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  • 呼吸の肩。への応援コメント

    現在の方角企画から、色々と辿ってウロチョロしております笑

    作品を最後まで読ませていただいた後に、久志木梓さんとのやり取りも読ませていただきました。
    その上で、ただ素直に感じたことを書かせていただきたいなと思います。

    最初の「水中であることを示す」描写については、フィンディルさんは描写過多という自己評価をされていましたが、私はすごく、その世界に没入できる描写になっている気がして、いいなぁと思いました。地上でも、小麦の香りが部屋に充満したり、床の埃が舞い上がるような描写はその部屋の質感を浮かび上がらせて、没入のきっかけになるし、水中世界であることを過剰に表現しているとは思いませんでした。
    それから被ってしまいますが、
    >天窓から薄い光の指が四本入る。テーブルを撫で、んーを撫で、温かい。
    ここは私もすごく好きです。チンダル現象による光の筋は地上でもありますが、それが「撫でる」ような動きをするのは、光が屈折する水面(あるいは天面)が揺らいでいることによるもので、この描写でもすごく水中感と柔らかな光の感覚が伝わってきます。
    地上でも木漏れ日であったりレースのカーテンを通した光であったり、なにかしら「揺らぐ」ものを通した光というのは柔らかく撫でるような質感を持って、優しい印象があって、好きです。

    『前展』の部分は、時間は進み続けるから情報は観測可能範囲(前)から観測不能範囲(後ろ)に流れていく。そこで拾える情報だけで現実世界は成り立っていて、その不可逆感というか、情報を一気に処理し切ろうとするとかなり頭のCPUに負荷がかかるような同時進行感みたいなものを表現できる手法なのかなと思いました。

    『4』で溢れ出ている、引き返せない今を生きている自分の未来に対する不安、ちゃんと普通なのか分からない孤独感、いつ死ぬか分からない不安、自分を知って、変わりたいという焦燥感のある独白が、『前展』とすごくかみ合っている感じがしました。

    生墓を撫でるという習慣、風習からも、穏やかな空気感とは裏腹の死と隣り合わせのような切迫感か、あるいは死んだ後に墓を建ててくれる人が居ないかもしれない空虚感とか、なにかこう切なく、切実な感じを受けました。

    『67』については、フィンディルさんの別作品『悪心』のように、文章が崩れる箇所が、思考の乱れを表しているのかなぁと感じながら、読みました。
    上の文と下の文が、完全には一致しないものの補完しあうような関係になっていて、ここを行き来しながらつっかえつっかえ読み進めるようなテンポ感を狙って書かれたのかなぁと。
    ただこれはんーのPOVではないので、んーの思考が揺らいでいるというよりも、観測者目線で、この世界観自体がすごく末期的というか、滅びかけているような、あるいは論理的な定義づけを廃した、ただ自然な状態に回帰しようとしているような、そんな印象を受けました。世界の広さを知りたいと思わないのは、「世界の広さ」に意味を付ける必要がないほどに、ただそのままの世界が広がっている様を表現しているのかなぁとか。

    最後にあぶくが空を昇る部分が、私の中ではちょっと処理しきれないままです。
    シャボン玉みたいな形のあぶくを通じて声を発する生物なのか、あるいは水面(天面)の上も空気ではなくなにかの液体に満たされているのか。
    あるいは、誰も観測者が居ない場で発した声が空にしんと響く様子をそう表現しているのか。

    全体としてすごく穏やかで雄大な世界と、そこに生きるんーの切実で切迫した感情なんかが視覚や肌感覚的に伝わってくる、印象的な作品でした。
    不可逆的に進む世界の中で、自分なりの嬉しいとか悲しいとかに自信を持てるようになりたいと願う気持ちがテーマとしてあるのかなぁなんで、ぼんやり思いました。

    方角として、北西かつ北東というのはすごく納得のいく位置づけだと思いました。設定や展開で惹きつける部分と、んーの感情を共有する描写は北西を感じますし、『前展』の手法は斬新なだけでなく、世界の不可逆性になすすべない感じを表現されていて、作品の展開としてしっかりと意味がある仕掛けが北東を感じました。

    長文ですみません。
    素敵な作品でした!

  • 呼吸の肩。への応援コメント

    遅くなりましたが感想を書きたいと思います。

    冒頭から、水中なのだと感じさせる語彙・書き方・独自の造語に惹かれました。水中だから香りは空気中を漂うのではなく「小麦の香りが周りに沈殿する」。水中だから足をぶらぶらすると風が起きるのではなく「流れが起きて塵が動く」。地表の空の下ではなく水の中にあって、地表の天気にあたいするものは潮の流れであるから、晴天ではなく「凪下(なした)」。
    こうした語彙・書き方・造語を用いることで、異界の様相を設定を説明するような書きぶりではなくさりげなく書いていると感じました。

    しかしさりげなく書きながらも字面や文脈から説明はなくとも推測できるように工夫されているので、作者のフィンディルさんは決してなにげなく書いたわけではないだろうと思います。表現しているものはまったくちがいますが、前回の方角企画で私の参加作品で用いられている技術についてフィンディルさんが名づけた、「わからなくても何となくわかるようなかたちでわからない語彙を頻繁に用いる」技術が使われていると感じました。

    「わからなくても何となくわかるようなかたちでわからない語彙を頻繁に用いる」技術はいうまでもなく思考に支えられた書き方ですが、本作では頭でっかちさは感じさせず、むしろ幻想的な空気感を構成するのに用いられていると思われたのが興味深かったです。

    そしてどうしてこういう書き方をフィンディルさんがされたのか、あるいはこういう書き方をすることで本作にどのようなおもしろさが付与されているかを考えると、「世界の広さも、知ろうとは思わない」という終盤の一文が思い浮かんできました。

    本作の場合、説明するとなると、この水中世界と他方の地表世界のことを相対化することになると思います。地上ではこうだが、水中ではこう、といったような。開けた思考で、俯瞰的な視点から、相対化された世界を書くことになる。けれど「世界の広さも、知ろうとは思わない」んーには、ふさわしくない書きぶりだと思います。
    本作を読んだとき、幻想的な空気感と寂しさを感じました。幻想的な空気感はどこから感じるのかとえば、わかりやすく現実世界とちがう異界を描いているからだと考えられますが、では寂しさはどこから来るのか。私はんーの「世界の広さも、知ろうとは思わない」という内向きさから感じたのだろうと思います。

    本作を読んで、「スーヴェニールみたいだな」と思いました。スーヴェニールとは、日本だと冬に売られるスノーボールのなかに、観光名所の象徴的な建物を詰め込んだ、ヨーロッパの土産物店に売られているお土産のことです。日本のほかの人にあげるお土産とちがい、スーヴェニールは自分のために買うもの、旅で訪れたその場所を思い出すために買われるものなのだそうです。んーを中心として書かれた作中世界を眺めていると、このスーヴェニールを見ているような気分になります。特徴的な建物、閉じた、変わらない静かな世界、そこに降り積もるラメのかけら。その一隅にんーはいて、外へ出たいとも外を知りたいとも思わないんだな、と想像を巡らすと、私は寂しさを感じます。んーの内向きさに寂しくなるのは私の個人的な感性の問題とも思います。人によっては理解や共感や「そうなりたい」という憧れを抱くかもしれないと思いました。

    というのが本作の西的な部分への感想です。

    東的な部分は、1・2・3……と数字が振られた文章群だと思われます。1~5の文章は何であるかあまり解釈のわかれるものではないと思いますが、一応私の解釈を以下に書いておきます。
    1はんーとテテアの会話風景だけを第三者の視点から書いた文章。2はんーとテテアの会話内容。
    3は地表の様子。4はバスに乗っているんーの心情。5は水中の様子。
    これらの文章が時系列ごとに並行し述べられている、同時発生のものごとを並べて書かれている、のだと解釈しました。
    なんだか映像作品で作成される絵コンテの、文章の部分だけ抜き出したみたいだな、と感じました。
    そして他の方も多く言及されている67の文章群については私もお手上げでした。67
    は67
    (ろくじゅうなな)ではなく6と7で、元々別々の文章なのが、67という表記の通り混ざり合っている? ならば元々の文章を復元できるのか? などと考え、しばらく呻吟したりしたのですが。その一方で1~5までは東100%なのが67では西が混じっている? ならば元々の文章を復元するといった理にかなった解釈をするべきではないのか? とも考えました。「生前墓」ではなく「生墓」とは何なのか、最後の地表にいるはずなのにんーの口からあぶくが溢れてくるのはなぜなのか、そして「呼吸の肩」という謎めいたタイトルと同じように。

