向いて蘇芳の隣で丁度よく張り出した枝に止まる橡に視線を向けた。
なんとなく癪に障るが、現状このメンバーの中で一番頼りになる可能性が高いのは橡である。半目で自分を見つめるあかりの視線に気がついた橡は首を傾げ、グウと小さく鳴いた。
「もしかして俺を頼ろうとしてる?」
「だいぶ不本意だけど」
橡はバサバサと翼を広げて嬉しそうな声で、
「若い子に頼られるってなぁ嬉しいもんだなぁ。これは少しばかり俺の本気を見せてやろうじゃねぇの」
「本気、のぅ」
蘇芳があかりに次いで冷ややかな目つきで橡を睨めつける。
「まあ見てろって。伊達に長生きしちゃいねぇのさ」
そう言った橡は枝から飛び立つとまずは小葵の眷属、稚児達の元に飛んでいった。そこで何やら暫く話し込んだ後、次いで狼たちの元に飛んでいく。暫くギャアギャア、ガウガウと騒がしかったが、少しするとその騒ぎも落ち着いて場が静まりかえった。
「オッケーだって」
羽音を響かせながら戻ってきた橡が、信じられないほど脳天気な声で言った。
「は?」
あまりにあっけないその言葉にあっけにとられ、あかりは思い切り首を傾げる。
「だーから泉に入る許可もらってきたんだっての。行こうぜ、夜明けまでの時間考えたらあんまのんびりしてらんねぇぜ」
「え、そんなあっさり⁉」
叫んだ朽葉に同調してあかりも首を縦にぶんぶんと振る。
「俺の交渉術にかかればこんなもんよ」
どや、という効果音が聞こえてきそうな声で言い切る橡に、
「本当のところは?」
ふよふよと漂ってきた蘇芳が呆れた声音で問い掛ける。
「……目眩ましを少々」
ぐい、と分かりやすく首を蘇芳から逸らした橡がボソッと呟く。それを聞いた蘇芳は深々と溜息をつき、
「仮にも金烏の一族がそんなことに軽々しく力を使うなぞ、嘆かわしいにも程があるぞ」
「俺は傍系も傍系でとっくに一族も出てるからいーんだよ! 大体軽々しくも何も軽々しくしか使いようの無い力しか持ち合わせがねぇんだわ」
ポンと人の姿になった橡は蘇芳と視線を合わせ、いーっと子供の様に歯を剥き出す。
「金烏⁉」
一拍おいて、今度は檜皮が驚愕の叫びを上げて目をぱちくりとさせた。
「きんうって何?」
「太陽に住んでるカラスの事。八咫烏の更に上に立つ、高位の……」
「だーから名前借りんのもハズカシイくらいの傍系だってば」
不機嫌そうな声で橡が檜皮の言葉を遮る。
「……つまり橡はとんでもないお坊ちゃんとか、そういう感じ?」
どうにもピンとこないあかりが首を傾げながら言うと、蘇芳が前触れ無く盛大に吹き出し、橡は無言無表情でピースを突き出した。
「つってもアレだぞ。例えんなら天皇の十番目の妹の息子の姪の娘の従兄弟の従姉妹の一族とかそんなレベルの傍系な。金烏の一族だとか、とても言えたもんじゃねぇわ」
がしがしと頭を掻きながら決まり悪そうに言う橡の姿を上から下まで見回したあかりは、ふうんと鼻を鳴らした。
「そんなんつまり殆ど一般人って事じゃん」
少なくとも白銀と言い合い蘇芳と軽口を叩き合い、そしてあかりをおちょくる橡の姿からはそんな高貴さのようなものは一切感じられない。今までの意趣返しの様な気持ちも含めたあかりの言葉に、橡は目を見開いてきゅっと口をすぼませた。
「ん、ああ。そう。つまりそゆこと」
表情を崩し何故か機嫌良く言った橡が、今度は笑顔でピースを突き出す。
「んじゃさっさと行こうぜ。目眩ましもあんま長くは続かねぇし。蘇芳、結界の開け方分かるか?」
「あの結界はそもそも誰彼構わず拒むほど頑ななものでは無いようじゃ。開けずとも綻びの隙間を縫ってゆく方が早いの」
蘇芳が先導し、橡がそれに続く。二人とも狼と稚児達の間を堂々と歩いているが、そのどちらも二人に反応することは無かった。まるで二人のことが一切見えていないとでも言うように。
「……ぜったいあのおっさん鴉の言うこと嘘だって」
「嘘かなぁ……?」
後ろからついてくる朽葉と檜皮のひそひそ声に、思わずクス、と笑いを零しあかりは橡の後を追い掛けた。
泉に近づくとなんとなく胸の奥がざわつくような、不思議な感覚に包まれた、ぞわりと全身に鳥肌が立つ。けれどそれは決して不快なものではなく、例えるなら夏の暑い日に、火照った身体を冷たいプールに沈めた時のような、そんな清涼さを漂わせていた。
「ここから入れそうじゃ」
蘇芳が言い、くるりと振り向く。
「ここから先は神域ぞ。くれぐれも、勝手な行動を取らぬようにな。……特にそこな狐の童。元気は良いことであるが、中であまりはしゃぐでないぞ」
名指しされた朽葉は不服そうに
「オレの名前、朽葉だし。それくらい分かってるし」
「そうか、朽葉。分かっておるなら良い」
ふよふよとその場を緩やかに上下左右に動き、何かを探すように目を眇めた蘇芳は、とある一点に手を伸ばしてカーテンをかき上げるような仕草をする。
「吾の下をくぐれ。ここから中に入れそうじゃ」
「あかり、万一にでも逸れんように俺のこれ、握っとけ」
頷き、橡に差し出された腰紐のようなものを手の中に握り込める。
「行くぞ」
橡が言い、蘇芳の掲げた手の下をくぐった瞬間に橡の姿がフッと消えた。しかし手の中に握った紐は宙に浮いたままで、まるで空気の壁から生えているかのように、ゆっくり揺れている。
「……よし」
視線を下げ、朽葉と檜皮と視線を合わせて無言で頷き合う。
一つ、大きな深呼吸をして、あかりは途切れた紐の先へ、一歩足を踏み入れた。
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