第32話
もうこれ以上お世話になることはできない。
「大丈夫です。今日はこれを」
スーツの内ポケットから辞表を取り出す。
その手がどうしても震えた。
辞めたくないという気持ちが強くて、涙が滲んできてしまう。
「これは……辞めるんですか?」
ぐすっと鼻をすすりあげて、尚美は笑顔を浮かべた。
「両親が、実家に戻って来いって。事故に遭うようじゃ心配されても仕方ありませんし」
「そうですか……」
健一が落ち込んだ表情で辞表を受け取る。
「関さんは次期社長になるんですか?」
これはさっき同僚にも聞いた話なので、もう言っても大丈夫そうだ。
「あぁ。来週からは本社に行きます」
来週。
それならちょうどいいタイミングで会うことができたみたいだ。
「胃の調子はどうですか?」
これも、どうしても聞いておきたかったことだった。
早期発見とはいえ手術した身だ。
無理して働いてほしくはない。
しかしそう質問した瞬間健一は「え?」と、眉を寄せた。
尚美は慌てて「同僚たちから聞いて」と言い訳したのだけれど、健一は左右に首を振る。
「俺は胃がんのことは誰にも伝えてない……」
さっきまでの敬語が消えて、警戒した雰囲気が生まれる。
まずい。
つい心配で余計なことを口走ってしまった。
「な、なんでもないです。それじゃ、失礼します」
すぐにその場を後にしようとしたが、腕を掴まれて引き止められてしまった。
「誰から聞いたんだ?」
低く、威嚇するような声。
上司と部下という関係ではなく、純粋になぜ尚美が胃がんについて知っているのか聞きたがっているのがわかった。
尚美は小さくため息を吐き出す。
少し顔を見て挨拶をして終わるはずだったのに、ヘマをしてしまった。
これじゃ余計に離れがたくなるかもしれない。
尚美は涙を浮かべた目で振り向いたのだった。
屋上のベンチに座り、尚美はこの1年間にあったことをすべて告白していた。
「正直、田崎さんの言っていることは理解に苦しみます」
健一はこめかみを抑えて唸るように言った。
普通に考えれば尚美が健一のストーカーをしていたとか、部屋にカメラを仕掛けていたのではないかと疑うはずだ。
だけどこの1年間尚美はずっと意識不明だった。
ストーカーである可能性がゼロであるからこそ、健一は尚美がミーコであったという可能性を捨てきることができないでいた。
「勝手に走り出してごめんなさい。ミーコは今……?」
聞くと健一は左右に首を振った。
「女の子を助けに行ったことは覚えています。そこに車が突っ込んできたことも。だけど気がつくとミーコはいなくなっていたんです」
「え?」
てっきり死んでしまったのだと思っていたが、違うんだろうか。
いや、もしかしたら最初に私が助けたあのときにミーコはもう……。
なんて、わからないことを考えるのは不毛なことなのかもしれない。
尚美はこうして人間に戻って、ミーコはこつ然と姿を消した。
その信じがたいことが事実だった。
「これ、ありがとうございました。高いものを」
そう言って尚美がバッグから取り出したのは赤い首輪だった。
それを見た瞬間健一が目に涙をためて口を覆った。
「これは……」
「関さんが私の……ミーコのために買ってくれたものです。このネームプレート、お店で一番高いものでした」
健一は尚美から首輪を受け取ると、それを鼻先に近づけた。
「ミーコの匂いがする」
「私、ミーコでしたから」
そう言って少しだけ照れ笑いを浮かべた。
「君が……本当に……」
「私、お菓子が大好きです。猫用のお菓子も、猫になって食べてみると結構美味しかったし、本当にお菓子が好きなんだなって再確認しました。だから、ここを辞めてもたぶん似たような仕事をすると思います」
お菓子の販売をしているお店とかいいかもしれない。
お菓子コーナーの仕入れ担当になれば、棚一面を自分の好きなお菓子で埋め尽くすことができる。
うん、これからの未来も悪くない。
そう思わないと涙が溢れ出してしまいそうだった。
嫌だ。
やめたくない。
離れたくない。
そんな気持ちが溢れ出して健一に迷惑をかけてしまいそうで、怖かった。
「それと……関さんのことも、大好きでした。猫だったときも、人間だったときも……今も、まだ」
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