    と考える一方でいや私にはわからないだけでやっぱり何かあるのかも……と疑うようになり、しかしやはりわからない、わからないがやっぱり何かあるのかも……というループにはいってしまったのが感想を投稿するのが遅くなった理由の一つでした。

    最後に本作の好きな文章をあげたいと思います。
    「まずはわたしはわたしを知って。わたしの色を知ったうえで、何物にも染まらないようにする。」というんーが身にまとっている色彩が「月白のワンピース」と「濡羽色の髪」なのはいいなと思いました。黒と白は彩度を色相をもたない無彩色で、色であって色でないので。地表にあがると「純白のワンピースと漆黒の髪」と表現が変わるのもいいなと思いました。

    「天窓から薄い光の指が四本入る。テーブルを撫で、んーを撫で、温かい。」という冒頭の一文をたまに思い出します。日差しが部屋の中に入ってくるのを見るのが好きなのですが、日差しを指、日差しがあたるのを撫でる、と見ると、またちがって見えてきて、「呼吸の肩」のことを思い出しながらしばらくぼんやり眺めることがあります。

    お読みいただきありがとうございました。

    作者からの返信

    感想ありがとうございます!
    二年越しの返信ということで、非常に遅れてしまって申し訳ありません。

    語彙の使い方についてお褒めいただいて嬉しいです。
    ただ「小麦の香りが周りに沈殿する」「流れが起きて塵が動く」については、冒頭ということもあって「ここは水中世界である」ことを読者に示すために前のめりになっているのですが、ここについては自己評価としてはあんまり高くありません。
    仮にそこが地上であったら「小麦の香りが周りに沈殿する」「流れが起きて塵が動く」に相当する描写を入れるかというとおそらく私は入れませんので、やや描写過多といえる。これは作者が「読者にそうであると示す価値があるくらいには、この水中世界は変わった世界だ」と思っている態度を表明してしまうものであり、これは本作の創作主旨にそぐうものではないと考えます。
    とはいえ「小麦の香りが周りに沈殿する」「流れが起きて塵が動く」を完全に排除したために「ここは水中世界である」ことが読者に十全に伝わらないなどの事態が起きてしまうと、鑑賞のスタート地点にすら読者を立たせられないことになってしまう。
    本作には「ここは水中世界である」の奥に色々と鑑賞甲斐のある表現内容があると作者は認識していますので、「ここは水中世界である」を受けとることに読者の解釈を費やさせてしまうのは本意ではない。「ここは水中世界である」ことくらいは解釈の余地がないくらいに当然に素早く理解してもらうのが望ましい。
    なので作者は、それが本作の創作主旨にそぐうものではないとわかっていながらも「小麦の香りが周りに沈殿する」「流れが起きて塵が動く」という描写過多な文章を採用したわけですね。
    この一連の判断について、作者の自己評価はあまり高くないわけです。妥当な処理ではありますが、妥当な処理でしかないので。

    一方で、「凪下(なした)」「水和(みより)」などの造語についても久志木さんは言及してくださっていますが、こちらについては自己評価としても高めです。
    さきほどは「書かなくていい描写過多によって水中世界を表現している」ものなのですが、こちらは「自然に書くものの語彙を選んで、それを適切に造語に差し替えている」ものだからです。
    我々が使う語彙には、我々の生物的・文化的前提が色濃く反映されているものがあります。
    我々がこの世に生きて様々なことを知覚・経験することを「人生」と呼びますが、これは我々が人間だから。特定の物事に対する価値判断を「見解」と呼びますが、これは我々の多くは見ることによって判断材料を集めているからです。
    なので世界の前提が変わると、それに伴って変わるべき語彙もあるはずです。犬が主人公の作品では「人生」ではなく「犬生」という造語を使うみたいなノリですね。ややこしいから変えない判断をする作品もありますが、変える判断をする作品もある。
    本作は「晴天」や「日和」といった語彙を「凪下(なした)」「水和(みより)」などに都度差し替えることで、描写過多にならないまま、「ここは水中世界である」ことを読者に伝えています。
    また本作には水中世界と地上世界の両方が出てきますが、「凪下(なした)」「水和(みより)」という語彙があることで水中世界は(語彙に影響を与えるほど)彼らに馴染んだものであるという表現
    にもしています。どちらの世界が彼らにとって主なのか、語彙によっても表している。
    そしてその際には、久志木さんがおっしゃる通り「わからなくても何となくわかるようなかたちでわからない語彙を頻繁に用いる」技術を意識しています。

    またこれに関して紹介させてほしい技術があります。手前味噌になりますが、二年前の作品ということでご容赦を。
    本作はフリガナオンオフのラインを意識的に下げています。つまり積極的にフリガナを使う方針を採用しています。「月白(げっぱく)」「濡羽色(ぬればいろ)」「濾(こ)す」「戦(そよ)ぎ」など。いずれの語彙もそれほど難読ではありませんので、本作でなければフリガナはオフにしていると思います。
    ただ本作はあえてオンにしています。
    造語は基本的にフリガナを入れるのが望ましいと考えています。でないと読み方がわからないからです。検索しても当然ながら出てきませんし。
    「凪下(なした)」「水和(みより)」のように熟字訓的なものは当然ですし、「水崩(みずくず)れ」のように素直に読むものであっても造語である以上「水崩れ」だけでは読みようがありません。なので造語は基本的にフリガナを入れるのが望ましい。
    しかしそうすると造語が悪目立ちしてしまいやすくなる。作中世界にとって「凪下」「水和」は「晴天」「日和」くらい何てことのない語彙なのですが、我々にとっては造語ということでフリガナを入れる特別措置を施すことになる。そうすると造語感が悪い意味で強まってしまう。作中世界と我々とで語彙感がズレてしまう。
    その造語感を緩和するためにフリガナオンオフのラインを意識的に下げ、難読気味な語彙には積極的にフリガナを入れています。
    これによってフリガナがあることの特別感が薄れる。「フリガナがある≒造語」の式を崩せる。
    かつフリガナなしでも読めそうな既存語彙にもわざわざフリガナがあることで、造語にフリガナがあっても「まあなくても読めるけどね」感を演出できる。「水崩れ」なんてフリガナがないと「みずくずれ? みなくずれ?」となるはずなのですが、読めそうな語彙にもフリガナがある文章環境なので「水崩(みずくず)れ」を見たときに「まあフリガナなくても『みずくずれ』と読めそうだけどね」と錯覚してくれるんじゃないかと期待しています。
    これが結果的に造語の造語感を下げ、作中世界と我々との語彙感のズレを緩和してくれるんじゃないかなと作者は想定しています。本作はめちゃくちゃ造語を用いているのですが、良い意味でうるさくないんじゃないかなと期待しています。
    単純にフリガナ過剰でうるさいと感じた人はいるかもしれませんが、そこは作者としては問題のないコストかなと考えています。

    というふうに本作には久志木さんが仰るとおり「思考に支えられた書き方」が敷かれているわけですが、頭でっかちさは感じられないと評してくださっている点はとても安心しました。思考に支えられているが、空気感の構成になっている。
    私は久志木さんについて「思考に支えられた書き方」による北北西・北西創作が魅力のひとつである方と認識しているのですが、そんな久志木さんにこの評価をいただけたのは嬉しいです。ありがとうございます。



    「世界の広さも、知ろうとは思わない」の一文についてですが、久志木さんの感受の前に、まず基本的な解釈について整えたいと思います。
    つまり、「世界の広さも、知ろうとは思わない」の主語はんーなのか。
    これについて作者としては、んーが主語であることを否定こそしませんが肯定はしていません。

    67には完全な文章はありませんが、両文章ラインを補完しあうことで一定の復元を試みることはできます。この復元を試みてみると、67の終わりは
    ―――――――――――――――――――
    空は相変わらずの広さだった。森は相変わらずの青だった。風は相変わらずの騒がしさだった。ここにんーが生きていても、気にする存在はない。世界の広さも、知ろうとは思わない。
    ―――――――――――――――――――
    などとなります。細かい言葉尻の組みあわせによって多少の差異はありますが、概ねこのように復元できます。
    ではこの文章を見たときに「世界の広さも、知ろうとは思わない」の主語はんーなんですかとなると、「主語はんーです」と躊躇わず肯定できるような文脈ではないと作者は想定しています。
    文脈だけを考えるなら「気にする存在」が主語であるようにすら感じられると思います。じゃあ「気にする存在」とは何なのかとなると、「空」「森」「風」が妥当なように感じられます。つまるところ「世界」ですね。
    「世界の広さも、知ろうとは思わない」の主語って「世界」なんじゃないか、じゃあ「(世界は)世界の広さも、知ろうとは思わない」とはどういうことか、じゃあ「世界」とは何なのか。
    などということで、「世界の広さも、知ろうとは思わない」の主語および解釈は一意に定まらないことを作者は想定しています。一意に定まらないように書いたと執筆時の意図を記憶していますし、いま見てもそのような風情であると読みとれる仕上がりになっていると考えます。
    んーが主語であることを否定はしませんが、「空」「森」「風」が主語であることも否定しませんし、「世界」が主語であることも否定しませんし、「世界」の解釈も否定しない。

