第27話

そして尚美は健一の膝の上で話を聞いていた。


「そうだな。今回のことでいつなにが起こるかわからないってこともわかったことだし、小会社で仕事をしている人たちのこともわかった」


健一が静かな声で話す。

「復帰したタイミングで次期社長としての勉強を始めさせてください」


お父さんへ向けて頭を下げる健一。

それを見て安堵の表情を浮かべる家族たち。


尚美は複雑な気持ちでそれを見上げていたのだった。


☆☆☆


私を撫でてくれる優しい手は、部屋に戻ってもパソコンを叩いているようになった。

私に頬ずりをしてくれる頬は、いつも厳しくひきつるようになった。


次期社長としての心構えができた健一は以前よりも更にハードな生活を送るようになっていた仕事量が膨れ上がり、その間に次の仕事を覚えていく。


だけど食事には気を使うようになっていた。

こんな大切な時期にまた病気でもしたら大変なのは健一だけでは済まされないからだ。


食生活がマシになったことは良かったと思うけれど、仕事が増えてほとんど休みがなくなってしまったことは尚美にとって気がかりなことだった。


部屋に戻ってきてもすぐに仕事を再開させてしまうから、一緒に遊ぶ時間はなかった。

また遊ぼうって約束したのに。


そんな不満が胸の中に膨らんできてしまう。

ダメダメ。


これは健一の将来のためなんだから、今は我慢しなくちゃ。

仕事が落ち着けば、きっと前みたいに遊んでくれるんだから。


そう思ってクッションの上で丸くなり、眠ったふりをした。


☆☆☆


健一が仕事に復帰して一月が経過したとき、久しぶりの休日がやってきた。


今までは休みの日でもリモートで仕事をしていたり、午前中だけ出勤したりしていてゆっくり休んでいる様子はなかったのだ。


でも今日は1日中オフだ!

久しぶりに甘えることもできる!


いつもよりもゆっくりと起き出してきた健一がソファに座るのを待って尚美はその足元にすり寄った。


こうすれば普段ならすぐに抱き上げて、そして頬ずりをしてくれていた。

それを期待していたのだけれど、一向に両手が伸びてくることはなかった。



見上げてみると健一は熱心に新聞を読んでいる。

「ミャア」


そんなもの読んでいないで、少し遊んで?

そんな願いを込めて自分から膝に飛び乗った。


そしてそのまま丸くなる。

ほら、いつもみたいに頭を撫でて。


背中も撫でてよ。

だけど健一は視線をミーコへ向けることはなかった。


「ちょっと、邪魔だから」

と一言いってミーコを床におろしたのだ。


その対応に愕然として健一を見上げる。

健一はまた新聞を熱心に読み始めてしまって、全く意識がこちらへ向いてはくれない。


「ミャアミャア」

ねぇ、散歩へ行こうよ。



あの公園にいるハトとハトおじさんに会いに行こうよ。

だけど言葉は通じない。


それでも今までは反応してくれていたのに、それすらない。

健一は時折気になる記事を見つけてはマーカーでチェックしたりしている。


「ミャア……」

前足を健一の足に乗せる。


返事をしてよ。

この家で、関さんが返事をしてくれなかったら私は本当にひとりぼっちだよ。


ジワジワと寂しさがこみ上げてくる。

ふたりでいるのに、まるでひとりでいるみたいだ。


ここ一月間、毎日がそうだった。

最近の関さんは、冷たくて硬い感じがする。


なにをしても、どれだけ鳴いても見向きもしてくれない健一に次第に尚美の心も冷えていく。



なにをしても答えてくれないのならもう期待はしないほうがいい。

そう思って自分のクッションの上で丸くなる。


わかってる。

これは単なるワガママだ。


健一はこれから大きな仕事を背負う人なのだから、猫一匹にかまっている暇なんてないのだろう。


なら、それなら。

こうなることがわかっていたのなら。


どうして私を拾ったりしたの?


1度でも人のぬくもりを知って、人に愛される喜びを知ってしまった私は、これから先どうすればいいの?


こんなにつらい気持ちになるのなら、いっそずっと、ひとりのままで良かったのに。



ふと気がつくと健一がソファから立って玄関へ向かっていた。

なにか、注文していた商品が届いたみたいだ。


玄関先で配達員の人と軽く会話をしているのが見えた。


あぁ、あのドアの隙間から外へ出ることができれば、またひとりになれるのかな。


もうなにも期待せず、悲しまずに生きていくことができるのなか。

そんな風にぼんやりと考えていただけだった。


実際に行動に移したりはしない。

だって、外がどれだけ怖い場所なのか、もう知っていたから。


健一の実家から病院まで行くこともできなかった自分が、野生として生きていくことなんてできるわけがない。


それなのに。

気がつけば尚美は全速力で走っていた。



閉まりかけていたドアの隙間に身を滑り込ませて廊下へ出る。


突然飛び出してきた猫に配達員のお兄さんが驚いた顔を浮かべるが尚美を止める暇はなかった。


けれどこの体ではエレベーターを呼ぶことはできない。

尚美は全速力のままで階段を駆け下りていく。


何段も飛ばして、体がひっくり返ってしまいそうになってもお構いなく駆け抜けた。


そしてエントランスまでやってきたとき、運よく山内さんが帰ってきて自動ドアが開いたところだった。


「ミャア」

と、山内さんに一声かけて外へ飛び出す。


空は曇天で、今にも雨が降り出してきそうだった。

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