第19話

健一に言われて我に返ると、いつの間にかハトおじさんもいなくなっている。

あの人は毎日ここでハトに餌をやっているんだろうか。


気になったけれど、聞けずじまいだ。

まぁいい。


また今度外へ出たときに聞いてみよう。

尚美はそう思い、歩き出したのだった。



動物同士であれば会話できるという衝撃的事実がわかってから一週間ほどが経過していた。


その間散歩へ行くことは1度もなく、他の動物と会話するチャンスはまだ来ていなかった。


元々猫が外を散歩すること事態日本では珍しいことだし、そう何度も散歩へ行くことはないだろうと思っていたけれど、さすがに少し落ち込んだ。


時折ベランダにやってくる雀を見つけては話かけてみるけれど、彼らは他人に興味を示さないようで、群れでの会話だけに熱中して、窓の奥にいる尚美の存在に気がついてすらいなかった。


雀と猫はあまり相性も良くないだろうから、それも仕方のないことだった。


残念ではあるけれど、気がかりなことがもうひとつあった。

散歩へ行った翌日くらいからずっと健一の様子がおかしいのだ。


すぐに息切れしたり、顔色が悪い日が長く続いていて、本人も気にしてビタミン剤や風邪薬を飲んでみたりしているけれど、効果があったとはいいにくい。



早めに病院へ行ってほしいと思うけれど、平日は忙しくて思うように動けないのが現状だった。


「それじゃ、行ってくるよ」

そんな声が聞こてきて尚美はすぐに玄関先へかけつけた。


そして健一の顔を見上げる。

今日は一段と顔色が悪い気がする。


青ざめて、目の下のクマもくっきりと見える。

「ミャアミャア」

今日くらいは休んで病院へ行ったらどう?


「どうした? 寂しいのか?」

健一が尚美を抱き上げて頭を撫でる。


いつもと同じなのに、どこか違和感のある香りが尚美の鼻腔をくすぐった。


なにかおかしい。


すぐに気がついたけれど、その時にはすでに床に降ろされていて、健一はそのまま会社へ行ってしまったのだった。


☆☆☆


健一の異変を感じ取った日は1日がとても長く、居ても立っても居られない気持ちで室内をグルグルと歩き回った。


健一は今頃どうしているだろうかと考えると、昼寝もできない。

そんな長い長い1日が終わったのは午後6時を過ぎたところだった。


ほぼ1日中キャットタワーの最上部に登って健一の帰りを待っていた尚美は、ついにその車が車庫へ入っていくのを見届けた。


そしてすぐさまキャットタワーから下りると玄関へと駆け出した。

早く早く。



早く玄関を開けて、顔を見せて。

焦る気持ちとは裏腹に健一はなかなか部屋に戻ってこない。


まさかここへ上がってくるまでの途中でなにかあったんじゃないか。

途中で倒れたんじゃないか。


そんな不安が1分1秒が過ぎるたびに深くなる。

尚美の心臓はドクドクと嫌な汗をかきはじめて呼吸が乱れる。


そうしている間にどんどん健一の気配が強くなってきて、ついに玄関が開いた。

尚美は勢いよく健一に飛びついた。


驚いた健一が「ただいま。そんなに寂しかったのか?」と、声をかけながら抱き上げてくれる。


よかった。

帰ってきた。

無事だった。



ホッとしたら今度は涙が出てきた。

ボロボロとこぼれだして止まらない。


こんなに不安を感じたのは久しぶりの経験だった。

「どうしたんだよミーコ、そんなに泣いて」


猫が涙を流すのは珍しいことなのだろうか。

健一は困り顔でミーコを抱いたままソファに座り込んだ。


そのままふぅと大きくため息をつく。

その息に乗ってやはり妙な匂いを感じ取る。


甘いような少し苦いような、なんと表現すればいいかわからない匂い。

だけどどこかで嗅いだことのある匂いだ。


それがどこで、どんなときに嗅いだ匂いであるか、思い出した瞬間尚美はサッと血の気が引いていった。



あれは5年前。

尚美のおばあちゃんが入院したときのことだった。


ひとり暮らしをしていたおばあちゃんが家で倒れて救急搬送されたとき、すでに末期がんを患っていた。


家族でお見舞いへ行った時にかすかに感じたあの匂いとよく似ている。

これは……死の匂いなんじゃないか。


猫になった今、尚美はその匂いを敏感に感じ取っているんじゃないか。

「ミャアミャアミャア!」


火事のときと同様に激しく鳴いて健一に危険を知らせようとする。

けれど健一は今日は一段と疲れていてその声に反応してくれない。


「ごめんよミーコ。今日は疲れてるんだ。遊んでやれない」

「ミャアミャア!」



違う、そうじゃないの!

その疲れ方だって普通じゃないでしょう!


今すぐ病院へ行って!

「先に寝るよ。おやすみミーコ」


健一はそのまま1人で寝室へ向かい、ミーコが入れないようにドアを閉めてしまったのだった。


☆☆☆


気が気ではないままリビングで朝を迎えた尚美はすぐに寝室のドアへと駆け寄った。

ドアはしっかりと閉められていて中の様子は確認することができない。


でも、もう少しでアラームがなり始める時間だ。

尚美はドアの前に座って健一が出てくるのを待つことにした。


健一の起床時間までが永遠のように長く感じられる。

昨日、健一の帰宅を待っていたときと同じように1分1秒が遅く感じられてしまう。


ジリジリとしたなにもできない時間が5分ほど過ぎた時、ようやく寝室の中でアラームが聞こえ始めた。


尚美は両手をドアについて2本立ちをしてそれを聞く。

アラームはなり続けて、そして消えてしまった。


健一が消した様子は感じられない。

「ミャア!!」

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