    久志木さんとしては、この場面における生物らしい生物がんーしかいないので「世界の広さも、知ろうとは思わない」の主語をんーに接着したのだろうと思いますが、文脈を汲むかぎりではその接着は決して唯一回答になるものではないと考えます。し、それが唯一回答になるものではないと鑑賞できる程度の懐は本作に備わっていると思います。
    そもそも67に完全な文章がない以上、どこまでそれを文章として信頼していいのかという側面もありますし。
    というところを作者としてまず整えておきたいと思います。「世界の広さも、知ろうとは思わない」の主語はんーであるという解釈について、作者として必ずしも同意するものではありません。

    ただそれは「他の主語も肯定できるよね」という話であって、先述するとおりんーが主語であることを否定するものではありません。なので久志木さんの解釈について作者は肯定することはありませんが、否定することもありません。
    なのでせっかくなので久志木さんの解釈(「世界の広さも、知ろうとは思わない」の主語はんーである)を仮に肯定してみたうえで、先のお返事をしたいなと思います。



    「世界の広さも、知ろうとは思わない」と思うんーに久志木さんは寂しさを感じる。
    この感受自体については作者も同意しますが、そのニュアンスやこの感受から得るものについては作者は違うものを眺めています。
    読者と作者とで眺めが違っているのは健全なことですが、その眺めの違いをあえて取りあげてみるのも健全で楽しいことだと思うので、取りあげてみます。

    まず「世界の広さも、知ろうとは思わない」は「世界を広さも、知りたくないと思う」とは全く別です。前者は「知りたい」がオンにならない、後者は「知りたくない」がオンになっている。なのでんーは「知りたい」とも「知りたくない」とも思っていない。んーは、広くあろうとも狭くあろうとも思っていない。
    次に、んーが生きている世界は狭いのか。というと作中で窺うかぎり、決してそんなことはない。
    バスで二十分弱の距離にある墓を訪れている。道中では近所の人との交流をしている。水中世界と地上世界を行き来している。
    んーがどういう価値観でどういう生活を送っているのかはわかりませんが、作中で描かれたんーの一日を見るかぎりでは、狭い世界で生きているだとか寂しいだとか内向きだとかの判断を下すのは難しいと作者は理解しています。

    これを現実世界に置き換えてみると、その感受は久志木さんのなかでも変わってくるんじゃないかなという気がします。
    近所の人と世間話をしたあとで、バスでニ十分弱の距離にあるお墓を訪れてお参りをする。水中世界と地上世界を行き来するのは適当な代替がなかなかありませんが、県境や国境を越えるお出かけと仮定しましょうか。
    この一日を覗き見て「狭い世界で生きてるね」「寂しいね」「内向きだね」とは感じないだろうと思います。
    そして厳密に言うとこれは「狭い世界で生きてるね」「寂しいね」「内向きだね」と感じないというより、「狭い世界で生きてるね」「寂しいね」「内向きだね」と感じないほうが都合が良いということなのだろうと思います。
    だってこの一日を「狭い世界の内向きで寂しいもの」と感じてしまうと、我々の人生から「狭い世界の内向きで寂しいもの」でないものがおよそなくなってしまうから。
    世界の広さを知りたいとも知りたくないとも思わず近所の人と世間話をしてバスに乗って隣県にある墓に訪れる人を「内向きで寂しい」と感じてしまうと、自分はもちろんこの世界に「内向きで寂しい」にあたらない人や生活はどれほど存在するんだ、という話になってしまう。
    なので「内向きで寂しい」とは感じたくないな、というバイアスがかかってくるんじゃないかなと思います。

    だからんーを「内向きで寂しい」と感じないようにしよう、かというと、そうではない着地をしたいなと思います。
    んーを「内向きで寂しい」にしてしまうと我々も「内向きで寂しい」になってしまうから、んーは「内向きで寂しい」ではないよね。とは違う着地。
    我々は自分のことを「内向きで寂しい」ではないと思いたがるけれど、んーに「内向きで寂しい」と感じたということは我々は「内向きで寂しい」んだな、という着地をしてみたいなと思います。

    SFの良いところのひとつとして、SF世界を俯瞰することで我々の世界を俯瞰できるというのがあると思います。
    どうして久志木さんが本作およびんーを見てスーヴェニールを想起したかというと、おそらく現実世界と作中世界は全くの別物であると感じたからだろうと思います。
    自身は作中世界の外側にいるという自認があって、その自認のもとに作中世界を見ているから、世界の外殻が知覚でき、スーヴェニールを想起したのだろうと私は捉えています。「自身もその世界の一部である」との留意なしに世界を“他人事”に認識できる。
    この場合、感受にバイアスがかかりにくいんですよね。自身を含まないかたちでその世界にあれこれ思うことができるので。
    逆に世界の内側から作中世界を認識して、そこにスーヴェニールを想起するのはやや難しいと思います。
    そして「自身もその世界の一部である」と留意したうえで世界を認識するので、「こう思ってしまうと自分にとって都合が悪いな」というバイアスがかかりやすくなってしまう。保守的な鑑賞になるといいますか。

    久志木さんがんーに「内向きで寂しい」と感じたとして、じゃあ我々はんーとは違って「内向きで寂しい」ではないんだと否定しようと思っても、否定しきれないと思うんですよね。決定的な違いはおよそないからです。
    我々は、ここまでの世界さえ知っていれば自分の生活や価値判断は回るからこれで十分だ、と思ってしまいがちです。世界の広さを知ろうとあえて思ってみても、どこかで「ここまで知れたら十分だな」とブレーキをかけてしまいやすい。自身のキャパを超えて「世界の広さを知ろう」と思い続けて行動するのは本来人間にとってストレスですからね。
    んーに「内向きで寂しい」と感じたとして、それはんー特有の性質ではなく、我々にも共通する性質であると作者は思います。
    我々はみんな「内向きで寂しい」んですよ。

    そういうものをバイアスを潜り抜けて教えてくれるのが、SFの良いところのひとつだと思います。その作中世界やそこに生きる人から得た感受は、実は現実世界やそこに生きる我々にも共通するものである。
    「この世界」を見ていても得にくい「この世界」の本質めいたものが、「あの世界」を見ることで得やすくなる。彼らを見ることで我々を見る。
    そういう鑑賞がSF創作の主要なのかなと私は思っています。

    なのでんーに対して「内向きで寂しい」とする感受については作者も概ね同意するのですが、そのニュアンスやこの感受から得るものについては作者は違うものを眺めています。
    もちろん何を眺めていてもいいんですけどね。「内向きで寂しい」はんー特有の性質であるのが久志木さんの眺めならばそれでもいいと思います。違う眺めがあることで自分の眺めの彩度が上がることもあると思いますし。
    作者の眺めとしては(主語のこともあいまって)「世界の広さも、知ろうとは思わない」からんー特有の性質を見出そうとするのは糠に釘の感がありますし、「んーは内向きで寂しい」から「ということは我々は内向きで寂しいんだな」まで広げてみたくなるな~と思います。

    また久志木さんの仰るとおり、んーから何を甘受するかは読者それぞれだろうと思います。
    そこで得たそれぞれの感受を、「あの世界」から「この世界」に還元してみると楽しそうだなと思います。



    数字パート(私はこれを「前展」と呼びます)について、絵コンテを想起されたのはなるほどなーとなりました。
    確かに絵コンテって、その絵の様々な箇所について文章などで指示が入れられてあって、仮に絵コンテを等速で流してみると「前展」っぽい感覚になるだろうなあと思いました。

    で、少し話は変わるのですが私が面白いなと思ったのが、ここで言う絵コンテっておそらく鑑賞物としての絵コンテなんだろうなと感じられたところです。
    本来絵コンテって制作過程において制作チームに共有される制作資料(≠鑑賞物)なので、その絵コンテを受けとる人(=制作チーム)はおそらく同時発生的な処理はしないだろうと思います。指示ひとつひとつに何らかの回答を返さないといけないので。(全体のバランスを見ながら)ひとつひとつの指示を確実に処理していくだろうと想像します。なので本来の文脈における絵コンテってあまり「前展」っぽくない気がします。
    ただ「制作の裏側を公開」的コンテンツのなかで出てくる絵コンテは、ひとつの鑑賞物として扱われる。本来制作資料であって鑑賞物でないものが、特定のコンテンツ文脈のなかでは鑑賞物として扱われる。この場合絵コンテが共有されているのはファンなので、その絵コンテを受けとる人(=ファン)は同時発生的な処理をするのだろうと思います。指示ひとつひとつに回答を返す必要はなく、指示全体に対して「ほえー」という感嘆の息を返す。個別の指示を受けているのではなく、同時発生する各指示を通して制作全体を想像する鑑賞をしている。この文脈における絵コンテは確かに「前展」っぽいなと思います。
    そこが面白いなと思いました。制作資料としての絵コンテと鑑賞物としての絵コンテには別の性質が宿り、(制作チームでない)我々は基本的に後者として絵コンテを受けとっている。



    67は端的に言うと、「思考に支えられた書き方」ではないんですよね。
    本作は「思考に支えられた書き方」が厚めに敷かれているのですが、67だけは「思考に支えられた書き方」で書かれていない。
    なので本作から「思考に支えられた書き方」を厚めに感じた久志木さんが、「思考に支えられた書き方」による北北西・北西創作を久志木さんの魅力のひとつとする(と私は思っている)こともあいまって、本作はこう読めばいいんだと鑑賞の軌道に乗り、であるがゆえに67も「思考に支えられた書き方」と思い、しかしその軌道では鑑賞が上手く着地せず、お手上げになってしまうのは無理のないことだと思います。

    久志木さんが捉えているとおり本作の北西表現の大半は「思考に支えられた書き方」で書かれているのですが、言うなればこれは“北西のガラス板の北面”のようなものだと思います。北的な北西。
    対して67は「思考に支えられた書き方」では書かれておらず、言うなれば“北西のガラス板の西面”であるように作者は思います。西的な北西。もっと言うと“北西のガラス板の南面”かもしれない。“北西のガラス板の南面”ってよくわかりませんが。
    なので鑑賞のチャンネルを全く異にする作品表現が67で急に現れたということですね。

    これについての作者の自己評価はなかなか複雑で、67の品質については評価は低めであるものの、67の存在自体については「方角の混在」が良くも悪くも主要テーマになっている本作においては“そこに在るべき異物”として肯定したい、といった風情です。

    私も小説作者としては「思考に支えられた書き方」によって作品細部に至るまで肌理を整えることを好むタイプなのですが、であるからこそ「思考に支えられない書き方」の価値を感じたいなあと思います。以前久志木さんにはどこかでお話ししたことがあると思うのですが、基本的に「思考に支えられた書き方」の森林限界は北西ですからね。
    そしてそんな「思考に支えられない書き方」と東向きである「前展」とを綯うことに、価値を感じたいなあ。と執筆時に思っていた記憶があります。



    水中では「月白のワンピース/濡羽色の髪」、地上では「純白のワンピースと漆黒の髪」。
    こういうところに着目してくださるところ、私が思う久志木さんの好きなところのひとつです。ありがとうございます。
    作者としては、「月白のワンピース/濡羽色の髪」がんーの本来の色で「純白のワンピースと漆黒の髪」が地上特有の色味という表現になっていたらいいなあと思っています。
    ついつい「純白のワンピースと漆黒の髪」こそがんーの本来の色で「月白のワンピース/濡羽色の髪」が水中特有の色味と思ってしまいがちですが、それは我々が地上で生活しているからそう思ってしまうだけで、水中で生活していると思しき彼らにとっては「月白のワンピース/濡羽色の髪」こそが本来の色なのだと。
    深海魚には赤い魚が多いのですが、これは彼らの暮らす深海では赤は黒っぽく見えるからだそうです(保護色になる)。ならばその深海魚は黒こそが本来の色であり、赤は地上特有の色味に過ぎないと考えたいよなあと思います。

    「まずはわたしはわたしを知って。わたしの色を知ったうえで、何物にも染まらないようにする。」としたうえで、「月白のワンピース/濡羽色の髪」である水中から地上に出て「純白のワンピースと漆黒の髪」へと色味を変える。
    しかしいずれも「彩度を色相をもたない無彩色で、色であって色でない」。むしろ「純白のワンピースと漆黒の髪」という(本来ではない)地上特有の色味は、「月白のワンピース/濡羽色の髪」以上に無彩色である。
    そこに創作的滋味が出ているといいなあと思いますし、取りあげてくださって嬉しいかぎりです。



    「天窓から薄い光の指が四本入る。テーブルを撫で、んーを撫で、温かい。」。
    こういうところに着目してくださるところ、私が思う久志木さんの好きなところのひとつです。ありがとうございます。
    これは個人的なイメージで科学的には必ずしもそうではないかもしれませんが、水中の光って(空気中の光に比べて)身体性があるような気がするんですよね。なので「撫でる」という語彙がより合うような気がしています。ちなみに指が四本なのは天窓に十字格子が嵌められているからですが、これは言わずとも久志木さんなら読みとってくださっているだろうと思います。
    この描写は私も好きな描写で、好きであるがゆえにさらっと流そうという意識を働かせた描写でもあります。
    日常で思い出したくなる描写を提供することができて嬉しく思います。旅行先の売店で見つけて買ったキーホルダーをずっとバッグにつけているみたいなもので、何だかんだでそのキーホルダーと出会えたことがあの旅行で一番良かったこと、だったりもありますよね。
    取りあげてくださって嬉しいかぎりです。掻いてほしいところを掻いてくださる。

  • 呼吸の肩。への応援コメント

    なんとも不思議で素敵な世界観のお話ですね!
    水中で人間が暮らしていて、自分のお墓参りを地上にしに行くなんて驚きです。でもおそらく、んーたちにとっては日常の出来事なのでしょう。
    水中だから、パンの香りが沈殿したり、張り紙でなくて張り布になっていたり、描写が丁寧だと感じました。

    数字が振られて文章が分かれる部分が特徴的ですね。
    片方は会話内容のみを、片方は情景描写という感じに分かれていて面白いです。番号が振ってあるので、読みにくさもさほど感じませんでした。
    仮に数字がないと読みにくくなると思うのですが、そうすると東に傾くものなのでしょうか。
    最後の、67はそれまでの分岐とは違い、文章そのものが揺らいでいるようで(それこそ風で揺れる水のイメージが浮かびました)、強く引き込まれました。

    個人的に一番不思議なのはタイトルです。呼吸する時の肩の上下運動を指しているのではないかと思うのですが、文章中で何度も描写される『あぶく』ではなく、『肩』なのが興味深いです。
    私は北北西かつ北東かなと感じました。

    作者からの返信

    感想ありがとうございます!
    二年越しの返信ということで、非常に遅れてしまって申し訳ありません。

    数字については識別番号に過ぎません。確かに数字があることで読みやすさは向上しており、数字がなくなると読みやすさは減退すると思うのですが、それはマイナス15度よりマイナス13度のほうが暖かいですと言っているようなもので、方角を左右するほどの存在ではないと思います。北も東もそんなにヤワなものではないかなと。

    ―――――――――――――――――――
    最後の、67はそれまでの分岐とは違い、文章そのものが揺らいでいるようで(それこそ風で揺れる水のイメージが浮かびました)、強く引き込まれました。
    ―――――――――――――――――――
    非常に嬉しいです。ありがとうございます。
    67はどう読めばいいのか、67は何を表現しているのか、67は何なのか。
    ではなく、
    67を読んでどう感じたか、67から何をイメージしたか、67から何を受けとったか。
    に言及してくださっているのは泡沫さんだけであると作者は認識しています。非常に嬉しいです。ありがとうございます。
    12と345の流れで67を読む関係で読み方的な意味での困惑を誘発してしまいやすいのですが、そこで鑑賞のチャンネルを切り替えてくださっているのは非常にありがたいです。あるいはこの方角企画にて泡沫さんは南への関心を持たれていましたので、鑑賞のチャンネルを切り替えやすかったのかもしれませんね。
    作者としては67の自己評価自体は割と低めなのですが、「方角の混在」が良くも悪くも主要テーマになっている本作においては67に対し“そこに在るべき異物”くらいのイメージを持っており、その点では67を肯定しています。

    文章そのものが揺らいでいる、そしてその揺らぎに意味を求めずにその揺らぎそのものに引き込まれてみる。とても良い読み方だと思います。嬉しい。
    「風で揺れる水」は確かに文章の香りと近しいと思います。また本作は水の香りに、この場面は風の香りに満ちていますので、そことも接続することで鑑賞に馴染んだのだろうと思います。
    作者としても(執筆時に付託したイメージは異なりながらも)似たような引き込みを遠目に眺めながら執筆していた気がします。
    非常に嬉しいです。ありがとうございます。

    タイトルに言及いただいたのもありがたく思います。
    (お察しのとおり)「呼吸の肩。」というタイトルは本作の何かを指し示すものではありませんが、本作にタイトルを付けるなら「呼吸の肩(。)」しかないと作者は確信しています。
    言うなれば名付けですね。「呼吸の肩(。)」は本作のタイトルではなく本作の名前なんです。
    そう書いてみると、泡沫さんなら理解してくださるんじゃないかなと思います。

  • 呼吸の肩。への応援コメント

    企画より拝読。
    真北でも北北西でも北北東でもなく「北1/3、西1/3、東1/3」という宣言がしっくりきました。明確に「この部分はこの方角の持ち味を活かす」という書き方をされていますね。
    個人的に見慣れない東的な部分が特に目を引きます。1・2と並列して書かれる表現の仕方、そこから3・4・5と行が増えて、さらに67では行が入り混じるこの表現は、さまざまな情報が受け身のうたにわーっと流れてくるような感覚でおもしろかったです。
    水の中の幻想的な世界を表現する単語チョイスもおもしろかったです。このあたりは北のおもしろさですよね。
    読んでおもしろくて、勉強にもなる作品でした。

    作者からの返信

    感想ありがとうございます!
    二年越しの返信ということで、非常に遅れてしまって申し訳ありません。

    ―――――――――――――――――――
    明確に「この部分はこの方角の持ち味を活かす」という書き方をされていますね。
    ―――――――――――――――――――
    非常にその通りで、本作の主要テーマのひとつです。いかにも方角企画的なテーマですね。
    ただそのテーマは本作にとって良いのか良くないのか、もっと言うとこのテーマを掲げていることを読者におよそ隠そうともしていない創作態度(宣言しているかどうかではなく作品内容自体)は本作に良い作用をもたらしているのか良くない作用をもたらしているのか、これについては作者のなかで評価が割れています。
    もう少し方角的多角さを隠して天衣無縫を目指すことで洗練が与えられて、より本作に合致した創作景色が見られるのではないか。いや、方角的多角さがもたらす茫洋こそが本作に合致した創作景色なのではないか、天衣無縫を目指す必要はないんじゃないか。評価が割れています。
    そして「評価が割れています」地点で留まってしまうのが自己評価の限界だろうとも感じています。歯痒いものですね。

    ―――――――――――――――――――
    さまざまな情報が受け身のうたにわーっと流れてくるような感覚でおもしろかったです。
    ―――――――――――――――――――
    数字パート(私はこれを「前展」と呼びます)について、作者が鑑賞してほしい鑑賞をしてくださっているなあと思います。さすが雨蕗さんですね。
    文章鑑賞で「受け身」を強く感じることはあまりないと思うのですが、それが「前展」の特徴ですね。

    ―――――――――――――――――――
    水の中の幻想的な世界を表現する単語チョイスもおもしろかったです。このあたりは北のおもしろさですよね。
    ―――――――――――――――――――
    これに「違います」というのは作者のエゴなのですが、「そうですね」と言うのも難しいかなと思います。
    「非日常の日常」には、それが非日常的であるとエンタメ集中線を引いてしまうと「非日常の日常」性が薄まるが、それが非日常的である情報すら示さないと「非日常の日常」の成立自体が危ぶまれる、という根源的なジレンマがあります。
    この方角企画にて雨蕗さんが投稿してくださった作品が、まさにそのジレンマの実例だったと思います。
    本作も「非日常の日常」を要素のひとつとして採用しているのですが、当初はこのジレンマへの対応として「水中にちなんだ語彙を一切用いずに、そこが水中であることを直感的に示す」に挑戦して執筆リソース的な都合で断念し、エンタメ集中線を引かないよう留意しながら語彙選択や文章運びを調整するというオーソドックスな「非日常の日常」的対応を行ったという経緯があります。
    この調整はある程度奏功していると作者は認識しているのですが、やはり執筆リソース的な都合で精度高く調整できているという手応えは執筆当時から弱く、品質面としてやや気がかりだったところです。
    「非日常の日常」性を著しく薄めてしまうようなエンタメ集中線は排除できているが、「非日常の日常」性を効果的に濃くするような仕事については個別具体的な技術を数点採用するに留まっている、という自己評価です。やる必要性は感じているしそのための技術を動員しているのは明確に見てとれるが、総合的に「非日常の日常」として高い作品品質に至っているかはまた別、という自己評価です。
    ということがありますので「このあたりは北のおもしろさですよね」については、そう感じた読者がいらっしゃったという点で「そうですかー」と思う反面、上経緯を汲んだ評価というわけではなさそうなので「そうですかー」と思わないでもないです。

  • 呼吸の肩。への応援コメント

    数字パートの並行進行、面白い試みですねえ!
    方角としては東北東の気がします。数字パートで実験色を強く感じましたが、内面吐露的な生っぽさは個人的にあまり感じなかったので、西みは薄い感触でした。

    作者からの返信

    感想ありがとうございます!
    二年越しの返信ということで、非常に遅れてしまって申し訳ありません。

    「北の要素」「東の要素」に比べて「西の要素」は一意に定まりにくいので、「内面吐露的な生っぽさ」の有無・濃淡で西の方角をはかるのはあまりオススメしません。
    それこそ「内面吐露的な生っぽさ」の有無・濃淡で西の方角をはかる態度自体が、非常に北っぽいなと思います。
    「西=内面吐露的な生っぽさ」というロックを外してみるといいんじゃないかなと思います。

    それとは別に、本作は北西的なのか北北西的なのかについては議論の余地がありますけどね。

  • 呼吸の肩。への応援コメント

    不思議で綺麗なお話ですね。お話だと感じたところが北要素強めなのかなと思いました。特に数字の箇所の工夫が面白かったです。自分でもやってみたくなりました。三つに増えるあたりは難しそうですけど……。
    読み直すたびに、ここはこういう意味? こうかも、とか頭がすごく動きますね。楽しい体験でした。

    作者からの返信

    感想ありがとうございます!
    二年越しの返信ということで、非常に遅れてしまって申し訳ありません。

    お話だと感じたところが北要素強めというのは、作者の想定と概ね一致しています。北要素の最低限の骨格を踏まえるだけで、作品は大きく北に寄りますから。

    数字パート(私はこれを「前展」と呼びます)については、書くのはそんなに難しくないと思います。東基準では、の話ですが。
    ただそのなかで面白さやおかしみを出すには、一定以上の技術と場数が必要だろうと思います。もちろん“読みにくい”手法ですので、そのための技術と“読みにくい”への覚悟と敬意も必要だろうと思います。
    自由度や拡張性は高い手法ですので、楽しいと思える人には楽しいはず。

    ―――――――――――――――――――
    読み直すたびに、ここはこういう意味? こうかも、とか頭がすごく動きますね。楽しい体験でした。
    ―――――――――――――――――――
    については、北西創作らしい読書体験だな~という印象です。意味を探そうとする時間そのものが意味である。
    これを「楽しい体験」と思えるかどうかが基本的な北西適性を分けるはずです。「楽しい体験」と思えたようで何よりです。

    私が常々感じていてこの感想でも感じたことですが、竹神さんって感覚が良いですよね。
    感覚が良い人だな~と思いました。

  • 呼吸の肩。への応援コメント

    初めまして、ゆげといいます。読みながら方角を考えてみたり、自作にもご意見をいただいたり、新しい気づきがあったり、楽しく参加させていただいています。

    数字のところはなぞ解きの気分で読みました。67の読み方が分からないままでした。絵本を思わせるような幻想的な描写と裏腹に、んーの心の声が痛くて、悲しかったです。方角も自分なりに考えてみたのですが、よくわかりませんでした。不思議な世界観のどこかに南の要素も持ち合わせているようにも思います。

    作者からの返信

    感想ありがとうございます!
    二年越しの返信ということで、非常に遅れてしまって申し訳ありません。

    12、345に比べて67は方角が違っていまして、読み方なるもので御する場面ではないと考えています。
    読み方なるものはないというのが読み方ですね。

    この企画がゆげさんとの出会いになりましたので、初々しいやりとりだなぁという印象です。
    この感想当時からゆげさんとはいくつか交流をさせていただいたので、この感想時点に比べると方角への理解も多少は深まっているんじゃないかなあ? と期待しています。飽くまで私の期待の話。
    今後ともよろしくお願いします。

  • 呼吸の肩。への応援コメント

    とても綺麗で、不思議で、興味深い作品でした。
    ストーリーとしては、水中から陸上へお墓参りに行く、というもののようで、面白いと感じました。んーが暮らしている場所の様子も、描写から想像しやすく、こんな暮らしも素敵だなぁと思いました。

    また、いくつか数字のふってある文がありましたが、すぐにどう読むのかが分かりました。同時に起こっていることを、こんな形で表現するのは面白いですね!
    これは「小説で映像を表現する」に当たるのでしょうか。とても面白いです。
    三つに分かれているところは、「陸上」「んーの心の中」「水中」で起きていることなのだろうと読みました。これもまた面白いですね!
    最後のパートは何か二つが混ざっているように感じましたが、これは言葉に出来るものではないのかな なんて思いました。

    方角、北西かつ北東を宣言されているそうですが、私にはそのどれもが感じられました。
    ストーリーが分かるところに北を、「小説で映像を表現する」ようなところに東を。んーの心の中を表している文章や、私たち人間とは違ったところに暮らす『んー』たちを、飾らずに表現しているところに西を感じました。
    私は特に東向きに興味を惹かれましたが、バランスはとれているのではないかと思います。それぞれの面白みが感じられて、良かったです!

    作者からの返信

    感想ありがとうございます!
    二年越しの返信ということで、非常に遅れてしまって申し訳ありません。

    二年越しの返信ということでこちらの感想を二年振りに読み返したのですが、さすが夜桜さんだなというか、過不足なく概容に触れられていて「そうなんですよね~」の一言で感想返信を終わりたくなりました。
    ―――――――――――――――――――
    ストーリーが分かるところに北を、「小説で映像を表現する」ようなところに東を。んーの心の中を表している文章や、私たち人間とは違ったところに暮らす『んー』たちを、飾らずに表現しているところに西を感じました。
    ―――――――――――――――――――
    そうなんですよね~。

    特に数字パート(私はこれを「前展」と呼びます)への感想については、私が「前展」に抱いている基本イメージをかなり正確に拾ってらっしゃるなという印象です。
    「前展」はすごく映像的な小説表現なんですよね。
    基本的に文章表現は進行の権限を読者が握っています。読者が読み進めるという行為をしないと作品は進まない。
    ただ「前展」ではそういう一般的な読み方が難しいので、各文章ラインを等速で流して「ちゃんと読めてないけど先に進む」という読み方が妥当になると作者は想定しています。
    このとき進行の権限は(読者ではなく)作品が握っています。
    これが非常に映像的なんですよね。鑑賞者があえて止めたり戻ったりしないかぎり映像作品は勝手に進む。
    この作者の想定を捉えられているところ、さすが夜桜さんだなと思います。嬉しかったです。

    なので一般的な文章のような読書感は当然なく、「ちゃんと読めてないけど先に進む」文章のなかで何が知覚されたかというところに「前展」の妙があると思っています。

    ちなみに私がどうしてこの手法に「前展」という言葉をあてているのかというと、前面展望(前展)にインスピレーションを受けたものだからです。
    あまり詳しくは説明しませんが、夜桜さんなら前面展望をググるだけで「確かに!」となってくださるだろうと思います。特に345は非常に前面展望的です。
    ただここも面白いと作者が認識しているところなのですが、じゃあ345を映像表現化するとその映像には「前展」が容易に宿るのかというと、そうとはならないはずです。

    ―――――――――――――――――――
    最後のパートは何か二つが混ざっているように感じましたが、これは言葉に出来るものではないのかな なんて思いました。
    ―――――――――――――――――――
    これは仰るとおりで、「言葉に出来るものではない」とする理解が妥当であると思います。
    ただ「言葉に出来るものではない」からこそ言葉にしてみるともっと楽しいんじゃないかな~なんてことも思いました。
    これは西や南のお話なので、夜桜さん的にはそこまで食指が向かないかもしれませんね。

  • 呼吸の肩。への応援コメント

    童話のような絵画のような、不可思議な世界観と美しい描写。
    とても不思議な読み心地でした。

    数字パート、おもしろいですね。ここが東でしょうか。
    水中から地上へのお墓参り。それが自分の生墓であるということ。それに指を這わせるという行為にどんな意味があるのか。このへんが北向きかなと思いました。
    水面に広がる波紋のような、あるいはくりかえし出てくる『あぶく』のような、文章そのものから感じたイメージは西向き。

    しかし、ほかの方のコメントにもありますけれど、作品全体を見るとわたしも南向きに感じられました。
    分解して見ると確かにそれぞれの方角がはいっているようですのに。
    純粋にとても魅力的な作品だと感じましたが、そういう意味でもおもしろいなと思いました。

    作者からの返信

    感想ありがとうございます!
    二年越しの返信ということで、非常に遅れてしまって申し訳ありません。

    ―――――――――――――――――――
    水中から地上へのお墓参り。それが自分の生墓であるということ。それに指を這わせるという行為にどんな意味があるのか。このへんが北向きかなと思いました。
    ―――――――――――――――――――
    については、作者の想定とは違うかなと思います。作者の想定と読者の受けとりが違っててもいいんですけどね。違っててもいいというのは原則としたうえで、その違いを取りあげてみると楽しそうだなと思うので作者の想定を軽くお話ししてみます。

    生墓なる文化、生墓に指を這わせる文化、これにはどういう意味があるのかを考えたくなるところが北向きっぽいのではないか。
    作中に“正解”が書かれていないだけであって“正解”相当のものはあって、それへの考察を深めてみたくなるのが北っぽい。実際エンタメでそういう手法はありますからね。

    ただ作者の想定においては、「生墓にはどんな意味があるのか」「生墓に指を這わせる行為にどんな意味があるのか」って「墓にはどんな意味があるのか」「墓に手を合わせる行為にはどんな意味があるのか」という疑問と表裏一体であると思います。
    現実世界を舞台にした作品において墓が出てきたり墓に手を合わせる行為が出てきたりすることがあると思いますが、墓や墓に手を合わせる行為にどんな意味があるのかについて作中で説明することはまずないと思います。じゃあそのときに我々は「墓にはどんな意味があるのか」「墓に手を合わせる行為にはどんな意味があるのか」を考察するかというと、しない。
    墓や墓に手を合わせる行為にはもちろん意味はあるのですが、その意味について作品はわざわざ説明しないし、読者もそれを探ることを鑑賞の主にはしない。
    説明されなくてもわかっているし、鑑賞の焦点は他にあると思っているからです。
    この感覚をそのまま本作にスライドしてみる。説明されないとわからないものを、説明されなくてもわかっているものとあえて見なして、鑑賞の焦点を探る。
    そうすると作者の想定に近しいものになるんじゃないかなと思います。
    先ほども述べたように、作者の想定が正解ではありませんし、作者の想定に近づける必要もないんですけどね。
    なおこれは「生墓≒墓」「生墓に指を這わせる≒墓に手を合わせる」ことを示すものではありません。

    ―――――――――――――――――――
    しかし、ほかの方のコメントにもありますけれど、作品全体を見るとわたしも南向きに感じられました。
    分解して見ると確かにそれぞれの方角がはいっているようですのに。
    ―――――――――――――――――――
    愛崎さんも仰っている印象ですが、色々な方角が入っていることで南向きに見えるというのはひとつの感覚としてあるかもしれませんね。
    ただそこで「だから南向き」としてしまわず、腑分けするとそれぞれの方角があるのになと受けとってくださるのがありがたいですし、そのほうが鑑賞も広がると思います。
    「北1/3、西1/3、東1/3」と作者が言っているからというのもあるかもしれませんが、誠実な受けとりだと思います。ありがとうございます。


  • 編集済

    呼吸の肩。への応援コメント

    おおお。
    これは独創的ですね。

    水中から地上へお墓参り。
    それが自分のお墓だったと!

    竜宮界は霊界の中の一つ、と言われてたりもしますので、そんな霊界と地上を結ぶバスツアーがあっても変じゃないですよね。(変だろ!)

    とりあえず気になったのがバスです。
    これはきっと、ディーゼル・エレクトリックです。潜水艦と同じ。
    排気管が天井にあるから多分間違いない。

    基本的に蓄電池の電力でモーターを回して走ります。
    水中ではスクリューかジェットポンプ。地上は駆動輪。空気中ならディーゼルエンジンが回って蓄電池に充電します。浅い海ならエンジンが回せるので排気管(と給気菅)は天井にあるのが合理的。また、この方式は動力の切り替えが楽でクラッチやトランスミッションが不要なのです。水中陸上両用車ならこれしかないでしょう。

    次は謎の数字。
    これは多分、絵画で言うところのキュービズム的表現ですね。

    小説の場合、視点の変更には色々制約があって難しいんですが、これだと複数視点を同時進行で立体的に書けますね。こんなやり方があったんだと目から鱗でした。

    でも読みにくい。

    そして最大の謎がこの世界観。
    地上は滅んでいるのか。
    水中では栄えているのか。
    それとも、双方で人が生きているのか。

    さっぱりわかりません。
    主人公の〝んー〟のお墓が地上にあって、バスが地上と水中を往復しているので敵対関係はないようですが、地上は静かで他の人はいないみたいです。

    どうなってんの?

    この奇妙な世界が美しく立体的に描写されているのは純文学的で西向き。
    しかし、キュービズムを取り入れたであろう表現方法は実験的で東向き。
    一風変わった終末的世界観はエンタメ的な北向き。

    さあ、どうしますか?

    私は敢えて真北だと宣言したい。
    きっと水陸両用戦車とか、水中発射戦闘機とか、色々出てくるに違いない……から。(出ねえよ!)

    感想は以上です。

    作者からの返信

    感想ありがとうございます!
    二年越しの返信ということで、非常に遅れてしまって申し訳ありません。

    本作はジャンル選択にて「SF」を選択しています。
    どうして選択したのかというとジャンルを選択しないと作品を公開させてくれないカクヨムのせいなのですが、それでもSFを選びました。
    私は本作執筆においてSFは一切意識しなかったのですが、ジャンルをあてるなら間違いなくSFだろうと思います。
    そして暗黒星雲さんはバスについてSF的視座から考察してくれました。(おそらく暗黒星雲さんは本作が「SF」を選択していることをチェックしたわけではないと思うのですが)そのジャンル感が伝わったような感じがして嬉しかったです。
    バスの動力について(お察しのとおり)私は何も考えなかったのですが、まあこのバスなら排気管は上だよねーという感覚は私も持っていました。側面下部にはないだろうと。

    SFでは、演繹的考察が合うものと、帰納的考察が合うものの二つあるように思います。本作は後者。
    世界の基本設定みたいな前提を作中で示し、そのうえで人や社会や物といった個別事象を配置していくSF作品では、演繹的考察が合うと思いますし、それが評価にも影響するだろうと思います。暗黒星雲さんのSF作品はこちらが多い印象。
    一方世界の基本設定みたいな前提は作中で示さず、人や社会や物といった個別事象から世界の基本設定を想像していくSF作品では、帰納的考察が合うと思います。私はSFを執筆するときにはこちらを好みます。
    そして演繹的考察SFは基本設定が個別事象を管理するので「前提設定がこうなら、この個別事象はおかしい」的な指摘が意味をなすわけですが、帰納的考察SFは個別事象が基本設定を管理するので個別事象に対して「おかしい」的な指摘をするのはナンセンスになります。
    これは現実世界と同じで、観察された事象がどんなに理論と相違したものであったとしても、それでもって否定されるのは実際に観察された事象ではなく理論のほうである。

    暗黒星雲さんが仰るとおり、本作がどういう世界なのかは作中で示されていません。個別事象が並べられ、そこから「水中で社会が構築され、時折地上に赴いて墓参りなどをする世界」という世界像が帰納的に解釈されているだけです。
    なので個別事象から材料を得られない世界像については(お察しのとおり)正解めいたものはないわけです。
    暗黒星雲さんの
    ―――――――――――――――――――
    そして最大の謎がこの世界観。
    地上は滅んでいるのか。
    水中では栄えているのか。
    それとも、双方で人が生きているのか。

    さっぱりわかりません。
    主人公の〝んー〟のお墓が地上にあって、バスが地上と水中を往復しているので敵対関係はないようですが、地上は静かで他の人はいないみたいです。

    どうなってんの?
    ―――――――――――――――――――
    については、(お察しのとおり)「さっぱりわかりません」「どうなってんの?」を楽しむのが妥当なわけですね。これを楽しめる人が帰納的考察SFには合っていると思います。

    ちなみに「水中で社会が構築され、時折地上に赴いて墓参りなどをする世界」という世界像は、締めの
    ―――――――――――――――――――
    「こんにちは」んーの口からあぶくが溢れた。あぶくは空をどこまでも、どこまでも昇っていった。
    ―――――――――――――――――――
    にて半ば否定されています。
    これは方角的に見ると、帰納的考察SFを深める北西的な性質と、それまでの読者の予想を最後で裏切る真北的な性質を併せ持っていると作者は捉えています。



    数字パート(私はこれを「前展」と呼びます)について、暗黒星雲さんはキュビズムを持ちだしてくださいました。
    私は「前展」について、関連性のある表現ではありながらもキュビズムの文章表現化とまでは認識していません。

    確かに複数の視点を同時に鑑賞させるという意味においては非常にキュビズム的だと思います。人が自然に感受しうる情報形式・情報量を逸脱している感覚はキュビズムのそれに近しい。
    と同時にそういう性質がキュビズムと共通しているということを考えると、「でも読みにくい。」との印象は「前展」の短所ではなく特徴であると私は捉えています。キュビズムを「見にくい」と評するみたいなことなので。

    ただキュビズムと「前展」には、手法として相違もあるだろうと私は考えています。
    私はキュビズムに詳しいわけではないのですが、基本的にキュビズムは単一のモチーフを複数視点にて描く手法であると私は認識しています。例外はあるでしょうが、基本的にはモチーフは単一。
    一方「前展」は、モチーフ自体が文章ラインによって違うのですね。「1」はんーとテテアが話して生まれるあぶく、「2」は二人の会話内容。「3」は水上部の情景、「4」はんーの心情、「5」は水面下部の情景。モチーフ自体が違う。
    そこは明確にキュビズムと相違していると考えています。
    その状況という単一のモチーフに複数視点をあてているんだと考えればキュビズムの定義に入れられないこともないとは思いますが、イメージしているそれとはやはり違うだろうと思います。

    こう考えてみるとわかりやすいのですが、12と345の場面を素直に絵画的・映像的表現に起こしてみるとキュビズムになるかというと、全くならないんですよね。んーとテテアが会話をしてあぶくが昇る様、水上と水面下の情景とんーの心情が描かれるバス移動の様、普通に描けちゃうと思います。
    またそこに「前展」の妙を宿そうと思えばもうひとつ二つの模索が必要になるのですが、その表現は必ずしもキュビズムに寄るものではないだろうと想像します。
    なので「前展」はキュビズムの文章表現化とは別に発生した手法である、と私は認識しています。関連性はあるが明らかに同一ではない。そもそも私は「前展」を用いるにおいて、キュビズムの文章表現化を理念に掲げていませんからね。

    一方67についてはどうかというと、こちらはモチーフは単一っぽいのですが、今度は逆に視点が似通いすぎている。各文章ラインに6と7があてられているように、二つの文章ラインはほぼ同じ。
    キュビズムってひとつの視点では描けない側面を別視点にて補いあうという性質があるように思うのですが、67についてはひとつの文章ラインで書こうと思えば書けるんですよね。ひとつの文章ラインで書ききれるはずのものを、わざわざ削ってもうひとつの文章ラインで補いあっている。
    言うなればマッチポンプ的なキュビズムで、あえてキュビズムに照らすと非常にお粗末な仕上がりだと思います。
    だからこそ、「前展」はキュビズムとは位置づけの異なる手法なんだなと作者は捉えています。
    それはそれとして67については、キュビズムとは位置づけの異なる「前展」だとしても自己評価は割と低めなんですけどね……。



    ―――――――――――――――――――
    この奇妙な世界が美しく立体的に描写されているのは純文学的で西向き。
    しかし、キュービズムを取り入れたであろう表現方法は実験的で東向き。
    一風変わった終末的世界観はエンタメ的な北向き。
    ―――――――――――――――――――
    良い方角解釈だと思います。
    描くために用いた表現方法は東向き、それによって描かれている表現対象は西向き。全体の世界観そのものは北向き。
    北向きの世界で、西向きの美を東向きに描く。
    作者の想定自体とは多少違うのですが、作者の想定と違うことは大した問題ではありませんので、作者としても納得感のある方角解釈です。

    なお、
    ―――――――――――――――――――
    私は敢えて真北だと宣言したい。
    ―――――――――――――――――――
    については「うーん色々考えたけど、こうなれば大穴に全ツッパだ!!」という意味だと思ってます。
    真北が大穴になり、そんな大穴真北に賭けてみたくなる作品。と思ってみると作者としては、ちょっとだけ気分が良いです。そういう作品、あまり例がなさそうなので。

  • 呼吸の肩。への応援コメント

    すごいです!ゾワゾワしますね!
    宣言が、南以外1/3ずつですね。数字パート、面白いなあと思いました。こちらが東要素でしょうか。あと、んーがお墓参りに行く、と言う目的は辛うじて理解出来ましたので、ここが北要素かなと思いました。そして、実は、とても綺麗な描写で心情が綴られていたりするので、これが西要素でしょうか。でも全部読むと、南に思えます笑

    とあれこれ推測してみたものの、もはや方角関係なく、すごいです。このような文章形態を見たことが無いですし、語られている内容も理解の範囲を超えていて、この内容を文章化できるなんてすごいと思いました。いいものを読ませて頂きました。

    作者からの返信

    感想ありがとうございます!
    二年越しの返信ということで、非常に遅れてしまって申し訳ありません。

    本作が北1/3、西1/3、東1/3(つまり「北西かつ北東」)になれているかは別として、北西東がおよそ均等に混ざりあうことで一見すると南のように見えるというのは、ひとつの感覚としてはあるかもしれませんね。
    甘味と塩味と辛味が均等に混ざった物を食べると、一瞬初めての味に感じられる、みたいな。
    ただそれはそういう感覚になってしまうこともあるという程度の話だと思うので、北と西と東に腑分けすることは決して難しくないだろうと思います。
    愛崎さんも実際そのように仰られていますからね。概ね愛崎さんの理解のとおりで良いと思います。ありがとうございます。

    自己評価としては、本作は北1/3、西1/3、東1/3である必要性は必ずしも高くない作品だと思っているんですよね。
    北西作品で良くないか北東作品で良くないか、に答えられていない作品。どうして「北西かつ北東」である必要があるんだ、という根拠が強固でない作品。
    ただ、答えられたほうがいいのか根拠が強固であるほうがいいのか、、という評価についてはまた別の話で、作者としては何とも言えないなと感じています。
    この辺りが強固になると作品全体がつるんとして洗練はされるだろうと思うのですが、ここが強固でない茫洋さゆえに、
    ―――――――――――――――――――
    とあれこれ推測してみたものの、もはや方角関係なく、すごいです。このような文章形態を見たことが無いですし、語られている内容も理解の範囲を超えていて、この内容を文章化できるなんてすごいと思いました。いいものを読ませて頂きました。
    ―――――――――――――――――――
    という愛崎さんの感想が得られている気もしまして、そしてそれは実は本作にとって大事なものであるようにも感じられ、自己評価という色眼鏡では何とも言えないなーなどと思っています。

    それはさておき私は愛崎さんは真北エンタメの方だと認識しているのですが、愛崎さんの感想は本作の概容を捉えているものであり、驚きと嬉しさを感じました。ありがとうございます。
    「ゾワゾワ」という語彙選び、良かったと思います。

  • 呼吸の肩。への応援コメント

    これは理解できないけど、理解されることははなから求めていない感じですか。南西か南南西あたりかなという気がします。

    途中の数字パートは数字が振ってあるだけ親切ですね。ここは理解されようとした痕跡が見られます。数字がなければ完全に南向きなんですが。

    作者からの返信

    感想ありがとうございます!
    二年越しの返信ということで、非常に遅れてしまって申し訳ありません。

    「理解」とは何なのかという話だろうと思います。
    (「北西かつ北東」が宣言方角なので当然ですが)真北的な理解は求めていませんが、北西的・北東的な理解は求めています。
    もちろん北西的・北東的な理解を求めているからといって同様の理解が得られているかは作品次第ですが、少なくとも本作を南西か南南西に位置づけるのは現実的ではなく、「理解」とは何なのかを考えるウェイトはゆうすけさん側に預けられているのだろうというのが私の認識です。
    それを考えると「理解されようとした痕跡」という印象のニュアンスもまた違って見えるだろうとも思います。
    数字に言及することが「理解しようとした痕跡」なのだと、私には見えています。

    南向きは「よく理解できない」を放りこんで終いにするための場所ではありませんので、率直に残念です。

  • 呼吸の肩。への応援コメント

    おもしろいですね! まるでポツ、ポツ、と垂れる雨だれが、次第に増えてポタタンポタタンみたいに重奏になるような感じがしました。あとは、ピカソの絵のような。
    ちゃんとお墓参りに行くというストーリーがあるので北、そして構成の工夫で東、しかし西の要素はやや弱めに感じました。1/6くらい? でも私、方角音痴ですので……。

    作者からの返信

    感想ありがとうございます!
    二年越しの返信ということで、非常に遅れてしまって申し訳ありません。

    ―――――――――――――――――――
    まるでポツ、ポツ、と垂れる雨だれが、次第に増えてポタタンポタタンみたいに重奏になるような感じがしました。あとは、ピカソの絵のような。
    ―――――――――――――――――――
    こういう印象を持たれたということから、おそらくオレンジ11さんは数字パート(私はこれを「前展」と呼びます)について私が想定する読み方で読んでくださったのだろうなあと思います。
    「重奏」とか「ピカソの絵」とか、鑑賞感覚だけで言うと確かにそれっぽいなと思います。
    良い捉え方だと思いますー。ありがたい。

    方角については、まず「お墓参りに行くという軸のストーリーがあるから北」というのはしっかりした方角認識だなと思います。
    目的設定は北の特徴なわけですが、本作は書き出しがそのまま目的設定になっているわけですね。
    ―――――――――――――――――――
    「お墓参りに、行かないと」
    ―――――――――――――――――――
    これが目的設定そのもので、「物語の早い段階で目的を設定して読者が何を軸にすればいいのかの読み方を示そう」というエンタメ定石をいち早くかつ正面から踏まえている。
    むしろエンタメ定石を踏むのがあまりにも早すぎてあまりにも正面すぎて、逆にエンタメらしからぬ手触りになっていたらいいなと思っています。真北すぎて真北じゃない。
    ここを捉えて「北だな」とするのは、方角音痴とは思えない捉え方だと思います。

    逆に西については、どうして西の要素を弱めに感じられたのかを教えていただけると嬉しいなーと思います。「西の要素」とは何なのか。
    「北の要素」「東の要素」に比べて「西の要素」って言語化しにくいのですが、どうして言語化しにくいのかというと「西の要素」は一意に定まりにくいからです。一意に定める試みは野暮という声が出てくる。
    なので、オレンジ11さんが何をもって「西の要素」の濃淡を見定めたのかが気になりました。
    それとは別に、本作は北西的なのか北北西的なのかについては議論の余地がありますけどね。


  • 編集済

    呼吸の肩。への応援コメント

    美しいけど悲しい、不思議な雰囲気を感じました。
    特徴的な数字パートを、何回も読み直しました。
    独特の表現を使われていることで、
    詳しく知りたいとひきつけられます。

    方角は、東北東かなと思います。
    どちらかというと、やっぱり東が強いように感じました。

    作者からの返信

    感想ありがとうございます!
    二年越しの返信ということで、非常に遅れてしまって申し訳ありません。

    数字パート(私はこれを「前展」と呼びます)の読み方は自由なので、基本的にはそれぞれの読み方で読んでくださればと思います。
    そのうえで、一番面白みが出るだろうという作者の想定はあります。
    数字はその文章ラインを識別するためのものです。それぞれの文章ラインを個別に読んでもいいのですが、個別に読んだあとに全ての文章ラインを同時に読んでみると一番面白みが出るんじゃないかなと作者は思っています。

    「美しいけど悲しい」という感想を持たれたのが印象的でした。
    「美しい」は単に描写的・作中世界的なことを指されているのかなと思うのですが、「悲しい」については作中ではそれをアピールしているわけではないと作者は認識しています。少なくとも登場人物は「悲しい」という感情を抱いているわけではないと思います。
    ただ読者である旗尾さんが「美しいけど悲しい」という感想を持たれたのは、作者としてもそんなに突飛な受けとりではなく、むしろ自然な受けとりだなあと思います。
    ではこの「悲しい」はどこからやってきたのか、というのを考えて言葉にしてみると楽しそうだなあと思いました。「美しい」と「悲しい」を「けど」でつなげている点も併せて。